[kiss] 2024/02/05
「この公式意味わかんないだけど!」
彼女は俺のとなりで目の前の問題集に悪態をつく。
「ねえ翔にい、ここ教えて!!」
タメ口で俺の前に、今解いているのであろう問題のぺー
ジを開いた問題集をドンと置く。
「おまえなぁ...」
俺はあからさまなため息をつく。そのとなりで彼女はクセの強い毛先を指先で遊ばせていた。
俺は彼女を見つめる。
「今くらい敬語使えよな。」
彼女は曇りなきまなこで俺を見つめ返す。
「なんで?」
「いや、俺バイトで家庭教師してんだけど。」
「関係ないじゃん」
「いや関係ある...」
「関係ないの!」
いつもと変わらない。
結局彼女の固い意志に俺はいつも負けてしまう。
「勉強進んだ?」
声のする方に振り返る。そこには茶菓子を持った彼女の母親がいた。
「まあまあかなー」
怪訝な顔をして娘の顔を見つめながら、彼女の母親はお近くのテーブルに茶菓子が乗った盆を置く。
「まあまあってあなた、もうすぐ受験でしょう?高校生で忙しいのに、無理言って幼馴染の翔くんに家庭教師頼んだんだから、もっとしっかりやりなさいよ。高校もそのまま女学校の高等部に進学できなきゃ他の女子校は遠いんだから。じゃあ翔くん、あとよろしくね。」
「はい、おばさん」
いつもの調子で彼女に言葉を吐き捨てていく母親に社交辞令の笑顔を向ける。
昔からこんな感じだ。異性関係にも厳しくて小中学と女子校に通わせている。そのせいか等の本人も恋愛感情というものが欠落している。身長の低さも関係あるのか子供っぽさは相変わらずで、いつもくっついている俺だけはおばさんも近づくことを許している。
「あーもうやる気出ない!」
シャーペンを投げ出して体をベットの上に投げ出す。
「なんか心配になってきた...受かんなかったらどうしよう....!」
彼女は体を起こして俺を見つめてくる。
「大丈夫だよ。お前そこまで勉強できないわけじゃないだろ」
「でも...」
励ましてやってもまだ心配そうな顔をしている。
するといきなり彼女が顔を上げる。
「そうだ翔にい!!何かおまじないして!」
「ほんとにガキだなお前」
「いいじゃん!!お守りってことで!」
そう言って俺の手を握ってブンブンと振る。
─── ほんとに。無防備すぎだろ。
「目、つむって」
「え、なんで?」
「いいから」
彼女は不思議そうな顔をして目をつむった。
高く上げたポニーテールの髪。長いまつ毛に薄い唇。幼く小さな顔。俺とは頭ひとつ分以上くらい差がある小さな体。
きっと俺がどう思ってるかなんて気づいてないんだろうな。
──── 早く、気づけよ。
俺はそっと、彼女の額にキスをした。
おでこのあたりにやわらかい感触を感じる。
目を開けると翔にいがさっき投げ出した問題集に目を通し始めていた。
「....?なにしたの??」
小さい頃からずっと片思いをしてきた私の大好きな人がこちらを向いて、ふっと笑った。
「ないしょ。」
【終点】2023/08/11
─── じゃあ、また明日な。
父が躊躇いがちにそう言った。
何処となくこちらの様子を伺うようなおよいだ視線。
何回も緩ませてヨレヨレになったネクタイ。
ずっっと前からモジモジしている足元。
これら全部、父が緊張した時に見せる癖だ。
父が今までにないほどに緊張しているのは明確だった。
それもそのはず。
明日、初めて私は、父の再婚相手に会うことになってい
るからだ。
私はそんな様子の父に、いつもと変わらない様子で何も
気取られないように告げた。
─── うん!会うの、楽しみにしてる。
昨日の夜のことを思い出しながら、妙に頭に響く電車の音を聞き流す。あと2駅で待ち合わせ場所に着く。父が指定してきたその場所は、再婚相手の地元らしく、父曰く、彼女のことを知ってもらうため、彼女が1番リラックスできる地元がいいとのことだった。
写真を見せてもらったが、なかなかきれいで、穏やかそうな温かい感じの人だった。確かにこれなら、父が好きになるのも分かる。別に再婚に反対なわけじゃないし、この人なら家族になれるような気がした。
─── でも、私にとっての「母さん」は、1人だけ。
少し景色の変わってきた窓の外を見ながら、自分の唇を強く噛み締める。
『次は○○、◯◯に止まります。お出口は───』
お決まりのアナウンスが響く。気づいたら、もう目的地に到着していたらしい。
ため息をつきながら、私は席を立ってドアの前まで移動する。
この電車は、あと3駅で終点だ。
