【秋恋】
「これ、シュウレンって読むんだよ」
秋恋。
そう書かれた文字をなぞり、彼女は笑った。
栗色に染めた長い髪はふんわりと巻いていて、暖色のカーディガンと薄化粧も彼女にはよく似合っている。
高校で見るのとは違う姿に、僕は視線を彷徨わせた。同級生のはずなのに、彼女のが大人っぽくて、艶っぽい。
「そうなんだ。知らなかったよ」
僕は嘘をついた。
本当は知っているよ。秋の恋は長く続くなんて話も。
ただ。言葉を途切れさせたくなかっただけ。
君の声を、聞きたかったから。
「そっかー! 和哉くんにも知らないことってあるんだね」
「あるよ。何でもは知らないと言うか」
「ふふふ、ちょっとホッとしちゃった」
得意げに彼女が笑う。
好きと語る小説を開いて、彼女はまた紙の上に指を滑らせた。何度も読み込まれた跡のある本を彼女が愛おしそうに見つめる。
おい、本、ちょっと僕と位置を変われよ。何て口が裂けても言えないが……少しうらやましくはあった。
「この小説はね、同い年の男女が恋に落ちてく話なの。でも秘密もあり、謎解きもありで面白いんだ」
「恋愛小説なんだね」
「和哉くんも何か秘密あるよね? 当ててあげようか」
ーー好きな人、いるでしょ?
彼女の口元が強気に口角を上げるのを見て、僕はドキッとした。
知っているのだろうか?
もしかして、バレていたとか?
嬉しい気持ちと、恥ずかしい気持ちと、怖いものを見るような思いが一瞬で心の中で混ざり合う。絵の具を全て混ぜた時の、あの混沌みたいな感じ。
「当ててあげようか?」
「うん。……あ、やっぱり、まって」
咄嗟に僕は手を広げてストップをかけた。
赤い顔は見せられない。その勇気はなくて。
それに。今は。
まだ、恋を夢見ていたいんだ。
【空が泣く】
しとしと、と言うよりはサラサラとした雪の日だった。
「お空が泣いてるよ」
と言い出したのは俺に肩車されている姪っ子だ。
「空が? ただの雪だろ」
「ううん。今日のは違うよ」
何が違うのかわからなくて首を捻る俺。絵本の話かなんかだろうか?
生憎だが高校生になる俺に、絵本の話などちっとも理解がなかった。理系だから、と言うよりも本を読むのがそこまで好きじゃなかったから、さ。
アスファルトに沿って並ぶ住宅も、冬になると気まぐれに降る雪も、俺にとってはいつもと同じだし違いなどわからない。
しかし、姪はそんなことは気にせず。どこか不思議な様子で続けた。
「今日は何かが起こる日なのね」
肩車越しでも、姪がどこか遠くを見るような声で言ったのはわかった。
何がって……何が?
見上げようとして、俺の頬に雪が落ちる。液体となったそれは涙のように頬を伝った。
5歳児の話に真面目に受け止める俺も変かもしれない。
「そうなのかもな」
適当に答えると、うん、と姪は頷く。
それから事件が起こったのは、夜、雪が積もってからのことだった、
【言葉はいらない。ただ……】
熱を下さい。
そう耳に囁いてから、俺たちはベッドに傾れ込んだ。
今日は家に親はいない。
兄弟も。
今だけ俺と君だけの時間だから、とそのまま口づけを交わした。姉の結婚式で見たような優しいものじゃなく、もっと長く、激しいものを。
二人で抱きしめ合いながら。
はぁ。と息継ぎも束の間。
言葉も惜しいと二人は直ぐに唇を重ねる。
奪い合う酸素。必死の俺。
苦しそうに息継ぎする君の顔が赤く、高揚していているのがわかったら。もう止まれないと思った。
高鳴る胸。君も同じ。
君の腕を掴むと、汗ばんでしっとりした。目が潤んでる。熱を求めるのが、俺だけじゃないって物語るみたいに。
時間は有限。
せめて。
今日こそ。
いいよね、と君の制服のボタンに手をかけた瞬間。
俺の部屋の扉が開いた。
「妹はいるのよ、お兄ちゃん」
「うわぁああああああ!!!」
馬鹿ぁ! と叫んでももう遅い。
高校生の俺たちは、大人の階段を踏み外して赤っ恥をかくのだった。
……部屋の鍵……買おうかなぁ。
【雨に佇む】
嵐のように雨が吹き荒れた日だった。
静まり返った公園で、君がずぶ濡れになりながら空を見ていたのは。
「ね、ねぇ、ちょっと」
僕は慌てて声をかけた。
どうしたの? 何してるの? 風邪ひくよ?
