#1件のLINE
たった1件のLINEで、その日の気分が決まることがある。
せっかく親元を離れてのびのびと生活していたところに、親からのLINEが入ると途端に気分が萎える。それも、今何をしているのかと聞かれたら最悪だ。別に親元を離れたところで、悪いことなど一つもしていないので知られて困ることはないが、離れたところにいても監視しているぞと言われているような気分になる。
いや、実際監視なのだ。既読をつけて返答すればカメラオン強制の電話がかかってくるし、未読にしていても同様の電話がかかってくる。親の、正直言ってどうでもいい近況を事細かに聞かされ、生活状況について今度は根掘り葉掘り聞かれ、それにうっかり素直に答えるとディスられるので多少なりとも話を盛って少しは創意工夫しているような雰囲気を醸し出さねばならない。ビデオ付きなので別の作業もできず、ただただ時間を奪われる。通話が切れた時にはドッと疲れて最悪の気分になっている。
一方嬉しくなるようなLINEもある。普段は滅多に連絡を取らないものの、友達からのLINEが来ると嬉しい。その日は一日中ハッピーだ。幸せよりハッピーという言葉の雰囲気の方が近い。スーパーに行ったらちょっとデザートを買ってしまうくらいには嬉しい。別に友達と話すのは嫌いじゃないから、毎日のようにやり取りできたらそれはそれで楽しいだろうが、いかんせん私の生活には話のネタがない。時たまやってきたLINEに返信して、近況を報告するくらいがちょうど良い。
まぁ、大抵マイナスな1件の方が多いから、定期的にLINEをアンインストールしたくなる。1件のLINEによって気分をかき乱される日々から、早く脱したい。
#目が覚めると
目が覚めると、やけに世界がくっきりと明瞭に感じられた。
レースのカーテンはこんなに白かったっけ、その合間から覗く空はこんなに青かったっけ、髪の毛に残るタバコの匂いってこんなに煙たかったっけ、シーツはこんなにツヤツヤした触り心地だったっけ、時計の秒針の音ってこんなに大きかったっけ。
ゆるゆると身体を起こす。筋肉が、関節が、骨が、軋むような音を立てた。半分くらい上体を起こして一息。よいしょと腕に力をこめて身体を起こす。長座の姿勢になると胸の奥まで空気が入ってくるのを感じた。目の入るふくらはぎは記憶の中よりも幾分か細い気がした。そして、肌がカサカサに乾いている。
ふと、猛烈な喉の渇きを感じた。と同時に口内のなんとも言えない酒臭さと腐臭が混じったような不快な臭いが鼻腔へと流れる。固まった身体をどうにか動かして、のろのろとキッチンに向かった。棚から虹色に光って見えた大きめのグラスを取り出して、水道水を入れる。ジャーッと蛇口から水が出る音は大波が押し寄せているかのような響きに感じられた。一口含んでうがいする。そして、グラスに残った水を全て飲んだ。もう一度グラスに満杯に入れた水も飲み干した。それでもまだ喉が渇いている気がする。
「それくらいにしておきなよ。そのグラス大きいから水中毒になるよ」
いきなり知らない人の声が聞こえた。動きを止めて、グラスを見つめていた顔を上げる。男。30代ぐらいか。見た目は若いが20代にはなんとなく見えない、謎の貫禄と迫力。
誰、と聞こうとしたが、声が出ない。カラカラに乾いた喉を生暖かい息が通っただけだ。とりあえず視線で訴える。あなたは誰なのかと。
「覚えてないの?昨日クラブで会ったじゃん。君、大人しそうなのにヤバそうな人たちに囲まれて、意外にも周りに助け求めずにガンガン注がれた酒飲んで、ベロベロに酔って……」
聞かされた内容に居た堪れなくなって、視線を落とした。手に持っているグラスは確かに見覚えのないもので、ピカピカのシンクや蛇口も水垢だらけの我が家とは対照的だった。勝手に人の家のものを使ってしまった。そんなこと、今まで一度もなかったのに。
これまでずっと真面目に生きていたけれど、昨日最悪なことがあって、何か自分を変えたくて、普段なら絶対行かないところーークラブに行ったことは覚えている。クラブと聞けば想像するようなミラーボールが回っていて、店の照明の色も数秒に1回変わるような忙しなくて騒がしい空間で、柄にもなく気持ちが浮き立ったのは覚えている。ただ、そのミラーボールの記憶から後をほとんど覚えていない。
男が近づいてくる。そして自分の顔をじっと見つめてきた。
「あー、やっぱ瞳孔開いてるね。何か盛られたんだろうな。とりあえず酒による脱水分の水分は取れただろうし、もう一回寝てなよ。今日は絶対安静」
「……」
