導(しるべ)

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9/11/2024, 9:57:59 AM

「もう何も無くしたくないよ」
ふいに呟いた彼の言葉は、残念ながら雨の音に打ち消されやしなかった
それがどんな意味を表しているのか、僕にはわからなかったけれど、彼にとって何か大きなものを乗り越えようとしているのかもしれない、と独り合点した。
聞こえなかったふりをして、ドール服になる予定の布にちくちくと針を刺す。
真っ白い生地に、たくさんのフリル、綺麗なAライン。
まるでウェディングドレスのようにも見えるそれに見蕩れる。

少し後に、彼が「水を取ってくる」と言って自室に向かった。

「喪失感は、つらいものだよ」

いつかのりこえられたら良いね、と呟いて、真っ白い布にほんの少しの喪失感と藤色の糸を一緒に縫い付けた。

8/27/2024, 1:36:29 PM

「最悪…傘持ってないんですけど……」
いつもの雑貨店に寄った帰りに、雨に降られてしまった。
ぼうっと立ち尽くす間に雨は勢いを増していって、我に帰って気付いて屋根の下に行ったときには体中が濡れていた。
濡れた服がぴったりと肌にくっ付いて気持ち悪い。
乾くまでもう少しここで雨宿りをしていようかと思っていたとき、遠くから誰かが傘を持って歩くのが見えた。
誰かの迎えかなぁ、とか相合い傘でもするのかな、なんて思いながら、空を見上げた。

分厚く空を覆った灰色から、ざあざあと雨が降り注ぐ。
折りたたみ傘ってこういうときにあるんだなぁ、と考えながら空を見ていると、両肩をぽんぽんと叩かれた。
驚きながらも振り向くと、そこには高校生の彼ら二人がいた。
「あれ、どうしたんですか?こんな遅い時間に学校帰りとか」
「いやぁ…文化祭の諸々で生徒会忙しくて…最近はずっと残ってるよ」
そういう彼と、生徒会長の彼の目元に、僅かに薄く隈が出来ていた。
「それはお疲れさまです。…え、もしかして迎えに来てくれたんですかぁ?」
「いや、そう言うわけじゃないんだけど…ここ通学路なんだよね。それで通ったらたまたま居たから……」
なぁんだ、と声を出すと、二人とも顔を見合わせて笑った。
「とりあえず帰りましょ。二人とも寒いでしょ。俺もびちゃびちゃでお風呂入りたいし」
そう言って、俺は一歩ずつ踏み出す。
彼らも後ろから傘を差して歩いてきた。

8/26/2024, 11:44:03 AM

日記をつけることが習慣になっていたのは、いつ頃からだろうか。

あの人と暮らし始めて、文字を習って、日記というものを教えて貰って、それから、いつの間にか日記をつけることが習慣になっていた。
ひらがなばかりの簡単なものから、使いこなせるようになった言葉で書いた長いもの。
時間の経過と共にそうなっていった。

今日も、ペンを手に取ってノートを開く。
「珍しく全員で旅行に行った。
今日一日目は水族館。宿はあの人が温泉街の宿を取ってくれていたらしい。あの人がそんなことするなんて珍しい。
明日は温泉街巡り、明後日は俺はまだ知らない。話聞いてなかったかも。
ここの宿、露天風呂もあるらしいし、後で誰か誘って行こうかなぁ」

そう書いて、ノートを閉じる。
明日は何を書こうか。

8/23/2024, 11:15:02 AM

殆どが寝静まって街の灯りも幾分か減ったころ、彼は唐突に「海、行きましょうよ」と俺に言った。
急に言われて驚いたけれど、何しろ自分も海なんて数年間行っていないから二つ返事で二人で車に乗り込んだ。
十数分車を走らせると、微かに潮風が漂ってくる。
車を降りると、ざざん、ざざん。波の音が聞こえた。
砂浜を時々倒れそうになりながら歩く。
靴と靴下を脱いで水に爪先をつける。
ちゃぷ、と微かな水音がして、冷たさがじわりと体に伝わった。
不意に水を掬う音がして、何かと思って振り向くと、手の中に水を溜めていたずらげに笑っている彼がいた。
「海来てはしゃがない奴なんていないでしょ?先生」
そう言って、彼は俺に向かって手の中に溜めていた水をぱしゃりと掛けた。
「ちょっと、」
「ほら、先生!楽しみましょうよぉ~」
そう言って笑う彼に、仕返しでまた水を掛けてやったらからからと無邪気に笑った。

大人気なく二人で数十分遊んだ後は、お互いとても疲れきっていた。
「任務では疲れないんですけどね~…これは、良い運動になりましたぁ……」
「君は触手使うから疲れないでしょそりゃ…」

他愛のない話をしながら車に乗り込んだ。
すると彼は、思い出したように言った。

「あ、またいつか、海に行きましょうよ」

8/21/2024, 11:27:13 AM

時々、自由に空を飛べたら、なんてことを考える。
それこそ、鳥のように自由に空を飛び回れたらどんなに良いだろうと。
でもそんなことを考えたところで背中に羽は生えてこないし、空が飛べるようになるわけでもない。
所詮、そういうものなんだ。ただの空想物語にすぎない。
そんなこと、もうとっくにわかりきっていることだけれど、見てしまった。
何にも縛られずに、鳥のように飛び回る彼の姿を。
それも、こちらに手を差し伸べて「一緒に行こう」なんて言ってくれたものだから。
だから、迷わず手を取った。
鳥のように飛び回る彼の姿に惹かれて、彼とならどこまでも行けるなんて思って。
だって、どこまでも連れて行くなんて口説かれてしまったから。

これは、私の初恋だった。

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