おれになくて、あいつにあるものとは何だろうか。
そんな疑問が一瞬浮かび、そして自嘲と共に消える。
そんなものは、おれがよく知っている。あいつは、おれのように卑屈ではないし、まっすぐだ。
あいつになくて、おれにあるものも、いくらかはあると思う。が、それでもおれはあいつの眩しさを羨ましいと思う。と同時に、憎らしくも思う。
それでも、おれは⸺おれも、あいつの眩しさに惹かれているのだ。おれが隣で影になればなるほど、あいつは輝くのではないか、それは素晴らしいことではないかとすら思う。
俺があいつとつるむほど、君はあいつに惹かれるのだろう。
君は気づくだろうか、俺と同じだと言うことを。
『もしも君が』
「雨が降ってるな」
兄が、ぽつりと言った。
おれたちは、雨が少ないところの生まれだ。大人になった今ならともかく、子どもの頃は雨が珍しかった。たまに降ると、窓に張り付いて、二人して外をじっと眺めていたこともある。
「昔、雨が降ってきたとき⸺」
兄が言う。
「石の壁に水が吸い込まれていくのが面白くて、ずっと見てたことがあったな」
⸺一緒に、と言下に言われた気がして、おれは気を良くした。
「滅多に使わない雨具を慌てて持ち出すおばさんたちがいたっけ」
おれが続ける。
「そうだな。洗濯物を慌てて取り込んでいた」
兄が目元を緩めて言う。
「あんまり慌てて、男どもの下着を取り落としていた」
「兄貴、よく覚えているな」
おれは感心して、今や目線が下になった兄を見やる。
そしてふと、疑問が浮かぶ。
「壁に水が染み込むのを見てたんじゃないのか?」
そう言うと、兄は笑みを濃くして言う。
「最初はそうだったが、お前が楽しそうに女中を見ていたから、おれも見ていた」
はは、とおれは声を上げて笑った。
笑い声はすぐに、二つ重なる。
おれたちは、きっと、ずっと、このままだ。
『雨音に包まれて』
久しぶりに、夢を見た。
今思えば、あの頃は、熱意があれば大抵のことはできると思っていたのだろう。
若かったのだと言えば、聞こえはいいのかもしれない。
しかし実際はただ思い合う恋人を引き裂いただけにすぎなかった。
ずっと後悔していた。
会えない悲しさや虚しさを、この、彼にも味わわせるべきではなかった。
自分がその立場になって初めて気がついたのだ。
一言で言えば、やはり「若かった」のかもしれない。
そう思いはするのだが⸺。
この、彼が呼び寄せる出会いもあった。
自分と同じように、彼を気に入ってくれた少女に、心をくだくことができる。なかなかに楽しい体験だ。
そのおかげだろうか、久しぶりにあの人の夢を見たのは。
あの人の名前を口にすると、一気に当時のことが蘇った。
忘れてはいない、忘れない。
まだずっと待っている。
だから⸺。
『君の名前を呼んだ日』
歌を歌うことは、必要に迫られたから。
ホテルには夜のバーが必要で、バーにはピアノが、そして歌がつきものだから。
歌手を雇えば良かったって?
⸺そうかもしれない。けれど、自分で言うのもなんだけれど、こんなところにわざわざ歌いに来てくれる歌手がいるのかしら。
そう言い訳をしながら、わたしは、そして周りもとっくに気がついてる。
わたしが、夜はあのバーにいたいだけなのだと。
夜にしか現れないあの人を待っているだけなのだ、と。
今夜わたしが歌うのは、若き日の過ぎ去った恋の歌。その思い出を、ずっと胸の中にいだき続けているという歌。
誰かさんは、ちっとも聞いていないんでしょうけど。
『歌』
幸せって何だろう、と問いかけられて、咄嗟に答えられなかった。
生きるのに必死で、死なないことに必死で、大切な人を守ることに必死で。そのためにがむしゃらにもがいてきた。
誰もが、命の危機を隣に感じることなく、飢えることなく、死に至る“毒”をその身に受けることなく生きられたら、それが幸せというものではないかと願ったこともある。が、それは人が人と生きる以上、不可能なことだと知った。
子どもたちに木の実をもらった。拾い集めるのに、どんなに苦労しただろう。
嬉しかった。ありがたいと思った。
これが、幸せというものなのだろうか。
『幸せとは』