櫻庭

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8/4/2024, 11:31:32 AM

「コウ君~、これ作ってみない?」
画面を見ると、そこには「簡単フィナンシェ」と「おいしいババロア」という文字が映し出されていた。
ふたりともお菓子はあまり作ったことがなかったから、僕の二つ返事ですぐに作ることが決まった。
小麦粉に卵、泡立て器にボウル、バター。
材料を一通り買い出しに行ったり、冷蔵庫から出したりして揃えた。
メニューをみて試行錯誤しながら作ること二時間。
冷蔵庫で固まったバニラ味のババロアと良い焼き色のついたフィナンシェが姿を現した。
それからホイップクリームを泡立てて、さくらんぼやりんごを切って飾り付けると、世間一般でいう「映え」な分類に入るとてつもなく可愛らしいものができた。
生地が余ったついでにたくさん作った小さなクッキーもおいしくていい感じ。
ふたりで先に食べて、思わず「おいしい」と口に出た。
そして彼とふたりで顔を見合わせて笑って、いろんなことも話したりした。
後から帰ってきたみんなにももちろん作っておいて、みんなの食べるところも見た。
みんな反応は違えど絶対においしいと思っているような顔をしていて、胸があたたかくなった気がした。
こういう日常のささいな、つまらないことでも幸せを感じられるようになった自分が、前よりも人間らしくなったと感じた。

8/3/2024, 2:26:22 PM

「マナがタバコとか珍しいじゃん、なんかあったの?」
同居人の大半が眠りについた午前2時、思わず目が覚めてしまったからベランダに出て先日買ったタバコに火を付けた。
いつもは同居人たちの前では吸わないのだけど、今日はなんだかどうでも良くなっていた気がする。
「あぁ…なんもないよ。旭こそ珍しいやん、こんな時間に起きとうとか。夜更かし?」
そう言うと、彼はばつが悪そうに目をそらした。
「なんか眠れなくてさ。今日くらいはいいでしょって思って」
いつの間にか彼は横に来ていて、「一本ちょうだい?俺も吸いたくなっちゃった」なんて言われた。
彼とは身長がほとんど同じだから、目立つピンク色の瞳とばっちり目が合う。
やっぱり綺麗な瞳だと思いながら、タバコの箱から一本取りだして渡す。
「ありがと」
彼がそう言って、ポケットをまさぐる。
「ねぇマナ、ライター部屋に忘れちゃった」
彼がこういうときは、「取りに行くのが面倒だから貸してほしい」の意味であることを最近分かってきた。
「しゃあないなぁ…ほら、もうちょいこっち来ぃよ」
手招きを小さくする。
「はい、どーぞ」
と彼が言ったから、こちらも顔を近づけてタバコの先端同士を合わせる。
じゅっ、と音がしたのを確認して離れる。
「ん、ありがとね」そう言って、彼は煙を吐き出した。

同居人たちが目を覚ますまでのふたりだけの時間。

8/2/2024, 11:17:34 AM

「導くん?」
病室にいる彼は、以前の彼とまるで別人だった。
外見こそ髪が伸びただけであまり変わっていないけれど、性格だったり、言葉遣いだったり、そう言うところがまるで違う人のようだった。
「…えと、こんにちは?すみません、何も覚えていなくて。記憶喪失、みたいです」
彼の口から出た言葉は、かなり衝撃的なものだったのを覚えている。
記憶喪失、四つの文字が頭を素早く横切る。
事故に遭ってあるところの損傷によってなるとは見たことがあるが、まさかこんなに簡単に記憶がなくなるとは思いもしなかった。
「こんにちは。突然すみませんね。…白燐、と言います。あなた、導くんの親的な存在と言うところでしょうか…」
言葉を噛み砕くのに時間がかかったようで、しばらくしてから「おや、親ですか……」と呟いたのが聞こえた。
「そう、親。…退院したら私たちの暮らす家に行きましょうか」
それまではここで安静に、ですよ。と付け足すと、緩い返事が返ってきた。
「んじゃ、よろしくお願いしますね。白燐さん」
「ええ、よろしく。導くん」

8/1/2024, 11:16:48 AM

「ねぇ、海に行きませんか?」
ある昼下がり、蝉が煩く鳴いていた。
「海、って…また急ですねぇ……導くん」
「だって、あついじゃないですか。夏と言えば海だし」
さぞ当たり前のことのように言うものだから参ってしまう。
これでもだいぶ慣れてきたほうではあるのだが。
「行っても良いですが、今日はちょっと用事があって明日の朝頃まで私居ないので……」
そう言うと、あからさまに抗議の言葉を言いたそうな彼がいつの間にかソファの隣に座っていた。
「じゃあ、いつなら行けます?」
まるで子供のような聞き方にくくく、喉を鳴らして笑う。
「じゃあ、こうしましょう!」
私が言うと、彼は「なんですか?早く教えてくださいよ」と急かすように言う。
「明日、もし晴れたら。晴れたら、ふたりで海に行きましょうか!」

7/31/2024, 10:56:11 AM

「ちょっと、外の空気を吸ってきます」
そういう顔が随分思い詰めていたようだったから、緩く「はあい、いってらっしゃい」と答えて再びペンを手に取る。
「今は、ひとりで居たいから」と微かに聞こえたのは気のせいだろうか。
研究所に彼を引き取って正式に辞職してからはや二年。
二ヶ月に一度の経過観察報告書を書くことが私に義務付けられた。
最近の変化、という欄で手が止まり、そういえば何が変わったのだろうと考える。
半年頃のときには意志の主張ができるようになった、会話が可能になった、初めて人の作ったものを食べられるようになった等、他にも色々とあるのだけれど、最近は少しずつ変化が明確に見られるようになったことがある。
“ひとりになりたいという時間が増えた”
成長を感じて嬉しい反面、親離れをしているという寂しさもある。
しかし、そういうときは大抵体調不良や精神不調だということは私だけが知っている。
ひとりになりたいということが増えたのはいいことだと思うが、体調不良や精神不調の時は少しばかりこちらも頼ってくれると嬉しいと思う。
それを一度話して見たところ、「それは、ごめんなさい。でも、迷惑掛けると思うので。ほら、俺面倒くさいし」とはぐらかされてしまった。
本人がそう言うならこちらもできるだけ干渉はしないと決めたが、時偶こっそりと見に行くこともある。
そういうのだから過保護だと言われるのは分かっているが、何せ記憶喪失になるまえ、子供の時の彼を知っているからこそ、過保護にもなる。
「ひとりになりたいなら、直接言ってくれれば良いのに…あの子は遠回しなんだから」

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