「もう貴方とは会えなくなるの」
ティーカップを皿に置きながら彼女はそう呟いた。僕も思わず、かじりつこうとしたチーズケーキから口を離す。
俯いて表情は見えないが、背筋をしゃんと伸ばし凛とした声色で呟く姿は、まるで荒れ野に咲く一輪の白百合のごとき気高さを感じさせた。フォークからケーキの欠片がこぼれ落ち我に返る。そして、動揺を悟られない様にゆっくりと口を開いた。
「……どうして、ですか」
「パパがもう会っちゃいけないって」
「だから、どうして」
「私ね、来週結婚するの」
想像しなかった——違う。想像したくなかった現実を彼女は口にする。彼女に婚約者がいる事は、何となく分かっていた。街いちばんの大きなお屋敷の大事な大事なひとり娘。ぼろ切れを纏ったこんな僕と話して、ましてやテーブルを共にしてくれるのも夢の様なことなのだ。でも、だからって。
「シンシア……様はまだ十六になったばかりでは」
「〝様〟はつけないでジャック。むしろ遅いくらいなの。周りのお友達はみんな、お嫁に行ってしまったもの」
「どんな方、なんですか」
「知らないわ。会ったこともないもの。でもきっと悪い人じゃない。写真で見た笑顔がとても、穏やかだもの」
隠しきれない戸惑いを、言葉に載せる僕とは違って、シンシアは詩を読むように語る。誰とも知らない伴侶について。
歳の頃はほとんど変わらないというのにこんなにも落ち着いている。生まれの違い、というものを改めて感じてしまう。言葉に詰まる僕をよそに、彼女は続けて語り出す。
「彼ね、遠いお国の人なの。三年前にこの国に船でやってきた人達と同じ、赤い髪の素敵な人。だからパパが許してくれたとしても、きっと会えなくなっちゃうわ。海の向こうの遠い国、だもの」
「なら、手紙……出す、から」
ありがとう、とシンシアは花が綻ぶ様に笑う。どうしても祝福の言葉は出てこなかった。
期待をしていたわけではない。ただ、このままごと遊びの時間が、彼女と対等で居られる時間が、終わるのが嫌だった。たった数枚の紙切れだとしても、彼女との繋がりを断ちたくなかった。
そんな子供じみたわがままを察したのか、シンシアは空を眺め、少しさみしそうな声色で呟く。薄紅色に染まる空にはすでに、白い月が薄く浮かんでいた。
「あちらでも同じ様に、月は登るのかしら? そうすればいつでも貴方を感じられるのに」
声は微かに震えていた。言葉には出せずとも抱く気持ちは同じなのだろう。
いっそ二人、どこか遠くに逃げられたら。そんな無理な願いを紅茶に映る月とともに飲み込む。外気に冷えて苦味を増したその味は、喉の奥に張りついてなかなか消えなかった。
【言葉にできない】
柔らかな風が枝を揺らせば、薄く色付いた花びらがさあっと舞い散った。地にもあたたかい日差しをそのまま吸い込んだ様な黄色や白の小さな花々が芝生の中にぽつりぽつりと顔を出し、柔らかな風に揺られている。
命が芽吹き、花開く季節。今年もまた、春が訪れた。
住宅地にほど近い公園は休日であれば家族連れで賑わう場所だ。今は平日の朝ということもあり人の姿はほとんど見当たらないが、それは人間に限った話。公園のあちこちでは甘い蜜を求めて蜂や蝶、小さな鳥たちが飛び交い、各々がお気に入りの花に挨拶をするように顔を寄せている。
そんな公園の一角、他のものと離れてぽつんと生える桜の木に一匹のメジロが飛んできた。
メジロはひらりとその木に降り立つと、すぐに辺りを見回し始める。まるで誰かを探しているかのようにきょろきょろと首を動かしていれば、背後からガサガサと葉が揺れる音。振り返れば、メジロよりも少し大きな身体のスズメがぴい、と声を上げた。
「やあ、メジロくん。去年ぶり」
「やっぱりスズメくんも来てたんだね。ほら、幹の近くに白いお花が落ちてたから」
そう言ってメジロが視線を向けた先には、付け根ごと千切られた桜の花が落ちている。少し濡れた茶色い土の上、花びらに混じってぽつぽつと落ちている様は、溶け残った雪の跡に似ていた。
「相変わらずスズメくんは蜜を吸うのが下手っぴなんだね」
「仕方ないよ。ぼくのくちばしは、メジロくんと違って太くて短いもの」
小さな嘴を趾の方に向けしゅんとするスズメを見て、メジロはくすりと笑う。
「どうしてしょんぼりするのさ。君がお花を咥えて蜜を吸う姿は、人間さんに大人気じゃないか」
「メジロくんだって、どんな葉っぱやお花にも負けない綺麗な緑の羽が、素敵だって言われてるじゃない」
褒め合いっこをしてお互いの顔を見た途端、どちらともなしに笑い出す。一頻り笑えば、またどちらからともなく口を開いた。
「ねえ、スズメくん。今年の蜜も甘いかい」
「うん。甘くって、ちょっとだけ酸っぱくて、とっても美味しいよ」
「ふふ、良かった。今年の冬は長かったから心配だったんだ」
