午前十時を過ぎたので、手洗いに立つ。
小用を足し、しっかり手洗いをしながら、鏡を見る。
顔色、特に異常なし。
近ごろはすっかり仕事にも慣れたからか、職場で“体調を崩す”ことはなくなった。
しかし、油断は禁物。調子に乗りやすい気質があると自覚しているならなおさらだ。
席に戻ると、隣の青年が体を乗り出して話しかけてくる。
「おかえりっす。いっつもこの時間トイレに行くっすよね」
にやりと笑って言う青年はサボりっすか? と暗に言いたいようだ。こういう時は、確か……
「水分補給を意識的にしてて、トイレも意識的に行ってるんだ」
とでも答えておけばいいとアドバイスされたんだ。
「へえー、偉いっすねー」
青年は興味を失ったように自分のイス戻っていく。よしよし、うまくいったようだ。
とりあえずあと二時間。昼休みになったらまた便所に行かなくては。
顔色、特に隈が目立っていないか。異常を感じたら引き出しにストックしてる栄養ドリンクの出番だ。
ふと、隣を見ると、さっきの青年がデスクの引き出しから一口大のチョコレートを取り出して口に放り込んでいた。
よく見ると、まだ午前中なのに疲れた顔をしている。さっき話しかけてきたのは、自分もサボりたいという心情だったのだろうか。
なんだ、彼もおれと一緒なようなもんじゃないか。笑いたいような、安心したような吐息がふっと漏れ、誰かに聞かれてないか慌てて口を抑えた。
昼休みまでお互い頑張ろうぜ。
『鏡』
仕事がらというのと、趣味でというのもあり、書斎にはそれなりの本がある。
整頓されているとはお世辞にもいえず、今取り掛かっているものに関連するものがそこらへん、少し前のがあそこらへん、という具合に、本人しか分からない分け方で積み置かれているものだから、当然本人しか片付けることもできない。そして、本人は片付ける必要性を感じていないものだから、つまりいつまでたっても片付くことはないのだ。
たまには掃除をしたらどうなの。
ほら、この本なんて、いつからここに積まれているんでしょう。うっすらほこりをかぶっているじゃないの。
書斎に立ち寄った妻があまりの汚れ具合に呆れ、
「わたしが掃除を手伝う」
と言うのをやっと追い出して(見られて困るものがあるわけではなく、体が丈夫と言い難い妻にほこりだらけの部屋に長居してほしくない)、書斎の主はひとつ息を吐く。
この本なんて、と指さされた本は、確かにほこりをかぶっている。これは確か、ここに越してきた頃に取り掛かっていた件だ。
懐かしいな、と思わず手に取り、ぱらぱらとページをめくると、その真ん中付近に紙が挟まっていた。
開いてみると、押し花だった。
なんてことはない、庭に咲いている花だ。
そう、確か、庭で遊んでいた娘が摘んできて、机の端に並べたのだ。
書斎の主は、押し花を紙に挟んで、元のように本に戻した。本のためを思えば不適切な行動かもしれないが、これはこのまま残しておきたいと思った。
表紙のほこりを払うと、書斎の主は、収めるべき本棚……の前の本の山を崩しにかかることにした。
『いつまでも捨てられないもの』
仕事場の窓からは、川が見えていた。
いかにも街中のといったような、あまりきれいとは言えない川だ。舟のエンジン音がブーンと通り過ぎる以外は、特に音もなく、流れているのかも分からなかった。
いま、小さな島のキャンプで、ちゃぷんちゃぷんといった波の音を聞きながら眠りに落ちようとしている。
海の音は、もっと大きいものだと思っていた。
昼の海は魚が泳ぎ回るのも見えるくらい澄んでいて、夏の太陽をキラキラと反射して、潮の香りも香ばしく、活動的に見えた。
いまは、押し黙るというよりも、もっと静かで、何もかもをその内に取り込んで離さないような、大きな引力があるような、不思議な感じだ。
あの川は、やがてこの海に辿り着くのだろう。
街の灰や塵を黙って飲み込んで、夜の海に引き寄せられる。そうして朝になれば、何食わぬ顔で空を反射してキラキラと輝くのだ。
けれど、皆、それを承知で海に出ていく。
『夜の海』
高校生ともなれば、自転車である程度の距離を移動できるようになる。
学校はもちろん、じいちゃんちも余裕で行き来できる。
電車で数駅分の距離なんて余裕だ。
自力で自由に動ける距離は、行きたい場所に行きたいと思う気持ちに比例するかもしれない。
いま、彼女にひと目会いたいと思えば、彼女のもとに向かうことができる。
冬の風を切りさいて進んでいるのに、寒さは全く感じない。
ペダルを漕ぐ足が何に突き動かされてるのか、今は分からなくていい。
早く、速く。
日が昇る前に。
『自転車に乗って』
落ち込んだとき、頭がぐちゃぐちゃのとき、ふと「あそこに行きたい」とか「あの人に会いたい」と思うことが誰しもあるだろう。
私もそういうときに会いたい人がいた。
心の奥をのぞき込んで、優しく背中を撫でるような、深い森のような瞳。木立が永遠に並ぶようなそれを、傷がついたと人はいうけれど、そんなことは全く思わない。
彼はずっと恋人を待っていのだという。
現実的には再会は叶わないのだと誰もが、彼自身も心のどこかでは思っているだろう。
静かに私を慰める彼でも、諦めきれないものがあるということ。
そのことが、私を癒やし、奮い立たせるのだ。
『心の健康』