「夜の海」
いつから、ここにいただろう。
時間と言う概念を忘れるほど、ここにいた気もするし、そこまで時は経っていない気もする。
ああ、音と言う概念すらないこの世界では、それすら分からなくなる。
まあ、でもいいだろう。時間なんて、関係ない。
――僕は時間と言う枠に囚われた世界にいるために、ここにいるわけではないのだから。
顔を上げる。
目の前には、さざ波が音を立てる、大きな水の塊が広がっていた。
夜の海が好きだ。静かで誰もいない、なにもない海が好きだ。
そこには時間と言うものがないから。
光と音に溢れた、うるさいほど眩しい昼間の海の面影は、どこにもない。
一人一人の個性の尊重といいながら、一定のリズムを強要する、社会の時間は存在しない。
いつか、初めてここに来たとき、それがとても美しく思えた。
ここしかない。自分を解放できるところだ、と。
何気ないことが、容易に思い浮かぶ。自分のしたいこと、思っていること。
次々に浮かんでまとまらない考えが、くくりつけられるのだ。
いつしか、ここで、想いを馳せるのが日課になっていた。
――想いを馳せる、というと、幻想的に聴こえるかもしれないが、単純なことだ。なんで生きているのか、人と生きるとはなにか。
瞑想して、哲学する。自分に必要な答えを、自分でつくる。楽しみではない、日々の疑問をただ解消するだけ。
それが習慣化したと言うこと、それだけなのだ。
海から光が見える。白い波、海が月を乱反射する。それを見いて、今日もまた考える。
ああ、なぜ、僕は社会に縛られているのだろう。
社会とは、人間を統一するためのものだ。統一することは、複数のものを単純化することだから。
でも、ヒトは、社会でいきることを、なぜ選んだのだろう。「ヒト」というのは元々生物のはずで、海にいる生き物たちと、何らかわりもないのに。
海の動物で、一緒に行動をするものもいる。でも、それは単純だからだ。一緒に行動した方が、生きるため、命を循環するための効率がいいからだ。
社会は違う。人間がバラバラに行動して、社会と言うものを成立させている。分担しているというと聞こえはいいが、『人間が勝手に』陸に、海に、果てには宇宙にと、場所を広げていっているだけ。『人間のために』過ごすためのものを作り替えていっているだけなのだ。
ふと、パチン、と音が聞こえた。辺りを見渡すと、蟹のような、そうでないような生き物が近くで動いている。
海では、魚のひれが波をたてた。
――そうなのだ。ヒトだって、これと同じように、循環することを目的として生きた、生命だったのだ。
それを忘れてはいけない。自分たちが、生造元を壊しては、いけないのだ。人間が神を殺すことを反逆とするように。
だからこそ、伝えてかなければならない。生きていることを。普段社会のなかで食べる生物は、最初からあの形な訳がないのだから。
海の背景が明るくなっていく。日の出だ。水が光を反射し、世界を白に包み込んでいく。
これでなにかが変わる訳じゃない。自分一人がなにかを考えたところで、社会に与える影響は微々たるものだ。
でも、それを伝えることができる。考えをまとめて、誰かに話すことはできる。
微々たるものでも、失くなるではなく、積もるものなのだから。生きてる限り消えるものなど存在しない。
いつの間にか、空は真っ青になっていた。
あの青だって人間が作ったものじゃない。変えるべきじゃ、壊すべきじゃない。
昨日夢見た明日は、思っていたよりも明るいものであるものだな、と感じる。
歩く度に砂の音が鳴る。でも、夢はもう遠ざからない。
――ああ、今日もまた一日を過ごそう。
そして、また恋い焦がれるように、光へと手を延ばすのだ。
海は、いつまでも光を照らしていた。
「太陽のような」
満天、といっていいほどの、星空だった。
静かで、それでいてうるさいほどの光。明るく、地を光で染め上げるような。
緩やかに、それでいて速やかに見せる角度を変えていく。暗闇にいるような、それでも、どこか明るいような。そんな不思議さを、物語っている。
……また、星がひとつ、出る。それは地平線から姿を現し、遥か彼方まで照らし出す。
そんな、ただただ明るい夜を、僕はずっと眺めていた。
星が好きだった。自分よりずっとずっと昔に生まれた光が、今現在、自分に届いている。そんな不思議さと奇怪さが好きだった。
新しいはずなのに、新しくない。自分が生きているのに、あの星は? 自分自身の存在と、感覚がわからなくなっていく、そんな夜が、好きだった。
