#目が覚めると
目が覚めると、やけに世界がくっきりと明瞭に感じられた。
レースのカーテンはこんなに白かったっけ、その合間から覗く空はこんなに青かったっけ、髪の毛に残るタバコの匂いってこんなに煙たかったっけ、シーツはこんなにツヤツヤした触り心地だったっけ、時計の秒針の音ってこんなに大きかったっけ。
ゆるゆると身体を起こす。筋肉が、関節が、骨が、軋むような音を立てた。半分くらい上体を起こして一息。よいしょと腕に力をこめて身体を起こす。長座の姿勢になると胸の奥まで空気が入ってくるのを感じた。目の入るふくらはぎは記憶の中よりも幾分か細い気がした。そして、肌がカサカサに乾いている。
ふと、猛烈な喉の渇きを感じた。と同時に口内のなんとも言えない酒臭さと腐臭が混じったような不快な臭いが鼻腔へと流れる。固まった身体をどうにか動かして、のろのろとキッチンに向かった。棚から虹色に光って見えた大きめのグラスを取り出して、水道水を入れる。ジャーッと蛇口から水が出る音は大波が押し寄せているかのような響きに感じられた。一口含んでうがいする。そして、グラスに残った水を全て飲んだ。もう一度グラスに満杯に入れた水も飲み干した。それでもまだ喉が渇いている気がする。
「それくらいにしておきなよ。そのグラス大きいから水中毒になるよ」
いきなり知らない人の声が聞こえた。動きを止めて、グラスを見つめていた顔を上げる。男。30代ぐらいか。見た目は若いが20代にはなんとなく見えない、謎の貫禄と迫力。
誰、と聞こうとしたが、声が出ない。カラカラに乾いた喉を生暖かい息が通っただけだ。とりあえず視線で訴える。あなたは誰なのかと。
「覚えてないの?昨日クラブで会ったじゃん。君、大人しそうなのにヤバそうな人たちに囲まれて、意外にも周りに助け求めずにガンガン注がれた酒飲んで、ベロベロに酔って……」
聞かされた内容に居た堪れなくなって、視線を落とした。手に持っているグラスは確かに見覚えのないもので、ピカピカのシンクや蛇口も水垢だらけの我が家とは対照的だった。勝手に人の家のものを使ってしまった。そんなこと、今まで一度もなかったのに。
これまでずっと真面目に生きていたけれど、昨日最悪なことがあって、何か自分を変えたくて、普段なら絶対行かないところーークラブに行ったことは覚えている。クラブと聞けば想像するようなミラーボールが回っていて、店の照明の色も数秒に1回変わるような忙しなくて騒がしい空間で、柄にもなく気持ちが浮き立ったのは覚えている。ただ、そのミラーボールの記憶から後をほとんど覚えていない。
男が近づいてくる。そして自分の顔をじっと見つめてきた。
「あー、やっぱ瞳孔開いてるね。何か盛られたんだろうな。とりあえず酒による脱水分の水分は取れただろうし、もう一回寝てなよ。今日は絶対安静」
「……」
「心配しなくていいよ。手出したりしないし。闇だの藪だの言われてるけどちゃんと医師免許も持ってる。そこに免許あるでしょ」
指さされた先に視線を向ければ、確かに医師免許が額縁に入れて飾ってある。本物かどうかは定かではないが。
「なんか、割と頭は回ってるみたいだね。喉は酒焼けと筋弛緩が原因。まぁ、あのぶっ倒れ方を見ると筋弛緩剤は盛られたんじゃないかと思ってたけど、その様子を見ると確実だね」
どうやらこの男は何も言わずともこちらの状態を理解しているらしい。本当に医師なのだろうか。しかし、だとしたらここはどこなのか。今いる空間ーーきっとアイランドキッチン付きのリビングーーには医療器具の類は一切見えない。
「昨日さぁ、店近くの道路で車が玉突き事故起こして、そのせいで搬送できる病院無くて、俺酒飲んでて病院勤務できないから、とりあえず家で保護することにしたんだよね。脈はちょっと早かったけど呼吸は正常だったからさ。何がクスリの吸収を阻害したのかわからないけど、ショック状態じゃなかったし」
「……」
「まぁ、とりあえず寝なよ。もう一回寝て起きたら元に戻ってるかもよ」
そう言って男は自分の腕を持つ。渋々ベッドに逆戻りした。目を閉じる。ただ水を飲みに行っただけなのに疲れた。眠い。意識がずうんと落ちていく。目が覚めると世界の全てが元通りになっていますように、と眠りに落ちながら胸の上で指を組んで祈ったのだった。
7/10/2023, 3:45:55 PM