「寒さに負けないように、いっぱい栄養蓄えてたのかもねえ。ぼくもちょっぴり太っちゃったもの」
そう言いながらスズメは自分の腹周りの毛繕いをする。冬の名残のふわふわの羽毛に嘴が埋まりむぐむぐと動く様子がどこか面白くて、メジロは思わずチチ、と声を出して笑った。
「そうだ、スズメくん。ここに来る前にね、人間さんたちを見かけたよ。みんな黄色い帽子を被ってて、大きいたんぽぽが歩いているのかと思っちゃった」
「きっと〝がっこう〟に行くんだよ。前にツバメさんが教えてくれたんだ。春になると小さい人間さんは〝がっこう〟に行っておべんきょうをするんだって」
「うへえ、おべんきょう。人間さんも大変だねえ」
舌を出し嫌そうな顔をしたメジロに対し、スズメはこくりと一つ肯いた。
「でも、それが終われば楽しいこといっぱいあるんだって。だから頑張っておべんきょうしてるみたいだよ」
「そっかあ、だからあんなににこにこでぴかぴかしてたんだね」
「うんうん、人間さんもお花と同じくらい春らんまんだ」
そう言うとスズメは花を一輪ちぎって蜜を吸い始める。メジロもそれに続いて、傍に咲く小さな花に嘴を差し込んだ。ちうちうと少しずつ蜜を吸えば、蕩けるように甘くて少し酸っぱい、春の味が広がった。
【春爛漫】
水平線の向こうには、澄み切った青空が広がっている。日が登れば朝が来て、沈んでゆけば夜になる。雨が降ると寂しくて、夕暮れは切なくなる。降りしきる雪は冷たくて、強い陽射しは小麦色に肌を焼く。そんな当たり前のことが、何故だかとても愛おしい。
変わらないものなど無いと、そんなことは分かっている。けれどこの空だけは、いつまでも変わらずにいて欲しい。そう願ってしまう。
これからも、ずっと。平凡で穏やかに過ぎゆく日々が続きますように。
【これからも、ずっと】
夜空みたいに真っ黒で、見つめても形を変えない。そんな君の目がぼくは大好きだ。
両手でそっとほっぺたに触れれば、君は嬉しそうにくすくす笑う。
「ふわふわさん。くすぐったいよ」
君がぼくを呼ぶ時の柔らかくて甘い響きも、とても、とても大好き。君がそばにいてくれるだけで、ぼくはとっても嬉しくなるんだ。
暗い森の奥に住む、毛むくじゃらで大きな身体をした化け物。町の人はぼくをそう呼んでいる。悲しいけれど仕方のないこと。だってそれは本当のことなんだもの。頭のてっぺんから足の先までふわふわの毛皮に覆われていて、身体だって森の中ではいちばん大きい。町のみんなとはぜんぜん違う姿。だから、みんながぼくを怖がるのは当然のことなのだ。
本当はみんなと仲良くなりたい。けれど、それはむつかしいって分かってる。ぼくが町に行くと、みんなが怖い顔をして石を投げるから。迷った人に話しかけると、目を大きく開いて怯えたり、泣いてしまったりするから。おひさまとおつきさまに何度挨拶をしてもそれは変わらなかったから、もうずっと昔に諦めていたんだ。
それが変わったのは君が来てから。くらいくらい森の奥、君はひとりで眠ってた。ふしぎに思って声をかけたら、目覚めた君はきょろきょろ頭を動かしてた。それで、僕のほうによたよた歩いてきて、そしてぶつかった。ぼくのふわふわの毛皮に、君の頭がくっついた。「こんにちは」と ぼくが君に挨拶すれば、君はぼくの毛皮に向かってにっこり笑った。
「こんにちは、ふわふわさん。ぶつかってしまってごめんなさい。わたし、なんにも見えないの」
驚いて君の目をじっと見つめてみるけど、いつまでたっても動かないまま。みんなみたいに怖がらないまま。それが何だか嬉しくて、つぶさないようにゆっくりと君を抱きしめた。僕の身体にすっぽり包まれて笑う君と絶対にお友達になるんだと思った。
帰り道が分からないと君が言ったから、ぼくのお家にお招きした。むかしむかしのその昔、どこかの人間さんが森に建てた小さなおうち。ぼくにはちょっと狭いけど、君が暮らすにはじゅうぶんなおうちに。その日から一緒に暮らすようになった。ぼくと君は大事な大事なお友達同士になった。
君が森で寝てたわけ、本当は知ってる。けれどそれは君には秘密。悲しい話は嫌いなんだ。
くらいくらい森の中、ぼくと君とのふたりきり。大事な友達とずっと一緒。それだけあれば十分だから。
【君の目を見つめると】
人は死んだら星になると言うけれど、今見上げている夜空に君は居ないのだろう。あの無数に瞬く星の光は全て過去のものなのだから。
早くて数秒、長くて一生。すぐそこにいて、ずっと会えない距離に行ってしまった君を、きっと私は見つけられない。
隣合って空を眺めた幼少期、君は金平糖を空に掲げ、お星さまの欠片だと笑った。
君が星になったなら、遠い夜空で瞬かないで。私の中に溶けて消える、甘い星の欠片であって欲しい。ひとりぼっちの空の下、金平糖を口に運ぶ。じんわり溶ける砂糖の粒は、瞬く暇に消えていった。
【星空の下で】