本日は彼の目線からお届けします。
「お、モンシロチョウか」
事務所の窓の外、よく晴れた空に一匹の蝶が舞う。
大きな樹が立つその庭は、すでに春の色が薄れつつあった。
「まじ?どこッスか?」
後輩の青年が、俺の独り言を拾って窓から身を乗り出す。じっと空を見つめて、かなり熱心に探しているようだ。仕事にもこれくらいの熱意を持ってくれたらいいんだが、世の中そう上手くはいかないものだ。
「蝶々探しもいいが、仕事は終わったのか?」
俺が声をかけると、青年はクッと肩を動かし、ぎこちない動きでデスクに戻った。大袈裟なため息を吐いて、不満そうにモニターを睨みつける。そんな顔をしているが、今日まで仕事をサボっていたのはお前だぞ?と苦笑をして、俺は休憩に入る。
窓の外にはまだモンシロチョウが待っていた。今度は、二匹。
ずいぶん、昔。
同じような景色を見た。
確かそれは、赤煉瓦のビルの喫茶店で、ステンドガラスからの光が俺たちを輝らして、唯一のガラス窓から、外を覗いた時。街なかには珍しい、緑が茂る空き地、白く輝く二つの光は、ちょうど座った人間の目線の位置に舞っていた。
普段は表情筋が仕事をしないお前の顔が、少し緩んで、瞳に映る光が美しかった。
「なにしてんスか、あんたも仕事してくださいよ」
青年が、口をとがらせて俺に言う。真っ白な室内の壁紙が、思い出も覆い隠してしまうような気がした。ただ、窓辺のチューリップだけが、鮮やかなオレンジ色をしていた。
モンシロチョウは青空を舞う。
ある、春の終わりの、古い思い出。
あいつは憶えているだろうか?
私は、とても憂鬱な気分で自室のベッドに横たわっていた。連日の疲労が取れず、体が怠い。
丑三つ刻を過ぎた、夜の空は新月で、いつも以上に暗闇が深くなる。
カーテンを閉めて、ドアも、窓も、しっかり鍵をかけた。ベッドに広げていた、もう使うことのない資料が、クシャリと音を立てる。
いろんなことがあって、心身ともに、つかれている。
仕事を終わらせて、笑顔を貼り付けて、心を押し殺して、やっと帰ってきた家は、私に安らぎなど与えてくれない。むしろ生気を奪っていくようだ。
こんな夜は、寝ていなくても悪い夢を見る。
今、私は本当に生きているのか。じしんがない。
この生活は、夢なのかもしれない。
あるいは、走馬灯か。
寂しい。苦しい。悲しい。辛い。痛い。煩い。
このまま、消えてしまいたい。
一年後、私は生きているだろうか。
この生活は、まだ続いているだろうか。
彼らと、まだ一緒にいられるだろうか。
きっと、この問いは終わらない。
私は、その時を待っていた。
明日、アレがやって来る。
今回は大勢の軍隊を率いてくるそうだ。中には人間もいるというからたちが悪い。
刀を磨いて、銃を手入れして、服装を見直して、最後に荷物を片付ける。もう慣れた作業だ。
この家ともお別れかと思うと、少し惜しい。私好みの、落ち着いた雰囲気がとても気に入っていた。
桜石がはまった懐中時計の針が、十一時を指すのを見て、真っ暗闇に
明日世界が終わるなら
ずいぶん長い夢を見ていた気がする。
辛くて、苦しくて、悲しくて、嫌な、夢。
それでも、この腕の傷が、不思議な模様をした目が、鋭い歯が、よく聞こえる耳が、黒く染まった爪が。
この世界が現実だと言っている。
何度も、諦めて、逃げて、放り捨てたけれど。
ただ、一つ。
たった一つ、いいことがあったとすれば。
私は、
君と出逢って、本当に良かった。
ため息が出る。
重たくて、どろどろした、暗いため息。
昼頃から始まったパーティーには、世界中の大物が集まり、世間話の裏で探り合いをしている。
血縁者の付き添いで連れてこられた私は、笑顔を貼り付けて当たり障りのない話をしていたが、今はバルコニーに出て風にあたっていた。
空には星が見え始め、青と白のグラデーションがなんとか私の心を支える。
このまま誰にも声をかけられないまま、パーティーが終われば、仕事ができる。嫌な空気から逃げ出して、書類作成で今日の出来事を塗りつぶしたい。
ため息をつき、街の灯りを眺めていると、人の気配が近づいてきた。そろそろ移動しようか。
そう思って立ち上がろうとした時、その男は最悪の言葉をかけてきた。
「私と一曲踊りませんか?」
屋敷の中ではダンスパーティーが始まっていた。
きらびやかに着飾った男女が、音楽に合わせて踊っている。
わざわざ寒い外に出ているなんて、関わりたくないと言っているようなものなのに、よほど空気が読めないらしい。まったく、どこの御子息だろうか。
適当に断ろうと振り返ると、男は突拍子もないことを言ってきた。
「それとも、二人で抜け出そうか」
彼だった。そういえば彼も今回は名家の御子息だったか。
本当に、おかしいな。こんなに着飾って、昼からずっと耐えてきたのに、この一言で帰ろうかと思えるのだから。
帰ろうかな、ノルマは達成したし、祖父も許すだろう。
「着替えたら、和菓子でも買って帰ろうか」
そう言って私は、屋敷の一角へ向かう。
出席者の着替えのために、家主が用意した部屋だ。
彼は驚いた顔をして、私についてくる。まさか、乗ってくるとは思わなかったんだろう。
何度も、生きてきた、私達二人だけの秘密。
ずいぶん昔に、みんなでかわした約束。
もう君しかいないから、二人だけ。
私が、君たちからの誘いに乗らないことはないよ。
なんといっても、唯一の仲間だからね。
必ず、願いを叶えよう。どんなときでも。
今の時代に合せた服装に着替えて、外に出る。
星のような街の灯りは、私を暖かく出迎えた。