なんて言おうかなんて思い付いてない。ただ、雨に濡れるのは悲しい事だと思っていたから、急いで傘を刺したんだ。
なのに、君は。
「どうしたの、良い天気なのに」
と惚けたように話すから、僕は面食らってしまった。
なんだって?
良い天気だって?
「どこをどう見たらそうなるんだ」
「私にとっては良い天気なんだよ」
ふふふ、と笑う君に僕はついていけない。
とりあえず傘を刺したまま、僕は彼女の隣に立つことにした。
近くの道路からは車の行き交う音がする。
たまに道を散歩する人が通りかかったが、挨拶をすることもなかった。
「あのね」
君が話しだす。かなり時間が経っていた気がした。
「なんだい?」
「あなたは忘れているかもしれないけど、雨の日は私たちが初めて会った日なの。私にとって雨の日は、幸せの日なのよ」
君はチラッと僕を見ると、また空を見た。
「雨が止んだら私は帰らなきゃいけないから……本当は止んでほしくないんだ。だからもっと降ってほしいなって空を見ていたの」
「なんだ……そんな事で」
「そんな事じゃないよ」
今度は、しっかり僕を見て……彼女は笑った。
「雨でも降らないと、あなたは私のこんなにそばにいてくれないでしょ?」
そんな事は、ない、とは言えなかった。
話すのはそんなに得意な方ではないから。
「もうちょっとだけそばにいてね」
それだけ言うと君はどこか満足そうだった。
僕は、どうしようか。
なんと返事をしていいかわからないまま。雨が止むまで肩が触れそうな距離にいた。
【鳥のように】
「知ってる? 鳥って恐竜の生き残りなんだって」
淡色の麦わら帽子を揺らしながら、自慢げに君が話した言葉を思い出した。
白いワンピースがよく似合う、本が好きな長髪の女の子だった。
忙しなく虫がなく夏休みの終わり。
暑いな、蝉も休暇を取れば良いのに、なんて思いながら耀哉はワイシャツの袖をまくりなおしていた。
黒のネクタイを締めながらみる、視線の先には死んだお婆さんの白黒写真。
耀哉の実家である古い日本家屋の古民家は、葬式の人で溢れていた。
「それにしても、意外だな」
「何がだよ」
顔を出してくれた同級生が耀哉の肩を叩いた。手にはノーアルコールビール。運転手だからと言い訳しながらプシュッと封を開ける。
もてなす側の耀哉は、おつまみが足りてるか客席を見ていた。
「東京にいたことだよ。都会ってやっぱサイコー?」
同級生の言葉に、苦笑して視線を戻す。
最高? どこが?
物価は高く、職は奪い合い。そんな都会に慣れた俺は、どうも最高とは思えず首を捻る。
「田舎だって良いだろ。ほら、広いし」
「草だらけなだけだろ」
「子供が遊べて良いじゃないか」
他愛のない話をしながら、二人は笑う。
しかし、ふと耀哉は思い出したように周りを見渡しはじめた。
子供の話で、思い出したのだ。
初恋の子がいた事を。麦わら帽子が似合う女の子は、どうなってるのか気になった。
「あの子は?」
「ん?」
「ほら、幼馴染の」
同級生に特徴を話すと、ああ、と声が漏れるのを聞いた。
「あの子は死んだよ。3年前、車に轢かれてさ」
え?
となる耀哉に、友人が苦笑する。
交通事故、ではあったが、どのみち病気で長くなかったらしかった。
余命宣告。そんな話は耀哉にとって初耳だった。
「……また会いたかったのに」
「ん。まぁ、そうだよな。弱いと病気や事故ですぐ死んじまう。死んでから急に寂しくなるよなーこーゆーの」
弱い人は死んでしまう。
その当たり前に視界が涙で滲む。
彼女の死は、今の耀哉には少し残酷だった。お婆さんも病気で亡くなった。健康ならあと30年は生きてくれたかもしれなかったのに。
あの子も、……そうか。亡くなったのか。
「生き残っていたら、彼女も鳥になったのかな」
「うんー?」
「いや、なんでもない」
ビールを飲む友人に語りかけ、耀哉は窓の外を向いた。外の電線にはスズメが仲良く止まっている。
それが少し羨ましくて。
耀哉はその日から、よく外を眺めるようになった。
あの鳥が、あの子の生まれ変わりでありますように。
せめて、次は、生き残れますように。
滅ぶ事を逃れた、あの鳥たちのように。
そんな何でもない願いで、淡くなった初恋を思い出すたび。耀哉の胸はチクチクと、小鳥に突かれているようだった。