ドアの上の画面を見つめながら、私はため息をつく。
─── このまま、終点まで行っちゃおうかな。
【病室】2023/08/03
真っ白な布団。
真っ白な服。
真っ白な壁。
真っ白な床。
どこを見ても、真っ白な景色ばっかり。
唯一白くないのは窓の外の世界ぐらいだ。
あの先へ行きたい。
そう思うのも仕方がない
こんな真っ白な世界より、「色」に溢れた『あっち側』の世界で思いっきり遊びたい。
でも、それももう、叶わないかもしれない。
自分がなくなっちゃうまで、ずっと『こっち側』の世界でしか生きられないかもしれない。
ずうっと、ひとりぼっちかもしれない。
─── そんな感覚、君は知らなくてよかったのに。
かつての自分と重ねるように僕は、『こっち側』の世界に閉じ込められて、『あっち側』の世界を眺める愛しい女性を、ただただ黙って見つめていた。
【明日、もし晴れたら】2023/08/01
雨。
学校の帰り道も、雨。
ずっと遠くまで広がる田んぼも、雨。
遊びに行けなかった弟の表情も、雨。
雨。雨。雨。また、雨。
どこもかしこも雨ばかり。
雨のせいで靴下は濡れるし、田んぼも雨で水位が上がっ
ているし、しまいには不機嫌になると我儘ばかりな弟の
機嫌まで悪くなってしまう。
── 当の私も今日やろうと思っていたことがあったのに
珍しく私が決意して、今日こそ始めようと思ったのに。
はあ。
無意識にため息がつく。
暗い表情になりながらも、私は幼稚園の迎えに行って一
緒に帰ってきた弟と手を繋ぎ帰路へついた。
「ただいまあ。」
キッチンの奥にいるであろう母に大きな声で私たちの帰
宅を伝える。
「おかえりー。2人とも、手、洗ってきなさい。前に欲し
がってたアイスあるわよ。」
どこか腑抜けたような穏やかな調子で冷凍庫を指差す。
「ホント!?やったー!!」
弟はすぐにカバンを床に投げつけて冷凍庫に顔を突っ込
む。さっきまであんなに不機嫌だったのに、アイスだけ
で機嫌が戻るなんて羨ましい限りだ。
──── もう、いらないって言ったのになあ。
母さんはいつもすぐに私の言ったことを忘れる。正真正
銘のど天然なのだ。
私は目の前のアイスから目を逸らす。
「いただきまあす!」
目を逸らした瞬間、隣から美味しそうにアイスを頬張り
始めた音が聞こえてきた。
──── ああ、もう!
こんなだから一度決意してもまた逆戻りしてしまうの
だ。私は窓の外とアイスを交互に見比べる。
目の前には期間限定の高級アイス。
そして外は、大粒の雨が降りしきって暗くなっている。
────── いっか、明日、もし晴れたらやれば良いか。
私は冷凍庫にある苺アイスのカップを取り出してその中
のアイスを頬張る。高級イチゴの酸味と甘味が口いっぱ
いに広がった。
こうして私は、雨を理由に、今日から運動1時間と、糖分
軽減というダイエットの決意の開始を、1日だけ遅らせた
のであった。
たった、1日だけ。
【視線の先には】2023/07/19
「ごめん、お待たせ!」
昇降口で立ち尽くす彼に手を振りながら近づいていく。
「本当にごめん!いきなり委員会入っちゃって。
大丈夫?なんともなかった?」
彼がこちらを向く。
「いや、ぜんぜん。お前のおかげで、女子たちも最近は
近寄ってこなくなったな。」
「そっかあ、良かったー。」
─── そう、私たちは、恋人じゃない。
彼はただの幼馴染。
モテる彼が最近後輩に付き纏われていて困っているのを
幼馴染の私が彼女のふりをしてサポートすることになっ
ただけだ。
本当に、こいつは昔っからものをはっきり言えないんだ
から。
本当に嫌だ。早く自立してほしい。
そんなことを1人で思っていると、彼の口が固く閉ざされ
ているのに気づいた。
何かと思えばどこか遠方に視線を向けている。
──── その視線の先には、クラスの女子がいた。
メガネをかけていて、本を片手に忙しなく走っていて危
なっかしい。でも、メイクも施されていないその顔は意
外と整っている。
─── そう、彼はあの子が好きなんだ。
きっと彼は、あの子に気持ちを伝える勇気がなくて、私
をずっとそばに置いて気を紛らわせている。
本当に、何をうじうじしてるのよ。
ほんとうに嫌だ。
─── 違う。
私を良いように使っちゃってさ。
─── 違うでしょ。
本当に嫌なのは、彼じゃない。
友人なら、彼のためになることをしてあげるべきなのに
彼の弱さにつけこんで、ずっと彼女のふりなんて続けち
ゃっている、誰かさんが嫌なんだ。