描きかけのキャンバス、乾いた絵の具、少し量の減った水、洗われないまま放置された筆。
彼がアトリエにこなくなって約二週間。
生活の痕跡を濃く残したまま、彼は忽然と姿を消した。
私は彼が来なくなってからも執筆と掃除のために時々ここには来ていた。
三日ほどしたら戻ってくるだろうと思っていたが、ここまで来ると心配になる。
こういうとき彼は、決まって繁華街に姿を眩ませているかどこかで野宿をしていることが多かった。
夜が来る度に嫌な予感がして、夜が過ぎる度に心のざわめきが大きくなる。
かれは、戻ってくるのだろうか。
今度こそ、戻ってこないのではないか。
すきとおったもの、澄み渡るもの。
冬の海は、その代表ではないだろうか。
どこまでも鋭利で、どこまでも冷たい。
ひとたび指先をくぐらせると、凍ってしまいそうだった。
浜辺に靴を並べて、足を海水に沈める。
服はそのまま、濡れることも気にせずに足を進める。
水の中で舞う小さな砂粒がくすぐったい。
「怖い?」
隣の彼が尋ねる。
怖くない、と言えば彼は手を繋いで足を深いところに沈めて進む。
もうすぐ、互いに愛し合ったまま透明になれる。
「私たちはもう終わってしまうけど、これからどうする?」
他愛もない会話に織り交ぜられた、聞き逃してしまいそうな程に違和感のない質問。
終わるなんて。
そんな確証ないのに、と言い出そうと舌が回らない。
「今はまだ想像ができない」
というと、彼は「そう言うと思った!」と笑い、徐に口を開いた。
「私はまた始めるよ」
「私たち友達だから、また会えるし」という彼の顔は、諦めたようで清々しかった。
お互いいつもよく舌が回るのに、この日はなんだか停滞していた。
冷たい風が頬を刺す。
波が岩に打ち付けて星のように弾ける。
暗い海に、引き摺りこまれそうだった。
「やっぱり、私達の最後は桜の樹の下なんかじゃなかったね」
彼の言葉に頷く。
もとより、俺達の最期は桜の樹の下なんて所じゃなかった。
暗く深い、海の上、もしくは中。
靴を脱いで、隣同士で並べる。
遺書なんて堅っ苦しいものは書かなかった。
どうせ哀しんでくれる友達も親も居ないのだから、必要ないだろうと言ったのは俺だった。
手を繋いで、指を絡める。
「じゃあ、また。どこかで逢えたらいいね」
「ああ、そうだな」
そう言って、二人海に向かって一直線に飛び込んだ。
体が水面に打ち付けると、大きな飛沫とくぐもった自然の音が耳を塞ぐ。
「さよならとは言わないで」
冷たくなる指先、体。
朦朧とする意識の中、いつかの彼が言った言葉を思い出した。
艶のある長い黒髪、白くてキメの細かい肌、襟元にレースの遇われた白いブラウス、膝丈の深緑のスカート。
はたから見たら女性となった自分を見るのは、未だに慣れない。
舞台裏の楽屋にはワンピース、ドレス、燕尾服にロングコート、その他諸々。
役を演る上で必要な道具がその日限り、又は三日ほどの間だけ揃う。
そしてその間だけは、鏡の中の自分に夢を抱ける。
「祷、もうすぐ」
「うん、わかった。すぐ行くよ」
「今回の目玉だからな、頑張ってくれよ」
「もちろん。ちゃんと成功させてみせるから見といてね」
小声で軽口をたたき合いながら舞台袖へと向かう。
灯りが煌々と光る舞台上。
舞台袖から見える、聞こえる声と靡く衣装。
「いってらっしゃい」
鏡の中に映る自分に思いを、魂を乗せる。
「いってきます」