「心配しなくていいよ。手出したりしないし。闇だの藪だの言われてるけどちゃんと医師免許も持ってる。そこに免許あるでしょ」
指さされた先に視線を向ければ、確かに医師免許が額縁に入れて飾ってある。本物かどうかは定かではないが。
「なんか、割と頭は回ってるみたいだね。喉は酒焼けと筋弛緩が原因。まぁ、あのぶっ倒れ方を見ると筋弛緩剤は盛られたんじゃないかと思ってたけど、その様子を見ると確実だね」
どうやらこの男は何も言わずともこちらの状態を理解しているらしい。本当に医師なのだろうか。しかし、だとしたらここはどこなのか。今いる空間ーーきっとアイランドキッチン付きのリビングーーには医療器具の類は一切見えない。
「昨日さぁ、店近くの道路で車が玉突き事故起こして、そのせいで搬送できる病院無くて、俺酒飲んでて病院勤務できないから、とりあえず家で保護することにしたんだよね。脈はちょっと早かったけど呼吸は正常だったからさ。何がクスリの吸収を阻害したのかわからないけど、ショック状態じゃなかったし」
「……」
「まぁ、とりあえず寝なよ。もう一回寝て起きたら元に戻ってるかもよ」
そう言って男は自分の腕を持つ。渋々ベッドに逆戻りした。目を閉じる。ただ水を飲みに行っただけなのに疲れた。眠い。意識がずうんと落ちていく。目が覚めると世界の全てが元通りになっていますように、と眠りに落ちながら胸の上で指を組んで祈ったのだった。
#私の当たり前
【私の当たり前は
①タスクを溜めない
②余裕を持ったスケジュールを立てる
③健康が最高のコスパ!ご飯はしっかり食べる
の3つ。
やるべきことは自分の娯楽を後回しにしてでもさっさとやって終わらせたほうが良いし、割り込み事案があっても間に合うような余裕のあるスケジュールを立てた方が良いし、健康じゃないと何においても能率が下がるので健康維持が一番大事だと思っています。
とはいえ、これが不可能な人も中にはいるので、傲慢にならないためにもそのことは忘れずに生きなければならないなぁと思います。】
……なんて、最後に一応書いてはいるけれど、正直言って一般にいるできない人の理屈とか気持ちはよくわからない。一番わからないのはアルバイトに精を出し、単位を落とす大学生。
苦学生だというのならわかる。生活がかかっているならわかる。だが、大抵の学生は己の娯楽や欲望のためにわざわざバイトを忙しくし、勉強時間が足りなくなったり体調を崩したりしてテストで落第してりレポートを提出しなかったり、あるいは授業に規定回数出席しなかったりして単位を落とす。こればかりは正直理解できない。留年でもして余分に大学に通わなければならなくなったら、もっとお金がかかるのに。
もちろん私が恵まれているのはわかっている。絶対にアルバイトをしないといけない経済状況ではない、金のかかる趣味はない、身体もすこぶる健康で睡眠時間が短かろうと問題はない。それゆえ、課題等での多少の頼みなら聞いてあげる。課題そのものをやってあげることはないが、参考図書や参考論文を教えるくらいのことはする。
だが、だからといってグループワーク等の課題の大半を私に押し付けるのはいかがなものか。私のノブレスオブリージュの精神にも限界というものはあるし、別に私も暇ではない。いいとこ取りを許す優しさはないので、十分に覚悟してほしい。
#生真面目な私の当たり前
#街の明かり
夜の街を暗闇が支配する時代は終わった。世界は広いと聞くので外国であれば、未だ夜が闇で覆われる国あるのかもしれないが、少なくともこの国では終わった。都会の不夜城はもちろんのこと、田舎の道でも街灯がついており、あるいは民家からはぼんやりと光が漏れ出ているから、街明かりのない場所というのは即ち人のいない場所となる。
(人間に近づけなくなってどれだけ経つだろう……)
僕のような弱小の幽霊にとっては、非常に生きづらい時代となった。弱小の幽霊は光にさらされると固まって、その場から動けなくなってしまう。しかも身体は光に透ける。姿が見えないから人間に気づいてもらえない。驚いてもらえないし、もちろん意思疎通もできない。幽霊同士での会話は、新しい話のネタもなく堂々巡りばかり。一言でまとめるなら「非常に退屈」ということである。