屋根の上から、今日も星を見上げる。屋根に登るのは好きだ。一番、天に近くなった、気がするから。
手が届きそう、何てことはなくても、一番近くで観れている気がするのだ。
風がビゥ、と耳元を掠めた。少し鳥肌が立って、ブルリ、と震えた。
今は冬。真冬、といっていいぐらいの時期である。太陽が、四季のなかで一番遠くにある時期は過ぎたといえど、それでもまだ灯火は遠かった。
星を見上げる。今は冬の星が見頃だ。いつもよりも明るい星が、僕を照らした。
あれは、オリオン座。一番見つけやすい、といっても過言ではない。ベテルギウス、リゲル、という一等星が二つあり、そのうえ赤と青という、反対の色をもつ。見つけやすいに他ならない。
四角の中に、三ッ星があり、そこが、ベルトを形作る。形としても有名で、どこがどうして有名になったのかは、気になるところだ。……やはり色か、形だろうか。
「なーがーしかくにてん、てん、てん」
いつか誰かに教えてもらった言葉が、自然と口に出る。呟きに近かったが、夜の空はシン、としていて、思ってた以上に虚空に響いた。
その左と下にあるのが、おおいぬ座と、こいぬ座だ。きっと、犬好きの人間は喜ぶに違いない。……ねこ座はないというのに。
こいぬ座は、プロキオン、という一等星をもつ。星の数が少ない星座といえど、小ぶりで輝く姿は、美しい。
おおいぬ座は、シリウスと呼ばれる一等星をもつ。全天のなかで、一番明るく光る、夜の恒星だ。青白く輝く姿は、スポットライトなど、要らないという、主役級の光だった。
そして、その真下にあるのが……『アダラ』という星である。
多くの人は聞いたことすらないだろう。当然だ。そこまで有名でもない、そんな星なのだから。
この星……アダラは、2等星のなかでは最大の明るさを誇る。言うなれば、「2等星の中で一番明るい星」である。
へーそうなんだ。普通ならそれで済まされてしまうだろう。そんな、目立たない星。
でも目立たないのは、あの、シリウスのせいなんじゃないか、と思う。真上にいる、明るすぎるシリウスの。
彼が目立っている間は、アダラは光っていても、見つからない。見落とされてしまうのだ。シリウスのことがわかっても、自分のことは見つけられない。
周りに一等星が居すぎるのも酷だ。
冬の星は、一等星が多い。全天で20個ほどしかない1等星のうち、冬の星座の中には7つの星が該当する。
紹介した「ベテルギウス」「リゲル」「プロキオン」「シリウス」のほかにも、ぎょしゃ座の「カペラ」、おうし座の「アルデバラン」、ふたご座の「ポルックス」といった風だ。ふたご座に関しては、ポルックスのとなりにも、「カストル」という見つけやすく、明るい二等星が存在する。
アダラが見つからない。それはそうだろう。こんなにも全天が明るいのだから。
1等星に一番近い、明るさを持っているはずなのに、1等星で一番明るいシリウスが近くにいるから、ひっそり煌めくしかない。
そんなアダラが、僕は一番好きだった。
どうして、周りと比べるの? ……別に比べてなんかいないよ。ただ、君は他の人に目を向けてないだけだ。その人を知れば、自分をどう思っているか、わかるよ。
……そんなの、社会はそういうものなのだからしょうがないだろう? 一番目立つ、一番良いやつが選ばれる、そういう世界なんだ。
なんで、誰も遊んでくれないの? ……え? ああ、そうだったんだ。君は忙しいのか、遊びたくないのか、そんな風に思ってた。
……しょうがないんだ。アピールしてくるやつの方がわかりやすい。自分だって、遊びたい、と思うだろう? なぁ?
なぜ、話しかけてくれないの? ……いつも話しかけてるつもりだよ。なんというか、話さないかなぁ、と思って。話題とか、合わないかな、ってさ。
……話しかけてきた方が、楽だろう? 自分から話しかけに行くよりも。というか、難しそうな本とか読んでいて、話しかけづらい雰囲気を出しているのは、君の方だろうに。
分かっている。皆から嫌われていることは。皆から疎われていることは。
誰かに、自分から話しかけに行かなければ、誰かが話してくれることがない、なんていうのは。
それができなければ、友達を作ることすら、難しいこと、なんて。
分かっている。解っている、はずなんだ。自分がそういう人間だっていうのは。
解っている、はず、だというのに。なんで、そんなことしなくちゃ行けないの? なんで? なぜ? どうして?
