#雨に佇む
ザァザァと雨が降る。バケツをひっくり返したような雨だ。真っ黒な雲から落ちてくる雨は、街灯の光を受けて白く光る。まるで白い糸が落ちてきているかのようだ。人は歩いていない。車も走っていない。野良猫もたぬきも歩いていない。当たり前だ。大雨警報の出ている夜なのだから、出歩いている方が問題だ。
ザアザアザアと雨の音だけが響く。先ほどよりもさらに雨足が強くなったようだ。落ちてくる雨粒は、アスファルトではなく水の膜に当たって、波紋を広げながら弾けている。こんな夜に出歩いているものはいない。誰もいまさら、避難などしない。懐中電灯は意味をなさない。光を反射した雨が壁のように立ち塞がる。
こんな大雨の夜には、誰も出歩かない。
それなのに。
いきなり、ナニカがぬっと現れた。街灯の明かりの下、雨が白い柱のように見えるそこに、一際白いナニカが現れた。真っ白な影。人型に見えるが、足は地面と—あるいは水の膜と—一体化しているように見える。歩いているようには見えない。水飛沫も上がらない。しかし、白い影はゆらりゆらりと揺れ、じわりじわりとこちらに近づいてくるように見える。
ゆらりゆらり
じわりじわり
じわりじわり
ゆら〜りゆらり
白い影は近づいてくる。時折り吹く風に大きく揺られたりしつつも、確実に近づいてくる。白い影に顔はない。脚はおろか腕があるのかも現時点では定かではない。いや、雨が顔なのだ。雨が身体なのだ。雨粒は人型に当たって弾けることはない。雨は人型の上を流れることもない。雨の白い糸が人型を形作っている。街灯に照らされる範囲は全体的に白いのに、人型はその白よりもさらにワントーン明るい。人型の部分だけ雨が濃密に降っているのだろうか。まるで発光しているかのように、白い。
真っ白な影の前進が止まった。あと少しで軒下というところで、止まった。完全に止まったわけではない。白い影は前後に、左右に、モゴモゴと動いている。雨の貫く白い頭部にもちろん表情はない。ただ、その動きは困っているかのような不規則さ、不安定さでモジモジとしているようにも見えた。体の側面がモゾモゾと動くから、腕はあるようだ。だが、どんな動きをしているのかはわからない。白い影は困ったように首を傾げたり、グッと前進して大急ぎで後退りしたり。軒下に入らないままモゴモゴモゴモゴと動いている。
どれくらい時間が経ったのだろうか。だんだん雨が弱くなってくる。空も白んでくる。道路の水はどんどん側溝に流れて、アスファルトが顔を出す。その間に、白い影は消えた。
雨が止んだ。
カラスが鳴いた。
いつもの米屋のオヤジがやってきた。手にはタオルを持っている。しげしげと眺めたのち、オヤジの姿が消えた。しゃがんだのだろう。商品取り出し口と釣り銭口をタオルで拭いた。そして、ポケットから500円玉を取り出すと、投入口に入れる。ピカッと全てのボタンのランプがついたのを確認して、親父は返却レバーを押す。カタンという音と共に無事、500円玉は釣り銭口に返る。オヤジは満足そうな顔で何も買わずに帰って行った。
米屋のオヤジは何も知らない。雨に佇む白い影がいたことなど知らない。これから1週間の間に事故でも事件でも起こって、映像が回収されない限り知ることはないだろう。
昼でも夜でも晴れでも雨でも、ずっと軒先に佇んでいる自動販売機しか知らない、白い影の怪奇現象。
#裏返し
短歌
裏返しの靴下に宿る祖母の知恵
#光と闇の狭間で
自分が属する組織が、正義なのか悪なのかは知らない。仲間の誰も知らない、文面でしか知らない「お上」の指令に従って、必要な情報を得てはそれを文面で「お上」に報告するのが自分の仕事である。ただ、自分が大きな組織の駒であるということだけ理解して、立場をわきまえた動きをしていれば安泰。
のはずだった。
雪が降りしきる中、歩いて走って歩いて、やっと見つけた人目につかない建物の軒下。
(あぁ、寝てしまいそう……)
眠気からくる独特のふわふわとした浮遊感。意地でこじ開け続けているまぶた。しかし、瞳には景色という景色は映らず、彼の視界にあるのは光の白さだけ。眠ってはダメだと頭の中ではわかっている。この状況で眠ることが何を意味するのか、嫌になる程この目で見てきた。
