わたしのおばあちゃんは、同じ街だけど少し離れた所に住んでいる。
小さいころには、ときたま遊びに行ったり、おばあちゃんのほうからうちに来たりしていたけれど、わたしが学校や友だち付き合いが多くなって忙しくなって、それにおばあちゃんが年をとって出かけるのが大変にもなって、最近はあまり会えていない。
おばあちゃんはわたしの誕生日を必ず覚えていて、毎年プレゼントと言って手料理を贈ってくれる。
料理好きで、以前はうちに遊びに来るとなると手作りのお菓子を持ってきてくれたおばあちゃんらしいし、わたしも子どもの頃は、おばあちゃんの料理を美味しい美味しいって食べていたわ。
でも、それって何年前の話なのかしら。おばあちゃんにとっては、わたしはまだ四、五歳なのかしら。毎年誕生日を覚えているのに?
正直言って、おばあちゃんの料理って、よく言えば伝統的、悪く言えばババ臭いのが多いのよね。
誕生日にケーキはかぶるからと気を遣ってパイ、というチョイスは悪くないけど、申し訳ないけど、わたしはあのパイが好きじゃないの。
けど「あのパイが好きじゃない」ことを、おばあちゃんに言えていない私も悪いの。
だって、せっかく作ったお料理が嫌いって言われたら、ショックでしょう。
今度、電話があったら、伝えようかしら。
いえ、久しぶりに時間を作って、会いに行ったほうがいいのかしら。
いつかは伝えなくちゃいけないのに。
『やるせない気持ち』
海の仕事を生業にしていると、仕事仲間から不思議な話を聞くこともある。
海坊主と目があっただの、霧の向こうに幽霊船が浮かんでただの、神さまが現れただの、それを見た本人が言うものだから、そりゃあ臨場感があるもんだ。
おれたちはそれらを、聞いてるときはどんなにばかにしてたって、根っこの部分では信じてる。
そうしていたら、おれたちも見たんだ。
観音様の御神渡りだった。
おれも仲間も観音様のお顔をこの目で見た。
海で妖怪だか怪物だか神さまだかに蹂躙され、命からがら港に戻ってくる。そんなことがいつか自分の身に起きないとも限らないんだ。
海では、人間の命などちっぽけなものだと、肝に銘じておかなくてはならない。
『海へ』
足かせもなく空高く飛んでいるあの鳥を、人は自由と言うのだろう。
しかしあの鳥も、翼と引き換えに、大地を踏みしめる前足であったり、道具を使う指を失ったのだ。
空には遮るものはないが、それはつまり、とまり木がなければ、翼を休めることもできない。
見渡す限り広い空に、ひとりぼっち。
それこそ究極の自由だというのだろうか。
『鳥のように』
別れの挨拶をしなかったな。
さよならも、またね、も言わなかった。
ただ、ふりむかないで、と手を離しただけだ。
なんだかそれがとても自然で、当然のことで、そう言えばと思い出さなければずっと意識もしなかっただろうと思えた。
近いうちに再会できると確信してるから?
そもそも出会ったことすら夢のようなことだから?
多分どれも正しくて、どれも違っている。
わたしを覚えている者の中に、わたしはいる。それ以外の場所にわたしはいない。
本当に別れのときは、思い出がなくなったときだろう。
そのときが来たら、悲しい出来事をひとまとめにしておいてほしい。
そっと一緒に連れていくから。
『さよならを言う前に』
昨夜の激しい雨は、通り雨だったようだ。
この頃どうも、出かけるときに限って急な雨にあいがちな気がする。
歩いているときなら、傘をさすとか、どこかの軒下に雨宿りするのがいいのだけれど。どうしようもない場合が多くて困る。
相棒は慣れたものなのか諦めているのか、文句を言わない。
とはいえ、ずぶ濡れになればきちんと拭いて、着替えて体を温めなくてはいけない。そうでなくては風邪をひいてしまうというのに、昨夜は心ここにあらずといった具合に適当に済ませて、だから今朝は寝込んでしまった。まったく、ずぼらなところは相変わらずだ。
今日も空を見上げる。すっかり晴れた空は、雨が降る気配もない。
頼むから、雨は降らないでほしい。
『空模様』