他の人はそんなことしなくっても、自然と周りに友達が集まる。休み時間なんて、友達に囲まれている。
確かに、僕は、物事を考えすぎる。考え始めると、止まらなくなる。哲学が好きで、天体を観て考えることが趣味の、そんな人間。
でも、でも。それは違うんじゃないか? 周りと比べて、ああ、こっちの人の方が付き合いやすそうだな、ていうのはある。それぐらいは、僕にだって。
でも、話しかけにも来ないくせに、やめよう、って。話しかけに行かないと行けない状況を無理矢理作るのは。遊んでくれない、状況を作り出すのは。
いつも、苦しかった。辛かった。教室に居場所なんてないように感じて。どこにいたって、自分は見つけてもらえないような気がして。
そんな時に、見つけた星が、アダラだった。
主役級の光が近くにいて、それでも負けじと光る。2等星と判断されたって、その中の一番になる、そんなアダラが。
もちろん、星にそんな意思があるわけがない。でも、そう思っていると、考えてしまう。そう思っていて欲しいと、押し付けてしまう。
ただただ、光っているだけのその星……アダラが、僕にとっての希望の星だった。
ただ、それだけのことなのだ。
星はまだまだ光っている。もうすぐ、朝日が昇ってしまうというのに。田舎ではなくとも、周りに人工の光がないからか、とてもきれいな、満天の星だった。
月は細い。前日が新月であったためか、否か。そのためか、月よりも、星の方が大きく見えた。
光が世界に降り注いでいるように。
別に、太陽のようなんかじゃない。太陽が出てしまえば見えなくなってしまうほどに、弱くて、小さい。
でも、それでもいいんじゃないか?明るくなくたって、見えなくたって。
気づかれなくても、そこで、一生懸命に、生けていれば。周りにきらびやかな星があろうと、存在さえ、していれば。
羨まなくたっていい。望まなくたっていい。「居る」ことの存在証明さえ、あれば。
その周りに誰がいようと、自分が居る、そのことが。
うっすらと、東の空が明るくなる。そこにあるのは、明日だ。赤く、白く、朝日が世界を照らす。
ああ、きっと、星は見えなくなる。朝日は、全てを惑わせるほどの光だった。
シリウスなんかよりも明るい、全てを隠す、その光。
もう、アダラは見えない。僕のような星は。でも、きっと、きっと。
明日も見える。明日も、そこで輝いているに、違いない。
今日は、一番に輝く星じゃない。小さくとも儚げに輝く、アダラのような星を、見つけよう。
自分にしか見えない世界で、シリウスよりも先に、アダラを見つけ出そう。
「通り雨」
それは、水溜まりのようだった。
薄く、水面が広がり、透明さを活かし、世界を反射する。
四つん這いになり、水面を触る。
すればさざ波が立ち、ゆらゆらとその世界は揺れた。
きれいだと思った。素直にきれいに見えた。
変わりげのない、世界に見えた。
普通だった。ただの水のように思えた。"思いたかった"。
なにもない。『普通の光景だ』と。
でも。どれだけ嘘を本物だと思っても。
どれだけ事実を否定しても。
それは、所詮、夢幻だ。
じわじわと現実は牙を剥く。
だんだんと、色が鮮明になる。
その水は、否、水"だった"ものは、どす黒い色を帯びて。
"赤く″染まった。
気づけば、その朱は自らに絡まり付くように。
或いは、変わらない現実を見せつけるように。
自分の方へ流れてきて。
手は赤く濡れ、体を貪るように侵食していく。恐怖が体を支配する。
ふと、前を見てみれば。
そこには、君の倒れた体があった。
夢のようだった。
辺りは薄く、暗く、闇しかないような。
異常なくらい静かで、なにもない。
紺色に、包まれたような世界。
でも、どこかから、希望のように。
一つの光が目の前を照らす。
だんだんとそれは大きく、強くなっていく。
目を瞑る。開けたところで見える気はしない。
でも、何か、とても知りたいものが、見たいものが見えた気がして。
それがどうしても、気になって。
薄ら目を開けた。
ぼんやりと、情報は頭に回る。
なにも見えない。でも。
あの中には、何かがある。
そう、確信した。
でも、手は延ばせど届かなくて。
何がある? どこにある?
