共用スペースには今二人だけ。
僕は暖かいココア、隣に座る彼はアールグレイの紅茶。
蝉の鳴き声と温い風が窓から吹き込んでくる。
「ねぇ、例えばの話、しても良いですか?」
彼が不意に言った。
「もちろん、良いよ」と僕が言うと、彼はそう言ってくれると思ってた、なんて言うように微笑んだ。
「ほんとにもしもの話ですよ?…もし、私がいなくなったら、どうしますか」
予想外の質問に思わず狼狽える。
すぐには答えられなかったけれど、少し考えて答えを出した。
「捜しに行くよ。たとえ君がどこまで行っていても、もういなくなっていてもね」
そう答えると、暑かったのかローブを脱ごうとしていた彼の動きが止まる。
「…へぇ。なんかいがぁい」
「意外ってなに。失礼な…」
「だって、あなた現実から逃げるように創作にのめり込むんじゃないかと思うんですもん」
「あはは、そうかもしれないね。でも、捜すことは変わらないよ」
「そうですか。…良かった」
どうしてそう答えたのかを聞かれたけど、僕は答えなかった。
さよならを言う前にいなくなっちゃったら、悲しいからなんて言えなかった。
ざあざあと降りしきる雨は、煩わしいとすら思う。
よく通うアンティークショップの中で、そう思った。
数分前まで晴れていたのに、店から出るところで夕立が降り始めた。
「遣らずの雨ってやつですかね、これ」
俺がそう言うと、隣の彼がふと笑った。
「うん、そうかも。俺たちのこと、引き留めてるんだね」
なんでだろう、と呟いた普段よく響くテノールの声は、この日は雨で掻き消された。
「もう少し見て回りましょうよ」
そう言って彼の手首を少しだけ強く掴んで店の中に戻る。
アンティークショップの中はオルゴール調の音楽が流れており、暖かい灯りの中にはきぃと軋む床と商品、カウンターの上で眠る看板猫。
すっかり見慣れた、お気に入りの景色。
「ねぇ、これ良いと思わない?」
声がした方を振り向くと、カラメル色の艶のある木材で作られたアクセサリーケースに釘付けになっている彼がいた。
「あぁ、これ。…確かに、良いんじゃないんですか?よく合いますよ」
折角だから買っちゃいましょうか、と言うと彼は驚いたように動きを止めた。
そんなにポンと買えるほどの値段ではないが、運良く鑑定の仕事で報酬が入ったから、それだけのこと。
「悪いね。…今度、何か奢るよ」
カウンターで猫を撫でていると、彼から言われた。
「えぇ~、良いんですかぁ?」
そう言うと、「勿論。流石に何もしないのはアレでしょ」と返ってきた。
猫が手をすり抜けたので、そろそろ帰ろうと店の扉を開けて外に出る。
「じゃあ、俺美味しい中華知ってるんでそこに行きましょうよ」
空は綺麗な夕焼けが一面に広がっていた。
「そういえば先生ってさぁ、没作の原稿用紙とかずっと持ってるよね。捨てなくて良いの?」
いつものように部屋に入ってきた彼に、そう言われた。
確かに、いつの間にか溜まった没作の原稿用紙はなんだかんだ今も引き出しの中に眠っている。
捨てないと、とは思うけれど、中々捨てられない。
「そうだね…なんか、溜まっちゃって捨てるタイミングが分からなくなって」
「ふぅん、そっか」と、彼は案外聞いてきた割には素っ気ない。
「まぁ、捨てなくても良いんじゃない?いつか先生の遺書みたいなものになると思うし」
「めちゃくちゃ失礼じゃない?それ」
そう言うと、彼は子供のように喉を鳴らして笑った。
「だって、先生遺書とか書かなそうじゃん!」
そう言われたらそれまで。言い返せなかったのが悔しい。
「とにかく、先生にどうしても捨てられないものがあって良かったぁ!」
揶揄うようにはぐらかされてしまった。
「眠っちゃいましたねぇ、瑞希くん」
夕方から夜に移り変わる時間。殆ど貸切のようなある田舎のバス内で、私と白髪の彼だけが起きていた。
「今日はみんなはしゃいでましたから。疲れちゃったんでしょうか」
そう言って、彼は窓の外を見ていた。
無理矢理少しだけ結んだ白髪がこの時間によく映えていた。
「私、海って久しぶりなんですよねぇ。何年ぶりかな」
「…僕も、海なんてすごく久しぶりです」
何かの思いに耽るように彼は目を閉じる。
私も、頭の片隅で思い出してみる。
最後に海に行ったときのことを。
そうするうちに日はどんどん沈んで、窓の外の空が藍色に染まっていた。
「終点ですよ、カタルさん」
そう声を掛けられて、ふっと我に帰った。
「みんなのこと起こさないと。晩御飯に間に合わなくなっちゃいますから!」
「そうですね。僕もお腹空きました」
最近、何もかもが上手くいかない。
財布は落とすし、原稿用紙の下書きはほとんどが赤で染め上げられて返ってくるし、よく体のどこかしらをぶつけて痣ができたり。
そう言うときに限って、側に誰もいないのは良く有ることだけれど随分きつい。
薬に頼って眠ることも増えてきて、薬瓶の錠剤の減るスピードがはやくなった。
泣き崩れたくなる夜もある。
「どうしたの、先生?」不意に、声がした。
「…晶くん。また夜更かししてるの?」
そう聞くと、彼はばつが悪そうに目をそらした。
「最近、思ったようにいかなくて。ちょっと気分転換にお酒でも飲んで大人しく寝ようかなぁと思って」
「君、お酒弱いんじゃないっけ」
「弱いけど…なんか気分転換に飲む分にはすごく良くて」
先生も飲む?、と問われたら、僕は肯定しか出てこないことをこの子は知っている。
ずるい子だ、と心の中で笑った。
「もちろん、久しぶりに飲もうかな」
僕がそう言うと、そうこなくっちゃと言わんばかりの顔で二つのグラスに酒を注いでいた。
「やった!先生、酔い潰れないでよ?先生の介抱大変なんだから!」
「分かってるよ。流石に二日酔いは勘弁だからね…」
「……さ、何も上手くいかないもの同士、今日はぱぁっと飲んじゃお!」
乾杯、の声と共にカツンとグラスのぶつかる音が部屋に響く。