幽霊というのは、大抵死んだ者のうちこの世に何かしらの未練があったり、あの世というのが怖くて必死にこの世にしがみついたりした結果、生まれるものである。ごく稀に本人(本霊?)に関係ない理由でこの世に残ることもある(そういう宿命的に残った幽霊は強者や猛者で光にも強い)が、大抵は自ら望んでこの世に残っている。僕も自ら強く望んでこの世に残った。訳あって生きている時は叶わなかったことだが、僕は色んな人と話したかった。話せなくてもなんとかして意思疎通してみたかった。人間にとっては迷惑極まりないだろうが、驚いてもらえるだけでも嬉しかったのだ。
それなのに、数十年前から段々と街は明かりで埋め尽くされ、弱小幽霊たちは行動範囲がどんどん狭まり、今や墓場から動けない状況になっている。とはいえ、街明かりが灯るようになってからも、肝試しと称して遊びに来る子供たちや若者がいた頃は良かった。彼らを望み通り驚かせたり、泣き虫な子供に握れない手であっても差し伸べて元気付けたりした。そんな日が一年に一日でもあれば十分だった。肝試しの日のことを幽霊同士で話すのも十分楽しかったからだ。
しかし最近は肝試しに来る人間すらいなくなった。少々の光には負けない強者の幽霊が言うには、最近は動画とかいうものが人気で、幽霊が出ると有名な場所や人工的な「お化け屋敷」を巡って動画というものを撮る人間はいても、有名でもなんでもない普通の墓地に来る人間はいないのだと言う。また、光に照らされても形が保てる猛者の幽霊が言うには、今の子供たちはそういう動画を見て十分に満足してしまうらしい。だからなんの変哲もない墓地までわざわざ来る人間はいないのだ、と猛者幽霊も肩を落として言った。
(この世に残る意味は、あるのだろうか)
人間と関わってみたい一心で必死にこの世に残ったものの、今やその目的は達成できそうにない世の中になっている。街の明かりが明るすぎる。強者や猛者の幽霊たちなら光の中でも動くことができるから、幽霊で有名な屋敷にでも神社にでも出掛けて行ける。この世に残っても楽しみはあるかもしれない。だが、弱小幽霊はそもそも光の中で動くことができない。自由に動くには完全なる闇が必要だ。あの世が怖くてこの世にしがみついている幽霊はいざ知らず、何かしら目的があってこの世に留まっている弱小幽霊たちにとっては明らかに潮時である。
目的が達成できないなら、この世に残る理由はない。そして、あの世へと渡るタイミングは一年に一度しかない。
「逝くのか」
彼岸花を眺めていると、猛者の幽霊に声をかけられた。彼は他者の願いによってこの世に繋ぎ止められている、宿命の幽霊である。死んだ年齢は近くないのだが、幽霊になった時期は近いので、長年よくしてもらっていた。
「うーん……そろそろいいかなって思いまして」
「……また1人仲間が消えるのか」
そう言われると罪悪感に押しつぶされそうになる。彼は光の中でも動ける代わり、自分の意思ではこの世から離れることができない。ずっと、ずっと、この世に残って、幽霊になったのに出会いと別れを繰り返さなくてはならない。
「いや、悪い。いいんだ。お前は自由に動けないんだから、この先ここにいたところで同じ日々を繰り返すだけだ。人間との関わりを望んでいるなら退屈だろう。あの世で休むのが良い」
「そういっていただけると気が楽です。光の中でも動ける皆さんの話を聞くのも楽しくないわけじゃないんですが、やはり自分で関われないのがなんとも」
「そうだろうな。達者で」
「はい」
彼は光の照らす道の方へと歩いて行った。僕はそれを見送って、真っ赤な彼岸花に食らいついた。身体が焼けるように熱い。ゆっくり、ゆっくりと街の明かりは僕の視界からぼやけて消えていった。
#七夕
旧暦では秋の行事であった七夕は、今や夏の風物詩となった。暦が変わって7月7日が梅雨の季節に移動してしまったのは、織姫と彦星にとっては不運なことに違いない。今夜も雨だ。私が物心ついた頃からの記憶では、織姫と彦星の逢瀬は一年に一回どころか数年に一回になっている。
とはいえ、ストーリーの原作である中国の「牛郎織女」の物語によると、織女は万物を支配する天帝の衣を織っている女であるし、牽牛も天帝に認められた男である。彼らが普通の人間であるわけがないし、そもそも彼らは人間なのだろうか。なにせ引き離す時に彼らの間に置くものは、天の川である。織女と牽牛は星の精霊か何かなのかもしれない。とりあえず普通の人間ではないのは確実だろうと思う。
そんな彼らが、地上にいる人間が暦を変えた程度で影響を受けるのだろうか。彼らは人間のやることなど気にしておらず、人間の心配などつゆ知らず、今も旧暦の時期、梅雨が明けた頃に再会しているのではないか。そんな考えが浮かんで天気予報を見て一喜一憂するのが馬鹿らしく思えてくるのと同時に、ほんの少し安堵する私がいた。