足かせもなく空高く飛んでいるあの鳥を、人は自由と言うのだろう。
しかしあの鳥も、翼と引き換えに、大地を踏みしめる前足であったり、道具を使う指を失ったのだ。
空には遮るものはないが、それはつまり、とまり木がなければ、翼を休めることもできない。
見渡す限り広い空に、ひとりぼっち。
それこそ究極の自由だというのだろうか。
『鳥のように』
別れの挨拶をしなかったな。
さよならも、またね、も言わなかった。
ただ、ふりむかないで、と手を離しただけだ。
なんだかそれがとても自然で、当然のことで、そう言えばと思い出さなければずっと意識もしなかっただろうと思えた。
近いうちに再会できると確信してるから?
そもそも出会ったことすら夢のようなことだから?
多分どれも正しくて、どれも違っている。
わたしを覚えている者の中に、わたしはいる。それ以外の場所にわたしはいない。
本当に別れのときは、思い出がなくなったときだろう。
そのときが来たら、悲しい出来事をひとまとめにしておいてほしい。
そっと一緒に連れていくから。
『さよならを言う前に』
昨夜の激しい雨は、通り雨だったようだ。
この頃どうも、出かけるときに限って急な雨にあいがちな気がする。
歩いているときなら、傘をさすとか、どこかの軒下に雨宿りするのがいいのだけれど。どうしようもない場合が多くて困る。
相棒は慣れたものなのか諦めているのか、文句を言わない。
とはいえ、ずぶ濡れになればきちんと拭いて、着替えて体を温めなくてはいけない。そうでなくては風邪をひいてしまうというのに、昨夜は心ここにあらずといった具合に適当に済ませて、だから今朝は寝込んでしまった。まったく、ずぼらなところは相変わらずだ。
今日も空を見上げる。すっかり晴れた空は、雨が降る気配もない。
頼むから、雨は降らないでほしい。
『空模様』
午前十時を過ぎたので、手洗いに立つ。
小用を足し、しっかり手洗いをしながら、鏡を見る。
顔色、特に異常なし。
近ごろはすっかり仕事にも慣れたからか、職場で“体調を崩す”ことはなくなった。
しかし、油断は禁物。調子に乗りやすい気質があると自覚しているならなおさらだ。
席に戻ると、隣の青年が体を乗り出して話しかけてくる。
「おかえりっす。いっつもこの時間トイレに行くっすよね」
にやりと笑って言う青年はサボりっすか? と暗に言いたいようだ。こういう時は、確か……
「水分補給を意識的にしてて、トイレも意識的に行ってるんだ」
とでも答えておけばいいとアドバイスされたんだ。
「へえー、偉いっすねー」
青年は興味を失ったように自分のイス戻っていく。よしよし、うまくいったようだ。
とりあえずあと二時間。昼休みになったらまた便所に行かなくては。
顔色、特に隈が目立っていないか。異常を感じたら引き出しにストックしてる栄養ドリンクの出番だ。
ふと、隣を見ると、さっきの青年がデスクの引き出しから一口大のチョコレートを取り出して口に放り込んでいた。
よく見ると、まだ午前中なのに疲れた顔をしている。さっき話しかけてきたのは、自分もサボりたいという心情だったのだろうか。
なんだ、彼もおれと一緒なようなもんじゃないか。笑いたいような、安心したような吐息がふっと漏れ、誰かに聞かれてないか慌てて口を抑えた。
昼休みまでお互い頑張ろうぜ。
『鏡』
仕事がらというのと、趣味でというのもあり、書斎にはそれなりの本がある。
整頓されているとはお世辞にもいえず、今取り掛かっているものに関連するものがそこらへん、少し前のがあそこらへん、という具合に、本人しか分からない分け方で積み置かれているものだから、当然本人しか片付けることもできない。そして、本人は片付ける必要性を感じていないものだから、つまりいつまでたっても片付くことはないのだ。
たまには掃除をしたらどうなの。
ほら、この本なんて、いつからここに積まれているんでしょう。うっすらほこりをかぶっているじゃないの。
書斎に立ち寄った妻があまりの汚れ具合に呆れ、
「わたしが掃除を手伝う」
と言うのをやっと追い出して(見られて困るものがあるわけではなく、体が丈夫と言い難い妻にほこりだらけの部屋に長居してほしくない)、書斎の主はひとつ息を吐く。
この本なんて、と指さされた本は、確かにほこりをかぶっている。これは確か、ここに越してきた頃に取り掛かっていた件だ。
懐かしいな、と思わず手に取り、ぱらぱらとページをめくると、その真ん中付近に紙が挟まっていた。
開いてみると、押し花だった。
なんてことはない、庭に咲いている花だ。
そう、確か、庭で遊んでいた娘が摘んできて、机の端に並べたのだ。
書斎の主は、押し花を紙に挟んで、元のように本に戻した。本のためを思えば不適切な行動かもしれないが、これはこのまま残しておきたいと思った。
表紙のほこりを払うと、書斎の主は、収めるべき本棚……の前の本の山を崩しにかかることにした。
『いつまでも捨てられないもの』