ある日を境に、自分たちは情報を追う側の役回りだったはずなのに、一変して追われる立場となった。以来、「お上」からの指令はない。自分と仲間たちは、ひとまず生き延びるために「お上」の指示にはない逃げるという行為をしている。生まれて初めて、というわけではないが、組織に所属してからは常に「お上」の指示に従って、「お上」の規定と照らし合わせて動いていたものだから、自分で判断して行動するというのはどうにも新鮮で、迷いが生じる。行動が正しいのか間違っているのかわからない。そもそも逃げるという行為が正しいのかも不明だ。追手はなんとなく自分たちと同じ匂いがする、ような気がする。もしかしたら、本当は仲間なのかもしれない。しかし仲間なら銃や刃物を構えて追いかけてくることはないだろうから、やはり敵なのかもしれない。
仲間は一人、また一人と減っていった。追手にやられてしまった者ももちろんいるが、1番の理由はこの寒さだ。降り続く雪、凍てつく寒さ、靴を履いているのにゴム底を突き抜けてくる地面の冷え込み。夜が明けるたび、人数が減っていく。どんなに一箇所に集まって身体を引っ付けあっても、翌朝には誰か一人は冷たくなっている。
そして、今朝。ついに自分一人となった。森の出口、大樹の陰で、これまで何度か意識が危うくなりながらもしぶとく生にしがみついていた仲間が、ついに眠りから覚めなくなった。その凍った寝顔が安らかで幸せそうなのがせめてもの救いだった。
そして、その寝顔の理由を今、自分は知りつつある。ゆっくりと落ちていく意識。空気の中に溶けていく五感。目の前は真っ白で影一つ見えない。四肢の感覚がない。鼓膜は凍ってしまったのか震えない。冷たい空気が鼻腔を刺すが、匂いはわからない。口の中はカラカラで、唾液の味もとうの昔にしなくなった。鈍くなった感覚によって苦痛が遮断され、その反動で多幸感に包まれる。
真っ白な視界に徐々に灰色が侵食してくる。瞼に力が入らない。一瞬視界が暗くなるたびに眼球がクルクルと動いて、どうにか光を映そうと模索する。
灰、黒、灰、黒、黒、灰、黒、黒、黒、灰、黒……
視界が真っ暗になる。おかしいな、座り込んだ場所の斜め向かいには街灯があるから、真っ暗闇ではなかったはずなのに。まだ思考は巡っているが、頭の中も視界と同様に真っ黒で、どんなに脳内で言葉を並べても黒へと溶けていく。どうやら走馬灯が見られるかどうかは人によるらしい。
生き残るのが一番の使命、生き残るのがいちばんの使命、生きのこるのがいちばんの使命、いきのこるのがいちばんのしめい……。
組織に所属した初日にかけられた言葉が脳内でこだまする。そのこだまも次第に闇に溶けていく。
「僕、死ぬ気なのかい?」
組織のリクルーターに声をかけられた時のセリフが頭を駆け巡る。あの日は確か、アスファルトの上で真夏の太陽にジリジリと焼かれていた。背中に火傷の痕が残るほどに。その傷は寒さでジクジクと鈍く痛みを発している。五感の全てが消え去っても尚、残っている感覚。これを感じなくなったら、自分は死んでいるのだろう。
「い……き、る」
もう耳も聞こえないからちゃんと発音できたかどうかすらわからない。ただ、どういうわけだかわからないが、これまで自分から死のうと思ったことは一瞬たりともない。
もう何も感知できないはずなのに、誰かが笑った気がした。確か、あの日も笑われた気がする。いや、ため息だっただろうか。思い出そうとするが、やはり走馬灯は走らず、真っ暗な視界の中で闇色の人影がゆらゆらと揺らいだ。背中の痛みと共に意識が、ゆらめきながら溶けていく。
#優越感、劣等感
優越感と劣等感は表裏一体の感情だというが、他者と比べている時に起こる感情である点で表裏一体と言われるだけで、優越感を感じる者が劣等感を、劣等感を感じる者が優越感を、必ずしも覚えるとは限らない。少なくとも私はそうだと思う。
これまでの人生、私が鈍いだけかもしれないが特に他人にバカにされたことはないように思う。その原因を考えるに勉強も、運動も、家族や教師からは何においても中の上または上の下と評価されるからだろう。確かに提示される模試や体力テストの数字は常に上位20%以上にいるので、客観的に見てそういう評価なんだなと素直に受け止めている。容姿についてもさほどネガティヴに言及されることはないので一般人としては及第点というところか。