好奇心だけが膨らんでいく。
だが、その世界はだんだんと、白くぼんやりと霧のように。
薄く黄色く視界は染まる。
まるで、見せたくないかのように。
でも、一瞬だけ見えたんだ。
あの姿。あの、顔。
緩やかに背景との境目がどこかぼやけて。
いつしかそれは、消えてしまった。
なんの夢を見ていたのだろう。
ボーッとした頭を起こす。今は何時だろうか。
掛けていた布団をずらし、ベッドから降りる。朝、5時。
早く起きすぎたかな、なんて独り言を呟きながら、部屋に電気を付けようとして。止めた。
急に何かが覚醒したようだった。
何かを思い出しそうな、予兆。予感。
頭のなかを巡らせる。そういえば、どんな夢を見た?
見えそうで見えない、霧のような。
どこかで感じたものに似たような感覚。
ぼんやりと、頭が晴れていく。否、目が醒めた、と言う方が正しいか。
ああ、そうか。と、心のなかで納得する。全てが繋がった連鎖。心を圧迫もののない解放感。
そうだ。どうして忘れていたのだろう。
今日は、君が死んだ日だというのに。
二年前、君はいなくなった。公園で、血を流して。
一角に血溜まりを残し、君はどこかへ行ってしまった。まるで、幻想のように。
僕は、その死体を見た。体が、震えた。
撹乱して、おかしくなって。
まるで、血溜まりが、水のように見えた。
周りが霧のように、消えていた。まるで、雲の上みたいに。
気づけば、ベッドの上だ。どうなったのかさえ知らない。
通り魔なのか、自殺なのか。わからない。
ただ、死体を見ただけの、人間。
ただ、君を見た人間の、一人だ。
ふと気づけば、身体は力が抜けていて。
ああ、君を見たあの日もこうだったなと、思い出す。
二年前の今日。僕は君を見れなくなった。
何もかも、わからなくなった。
知らず知らずの内に君を忘れて。
何にも気づかずに前を向いた。背を向けた。
でも、それでいいのだろう。
きっと、君も前を向くことを望んでいる。
忘れてしまうことではない。背を向けることじゃない。責任を背負っていくこと。
僕に、歩んでいってもらうこと。
そう思う。
もう忘れはしないだろう。
責任をもって、向き合っていく。
でもきっと。
いつかは、通り雨のように、過ぎ去る過去として存在するようになる。
君だって、僕だってそうだ。
一つの思い出として、存在するようなる。
そうなっていく。
もう、朝日が上っていた。朝、6時。
君は、この太陽を見てどう思う?
心にそう語り掛けて。
これからだ。これからずっと。
僕は、君と一緒にいよう。心の中で、問いかけていこう。
窓を開ける。差し込む朝日が眩しい。
この朝日を、君も、見ているだろうか。否、きっと、見ている。
緩やかな風が吹く。少し、冷たい。
「ありがとう」
そんな言葉が聴こえた気がした。
「形のないもの」
静かに雨が降っていた。
なでるように、音もなく。
ゆるゆると雲を絞るかのように降る。
しとしとと、葉を濡らし、脈を伝って地に雨跡をつけた。
それはまるで、木漏れ日のようで。
落ちた雨は斜面を伝い、水同士がくっついていく。
それは同心円状に広がって。
何もない日々に、鮮やかな色を付けていた。
雨が降っていた。
雲は黒くなく、ただ普通の白い雲に見えている。
それはまるで、ぞうきんを絞って、水を滴らせるような。
重さで、重力で、落ちてしまったというような。
そんな雨だった。
頬に、水が当たる。
部屋にいたというのに、窓から雨が粒となって濡れた。
ツーっと伝って、首筋に当たる。
涙に様になってしまったな、と苦笑する。
でもそれは的を射ていて。
自分の心を再現しているようだった。
「存在って何だろう」
そう、君に聞いたことがあったか。
何年前だろう。分からない。
君はどう答えたんだったか。
考えていくうちに、その記憶は徐々に鮮明化してきて。
まるで目の前に君がいるかのように。
「存在は、概念としてあるもの、だよ」
君は薄い笑みを浮かべた。優しい笑みだった。
「概念として、考えるもの。考えられるもの」
僕は考え込むように下を向き、手を口に当てた。
存在の意味は分かる。そこにあるもの。そして、こと。
でも君の答えが知りたかった。
哲学的なことを言ってくれる君の答えを。
でも今回は。
「……どういうこと?」
意味が分からなかったのだ。
