まあまあの長い年月、我々はここで暮らしてきた。
ま、間借りではあるんだが。
大家がたまに風を入れに来るくらい以外は静かで、暮らしぶりも気に入ってた。
我々にとっては快適な住まいだったわけさ。
それが、急にがたがたと窓が開け放たれて、人が入り込んできた。
どうやら久し振りにこの家の主が定まったらしい。
いつかはこんな日が来るとわかってはいたんだけどね。
仕方ないから、今夜、ひっそりと引越し作業だ。
夜逃げとか言わないでくれよ。
我々は明るいところは苦手なんだからさ。
『突然の君の訪問。』
手ごたえは、まあ、半々ってところかな。
でも半分も可能性があるなら、挑戦する価値はある。
急に雨が降ってきたけど、出かける前に降り出してくれたからツイてる。傘をさして行けるからね。
一張羅の足元を汚すと怒られるから、そこだけは気をつけないといけない。
約束の時間の少し前に着いて、おばさんに聞くと、あの子はまだ帰ってきてないらしい。
なので、軒下で待たせてもらうことにした。
傘を、持っていないだろうな。
濡れていないだろうか。
どこかで雨宿りしているといいけど。
それで遅くなってるなら、全然かまわないんだけどな。
『雨に佇む』
メカにしか興味がないクソ爺ではあるが、最も古い一味で、自分が駆け出しの頃からよく知ってる、言わば持ちつ持たれつの関係ってわけだ。
たまにこうして酒を片手にチェスを打つのも、そうできるのは奴しかいないってわけじゃないが、そうするのは奴が最も適当だっていう寸法さ。
チェスの実力は拮抗してるはずだが、今日はどうも読み違いが多い。
安ワインに酔ったのか、はたまた、おたからにありつけるかもしれない幸運に酔ったのか。はたまた。
爺はそういう、細かいところを突っついてくるから気に食わない。
あたしの正面にこうして座ってくる奴は、今じゃこいつだけだからな。
『向かい合わせ』
わたしのおばあちゃんは、同じ街だけど少し離れた所に住んでいる。
小さいころには、ときたま遊びに行ったり、おばあちゃんのほうからうちに来たりしていたけれど、わたしが学校や友だち付き合いが多くなって忙しくなって、それにおばあちゃんが年をとって出かけるのが大変にもなって、最近はあまり会えていない。
おばあちゃんはわたしの誕生日を必ず覚えていて、毎年プレゼントと言って手料理を贈ってくれる。
料理好きで、以前はうちに遊びに来るとなると手作りのお菓子を持ってきてくれたおばあちゃんらしいし、わたしも子どもの頃は、おばあちゃんの料理を美味しい美味しいって食べていたわ。
でも、それって何年前の話なのかしら。おばあちゃんにとっては、わたしはまだ四、五歳なのかしら。毎年誕生日を覚えているのに?
正直言って、おばあちゃんの料理って、よく言えば伝統的、悪く言えばババ臭いのが多いのよね。
誕生日にケーキはかぶるからと気を遣ってパイ、というチョイスは悪くないけど、申し訳ないけど、わたしはあのパイが好きじゃないの。
けど「あのパイが好きじゃない」ことを、おばあちゃんに言えていない私も悪いの。
だって、せっかく作ったお料理が嫌いって言われたら、ショックでしょう。
今度、電話があったら、伝えようかしら。
いえ、久しぶりに時間を作って、会いに行ったほうがいいのかしら。
いつかは伝えなくちゃいけないのに。
『やるせない気持ち』
海の仕事を生業にしていると、仕事仲間から不思議な話を聞くこともある。
海坊主と目があっただの、霧の向こうに幽霊船が浮かんでただの、神さまが現れただの、それを見た本人が言うものだから、そりゃあ臨場感があるもんだ。
おれたちはそれらを、聞いてるときはどんなにばかにしてたって、根っこの部分では信じてる。
そうしていたら、おれたちも見たんだ。
観音様の御神渡りだった。
おれも仲間も観音様のお顔をこの目で見た。
海で妖怪だか怪物だか神さまだかに蹂躙され、命からがら港に戻ってくる。そんなことがいつか自分の身に起きないとも限らないんだ。
海では、人間の命などちっぽけなものだと、肝に銘じておかなくてはならない。
『海へ』