しかしながら、優越感なんてものはなくただただ劣等感が強い。多分これは親に「なんで1位は取れないの」「なんで100点取れないの」「なんで○○ができて××はできないの」と言われ続けた結果だと思う。期待の裏返しなのだろうが、私は天才でも万能人でもない。
確かに数字で見る限り一般大衆よりできることは多いようだけれど、結局「でも△△はできないしな」と思うことで優越感を覚えるより先に劣等感が押し寄せてくる。褒められればそれはそれとして受け止めるし、プラス評価であることは嬉しいが、だからといって鼻高々というわけではない。「できる人」みたいな扱いはしないで欲しい。「別にトップじゃないんだよな」という気持ちを抱かせないで欲しい。
傲慢になれないという点では良い性格なのかもしれないが、一方で側から見れば「よくできる」人間に分類されがちなので、劣等感については理解などしてもらえない。客観的に見た能力は高いのに劣等感を募らせた人という、ある意味厄介で危険な存在である。一歩間違えて劣等感が許容範囲を超えれば化け物になりかねない。そんな劇薬を胸に抱えて、今日も私は生きている。
#これまでずっと
これまでずっと不思議だった。
どうして人間は一定の年齢を超えると皆似たようなことしか言わなくなるのだろうか、と疑問に思っていた。例えば勉強しろとか、良い会社に就職しろとか、25歳過ぎたら早く結婚しろとか。どんな人生を送るかなんて個人の自由で、全員が全員メインストリームに合うわけではない。他人のことなのだから口出しせずに見ていれば良い、好きにさせれば良いと思っていた。
けれど、自分も歳をとってみるとわかる。結局人生において学校の勉強、要は基礎学力は大切でこれがなければ何にもなれないし、今の社会状況だとできるだけ良い会社に入らないと自分1人の身すら養うのが危うくなる。そして一緒に暮らしても良いかなと思える相手を見つけて一緒になれたなら経済的に楽だし、互いに仕事を続けるならリスクヘッジにもなる。これらをすっ飛ばして自由に生きれるのは、生まれつき特別な才能がある人や、後天的にでも一定以上の能力を身につけることができた人たちだけなのだ。
尚、子をもうけるかは各自の自由だが、欲しいなら身体的に適齢期にした方が母子共に色んな意味でリスクは低くなるから早めに判断した方が良いのだろう。これも年寄りから多々言われることである。まぁ、適齢期に産んだとこで親が死にかけたり、子供が死にかけたりすることはある——自分が生まれた時の話なのだが——ので一概には言えないが。こればかりは賭けであり運である。
結局人間はこれまでずっと似たようなことで思い悩んでおり、きっとその局面の判断で人生が安定と波乱に分かれてきたのだろう。きっと今生きている人たちが生きてきた時代において社会システムはあまり変わっていなくて、安定かつ妥当な人生を得るための選択肢はあらかじめ決まっているのだ。そして、それはここ数年のリベラルな主張によって変わる脆弱な代物ではない。
そうである理由の一つに、人間の寿命自体は伸び、教育を受ける期間も実質的には伸びていても、人間の体の耐久性は変わらないことがあるのだろう。仮に人間の身体が自然に健康にいられるのが40歳までだとすれば、それまでにいかにキャリアを積み重ねつつライフイベントを終わらせておくべきかというのは自ずと判明する。きっと20代のうちにバリバリ働いて基本給を上げたほうが良いし、40歳になるまでに子供が小学生になっていた方が良い。だから年寄りたちは寄ってたかって同じアドバイスしてくるのだ。
これまでずっと続いてきた人間の営みの基本リズムは、どんなにテクノロジーが発達してもそうそう狂うことはないだろう。これまでもずっと、そしてこれから先も、非凡な人間じゃない限り、ちゃんと勉強して、良い会社に就職して、結婚して、子供が欲しければ早めに産むのが、平凡な人間にとって人生の安全牌であり続けるのだ。