概念。考えられるもの。どういう意味か、分からなかった。知りたかった。
君は静かに、口に弧を描く。
「存在は、私たちが考えることのできるものを指すと思う」
「考えられうるもの。想像できるものも含めて、全部」
その笑みは、まるで慈しむようで。
「見えるもの全てじゃあない。感じるもの全てじゃあない」
そう、断言する。
「それを、存在と言うんだよ」
子供に言い聞かせるような、まじめな顔だった。
でも、それを言った瞬間に、頬が緩んで。
「ね?」
どう? 分かった? そう確かめるかのように君は聞いた。
その言葉に僕も笑みを浮かべる。
その笑みはずっと見ていたかった。
「うん」
そう、言い切った。
何年前のことだっただろう。
あの頃から、君に随分と会っていない。
何もない無機質な生活を永遠に送っているようだった。
変わらない生活がこれからも続くと思っていた。
でも、君のことを思い出して。
僕はやっぱり君に会いたいのだと実感する。
君との記憶は、頭にこびりついたように、離れない。離さない。
僕からしたら、君こそ永遠に変わらない存在で。
形のない、想像でしかなくても、それは存在で。
ただ、夢のような幻でも、会いたかったんだ。
そんな気持ちがずっと渦巻いている。
雨はまだ、絞り込むように、降っていた。
「大事にしたい」
急に目を覚ました。
何もないときだと言うのに、なぜだろうか。
幾度かまばたきをしたあと、これが夢じゃないことを理解した。
どうやら、本当に起きてしまったらしい。
暗い部屋の隙間から、明かりが漏れ出している。
リビングからテレビの音が聞こえた。点けてそのままだったのだろうか。
目の前には、天井が広がっている。
ごろん、とベッドを転がった。
頭には、一つの問いがぐるぐると回っていた。
一生大事にしたいものってなんだろうな。
そう、唐突に思った。
なにか考えがあるわけでもない。ただ、その考えが思い浮かんだ。
寝る前だというのに、まるで寝れなくなるような問いだ。と少し苦笑する。
自室に入り、戸を閉める。がチャリ、と音がした。
もう夜も更けて、月も出ている。夜の11時過ぎ。
まあでも、ちょっとした暇潰しにはいいのかもしれない。確かに、楽しくもないし。
考えるのはあまり好きではないが、好きじゃないだけだ。やりたいと思えば、いくらだって浮かんでくる。
ベッドに寝転がった。少し沈み、置いてあったぬいぐるみが転がってくる。
辺りは、もう真っ暗になっていた。
「大事なもの」
それは人によって違う。
夫が大事だ。子供が大事だ。と同族を選ぶ者もいれば。
ぬいぐるみが大事だ。この本が大事だ。と人工物を選ぶ者もいる。
それが人によって異なる感性、と言うものだろう。
僕の場合はなんだろうか。
家族?
それは、血の繋がっている、というだけの同族。同族同士で結婚したところで繁殖もうまく行かない欠陥品。大事にしたところで、どうせ消えてしまうもの。
一生を賭けるほど、僕は人間ができていない。
物? それだって、捨ててしまえば、無縁の物。使わなければ、意味のないもの。
確かに好きな本もぬいぐるみもある。だけどそれだけ。後々使わないなら、一生を賭けるようなことはできない。
はあ、とため息を吐いた。本当に僕は欠陥品だ。人間として、おかしい。
普通はもっと、気軽に使うものだ。そんなの分かっているはずなのに。
でも、もしかしたらひとつあるかもしれない。ふと、思い付いた。
ひとつだけ。家族でも物でもない。
頭に浮かんだのは、君の顔だった。
一生大事にできるか、と問われたら、その答えは不透明なところだろう。
自分でも、できるわけがないと諦めてしまう。
でも、一生を賭けられるのは、君しかいない、と思った。ただの勘だった。
君はもう、いない。いつか、消えてしまった。
でも、想うことだけは、できる。
願うことだけは、いとも簡単にできる。
いつの間にか、暗いところにいた、
脳は、眠っているらしい。俗に言う、金縛りか。
体を動かそうという発想すら浮かばなかった。考えていたのは、この問いだけだった。
この考え、この気持ちは、君への感謝と応えだ。
それだけは、僕の人生、嫌、一生を賭けられるぐらい、「大事にしたい」ものだと思った。
夜は更け、街灯に誰かの陽炎が、伸びた。