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「過ぎた日を想う」

 まるで夢を見ていたようだった。
 どこかふんわりとして実感がない。しかし、これは紛れもない現実なのだ。
 なんで、と思わなくもない。自分自身、過去に縋りたくもなってしまう。

 雲を掴む、なんて表現がある。漠然とした、捉えられないことを指すらしい。
 けれど、それは掴めないものではなく手に取れるものに使うべきだ、と思う。実態があるのだから。まだ、存在するんだから。
 ただ、自分たちが空想を広げて、ふわふわと白いものを想像しただけなのだ。ありもしない妄想を、「無い」なんて言葉で一蹴するのは、どうなのだろう。

 ああ、世界は世知辛い。言葉ですら、まるで社会を表すことなどできない。たくさんあったとしても、それは本当は必要性のないものなのだから。

 いつか、何かが変わる日は来るのだろうか。それとも、「日」なんて、時間を限定した我々のもとになど、存在しないのだろうか。


 ある日の昼下がり。何もない、退屈な日々の現在版。
 つまりは何も変わらない日だ。こうして考える間も時間は過ぎ去り、過去と記憶に捕らわれた生物だけが世界を動かしている。
 信号が赤になる。ただ街中を歩いているだけで、静寂とは無縁になる。周りが動きを止めると同時に僕も歩みを止めた。
 風が吹いた。こんなにも歩道は狭いのに、人々の合間を縫って風は入り込んでくる。夏よりかは幾らか涼しくなった風は自分からどこに分かれていくのか。

 変わり映えしない空。街中。人が動き去り、そこに自分がいるだけの孤独。
なぜ、こんなにもなってしまったのだろうな。この世界は何を考えているのだろうか。
 そう思いながら、僕の意識は思考へと沈んでいく。


 思考をするのが好きだった。これがなにで、なぜ、そうなるのか。
 必要さを深掘りするのが得意だった。これは本当に、必要なものであるのか、と。
 誰かの言葉から考えを発展させるのが楽しかった。どうしてこの人はそう考えて、自分はどう思うのか。


 耳を澄ます。
 風の音、街の騒音。信号の音、人々の話声。全てが耳に入り、一つずつ情報が整理されていく。
『今日も暑いね~』『ね~』
 一つ、そんな声が聞こえた。

 暑さ。なんで、そんなにも簡単に言葉にできるのだろう。軽々しく、まるで当たり前の社交辞令のように。
 まず前提として、地球が暑くなったのは人間のせいだ。
 もともと地球は人間のものでもないのに、世界を征服して。
 経済発展だかなんだかで、オゾン層を破壊して。
 その後、それが分かっていながらも便利な生活が板についたからか、本格的な取り組みを実施しようとはしない。
――それが、暑くなった原因だ。

 そもそもの話、今の時期は普通に地球が回っていたら氷河期になっているはずだった。
 だから、本当は寒いはずなのだ。なのに、今年の夏は猛暑日が続いた。
 結論としてそれは……。もう、分かっていて当然のはずなんだ。
――人間が悪いのだ、と。


 はあ、と感嘆にも満たない溜息を吐く。
 人間が悪なのだ、という紛れもない事実を更に突き付けた憎しみ。そして自分がそうなのだと言う圧倒的な苦しさ。全てがごちゃ混ぜになって、溜息とともにぽいと吐き出す。
 きっと誰も拾っては、くれないだろう。


 ふと歩道の端にある木に目が行った。誰もが一度は見て、知らぬ間に通り過ぎる自然を。
……自然?
 自分の言葉にふと違和感を覚えた。

 自然。それは人間の手を出してはいけない領域だったはずの場所だ。
 自我に気づいた人間という種は、自然を破壊して新たな世界を作り上げた。それが今の社会で。

 つまりは自然と社会は対になるもの。いや、対にしたもの、というべきか。
 だからこそ、社会に自然なんてものがあるわけがない。共存なんて、できるわけがないのだから。

 だから、あの木は、自然なんて呼んではいけない。あれはただの人工的自然であって、自然ではない。ただの偽物。
 森林公園、だとかそういう類いのものもそうだ。自然を感じる、なんて。あれはただ、自然を壊しつくした人間が、単に自然が恋しくなって造った自然破壊の為の存在なのだから。

 自然と共に生きる? 無理に決まっている。地球を現在進行形で壊している、いわばがん細胞。地球から生まれながらも、母を殺した子供。

 もちろん、木々に生物に悪だ、と言っているわけでは無い。そこに造ろうと思ったすべて人間のせいなのだ。すべて。すべて。


 ああ、と心の中で乱暴に考えを振り払う。どうしてこうなってしまうのだろう。自分だって人間の癖に。それが分かっていて、こういう風に考えてしまう自分に悲しくなる。ああ、なぜ。

 誰もが、軽々しく言葉を使っている。自分だってそうだ。人間が自分たちでしてきたことを棚上げにして、そのくせまるでそれが悪いかのように話し出す。
さっきの暑さのように。


 できる事ならば、この考えを誰かに言いたい。別に人間が殺したい程憎んでいるわけじゃ、ないから。それだったら、自分も同罪なのだから。
 もちろん、この考えが正しいと言っているわけじゃない。でも、知ってほしいのだ。自分なりに考えたこの言葉を。どうして彼らは分からないのだろう。なんで、知らぬ存ぜぬで過ごせるのだ?

 ああ、でも。無理だろうか。聞いてもらったとしても、世間一般は理解なぞしない。自分たち人間の世界が普遍的なものだと思ってしまっているから。これが当たり前だと、考えてしまっているから。

 解かって、いるのだ。そんなこと。分かっているはずなんだ。誰も本当に理解なんてしてくれないのだと。ただの頭のおかしい人だと思われることを。
 だからこそ、言い出せない。自分の考えが、社会から弾圧されるべき思考だとわかってしまっているから。心の奥に爆弾を抱えて生きるしかないのだ。それが心の中で幾度も爆発しようとも。


 ああ、と心の中で感嘆を叫ぶ。どうにかできる事なら、子供の頃にでも戻りたい。世界の狂気を知る前の自分に。純粋無垢で、社会の全てをどうとでも受け止められていた、あの時代に。
 でもそれと同時に、きっと理性は言うのだろう。「知ってしまった心は、もう元には戻らないのだ」と。「過ぎた日はもう戻ってこないのだ」と。

 わかっている。でも、少しぐらい望みが欲しかった。明日にはこの考え方が変わって、社会で生きることになんの苦しみも抱かなくなるかもしれない。人間の世界で生きることが、普通だと思えるようになっているかもしれない。
そんな世界を。

 ああ、でも、どれだけ邪険しようとも。僕には、子供の頃のような過ぎた日を想うことしか、できないのだ。
――もう、普通へは、戻れないのだから。


 信号が青に切り替わり、周りが一斉に動き始める。僕も、一緒に。
 風が吹く。どこか心地の悪い風は、僕の心情を表すようだった。
 僕のように、普通に見えていても、心の中ではこんなことを考えている人が居たりするだろうか、なんて。
 そんなこと、希望の欠片もあるわけないのに。

 自嘲的に、はあ、とため息を吐く。
 きっと、この空の向こうには。なんてないんだろうな、と。
――空を見上げた。

10/6/2024, 3:13:56 PM