サルサは昼ごはんを食べながら眉をひそめて考え事をしていた。内容は、昨日のことである。
サルサにとって『何を考えているか分からない』、なんてことを言われたのは全く気にはならなかった。人の思考回路は簡単に理解できるものではないし、困惑したりするようなことではなかった。
が、サルサにとって心の中に残り続けたのはアリアのことであった。
一番最初にこの世界に連れてきてくれた人、というだけの人だとサルサは思っていたが、思ったよりもアリアが自分のことを目にかけてくれていることに困惑を覚えていたのである。
「……サルサさん?」
「……ウィルさん? どうしましたか?」
手を止めて考えていたサルサの様子を心配したのか、正面でご飯を食べていたウィルは彼の顔を覗きながら名前を呼んだ。
「…………いえ、大丈夫かな、と思っただけです。手が止まっていたので」
「……あぁ…………ちょっと考え事をしていまして」
そう呟きながら苦笑いを浮かべたサルサに対して、ウィルは首を傾げた。
「……考え事、ですか」
「その………………」
そんな出だしと共に考えてたことを伝えようとしたが、ふと、昨日のウィルがアリアに対して向けていた様子を思い出す。
やたらと強い口調で若干睨みながら話すウィルは今までに見ていた温厚な性格とは真逆であり、初めて見せられた激高している姿であった。
それは少々サルサにとって衝撃的なことであり、一夜明けた今でも鮮明に思い出される。
そうなると考え事の内容を明かしてしまえばきっとまたウィルの調子が崩れるに違いない、と思ったサルサは目を伏せながら言った。
「…………覚えること多いな……、なんて」
「……まぁ、何も知らない状態からなら覚えるのはだいぶ多くなることでしょう……」
ウィルは目を伏せながら言った。
いつものウィルさんだな、なんてサルサはそっと息をついた。
六時になっていつものようにサルサの部屋にノック音が響いた。サルサが扉を開けると目の前に立っていたのはアリアだったのが、いつもと違うところだったが。
「…………アリア、さん?」
「うん。来ちゃった」
にこやかな笑顔で言ったアリアはサルサの腕を掴んで部屋の外へと引きずり出した。
「今日の、キミの教育係は、私ってことで。じゃあ、行こっか。まだキミが見たことない景色を見せてあげる〜!」
テンション高めのアリアに腕を引っ張られ為す術なく着いていくことになる。
少々遅れたウィルはもぬけの殻になっている部屋を見つめて静かにため息をついた。
「さぁさぁ、こっちだよ〜!」
エレベーターで二十一階まで一直線で行ってから、色んな曲がり角を曲がる。迷路みたいなその道は、来たばかりで、しかも引きずられるままのサルサには全く理解出来ず、仮に連れていかれた場所で突然置いてかれたら部屋に帰れそうになかった。
「この階段をおりまーす」
突然立ち止まったアリアは目の前の階段を指さして言った。その階段はこげ茶色のステップにオシャレな黒の装飾が施された手すりであり、先日アリアと会った日常使いされている階段とは全く違った。
「ほら、何ぼーっとしてるの? 早く行くよ〜」
立ち止まったまま何を言わずに未だ困惑しているサルサの頬を軽く二、三回叩いてからアリアは階段を降りていく。サルサも腕を引かれているので下に降りることにした。
降りた先はこげ茶色の扉に続いていて、アリアは躊躇いもなく扉を開いた。
その部屋は他の部屋と比べるととてつもなく狭かった。正面の壁に全身鏡が一つついていて、周りに小さなテーブルと椅子、チェストが置いてあるだけだった。
全身鏡は金の枠で豪華な装飾がされていて、鏡にも関わらず全く何も映ってはいなかった。
「どう?」
「…………どう、と聞かれましても……」
「まぁ、そりゃそうね」
アリアは困惑したサルサの声に笑みを浮かべながら若干のスキップを交えて鏡の前へと向かった。
「これはね〜、人間界に行ける鏡なの」
「……え?」
サルサが驚きながら鏡に触れようとしたとき、後ろからグッと身体を引かれ、鏡へと伸ばした手は空をかすった。
「アリア……」
「……ウィルじゃん。やっぱり自分のを取られるのは嫌なのか?」
仕事の時の口調へと切り替えたアリアはトゲトゲしく言葉を吐いた。
「……それを見せるのはもっと後でしょう。何を考えているのですか」
「見せたいと思うのは人の勝手だろ。それとも、そうやって遠ざけないと、コントロールもできないと?」
「何をするかも何を考えているのかも、私には分かりませんから」
ウィルがため息をつきながらサルサのことを見下ろした。
「…………ボクのことですか」
「そーだよ。ウィルは、キミが何をするかも何を考えているかも分からないから、危険になるかもしれないこと全部から遠ざけて洗脳しようとしてるんだって」
「言ってないでしょ、そんなこと!」
アリアの言葉に対していつもの落ち着いた様子はどこえやらといった雰囲気で彼は声を荒げた。
「…………ウィルさん……?」
若干恐怖を感じたような声でサルサが問いかけたのに対して、若干苦い顔をしながらウィルは目を伏せた。
「……貴方には関係ないことです。アリア、彼の教育係は私です。余計なことをしないでください」
「……つまんないヤツだ。…………お前も『前はそうだった』のにな?」
「口を慎め!」
ニヤリと笑って言ったアリアに対して、ウィルは怒鳴るように言った。ウィルに抱きかかえられるようにされていたサルサは間近でその声を聞いてしまい、ビクッと身体を震わせた。
「…………あはは。キミはそうやって私のことを弾圧する過程で、サルサからの信頼を無くそうというわけか」
「そんなわけでは……」
眉を下げてそう呟いたウィルに対して一瞥した後に、サルサの手を取ってアリアは言った。
「怖い怖いお兄さんがダメって言うから今日は辞めておこうね。また来た時にはちゃんと教えてあげるからね?」
「…………わ、わかりました……」
困ったような、でも少しだけ安堵したような様子でサルサは答えた。
「…………行きますよ」
「は、はい……」
サルサの声のトーンは少しだけ下がっていて悲しそうな雰囲気を感じさせた。ウィルは一つため息をついてからサルサの腕を引いて部屋から出ていく。
一人残ったアリアは、その様子を冷ややかな目で見送ったあとに目を伏せてため息をついた。
「可哀想なサルサ。あんなバカにこれからずっと縛られちゃうんだ……」
アリアが鏡に触れると鏡面がまるで水のように波だった。
「私が連れてきて、私の下になるんだから、私が面倒見てあげないと……ね?」
そう言ったアリアの瞳は鈍い青に光っていた。
「さてと、教育といいつつ、全く勉強してないことにはお気づきでしょうか」
この世界の常識の勉強を一区切りさせ昼ごはんを食べたあと、ウィルはサルサに対してそんなことを尋ねた。
「…………え?」
「……お気づきではなかったですか? 常識を知る、というのは確かに教育に入る、という価値観も存在するかとは思いますが、二週間近くかけてやることではありません」
「…………すみません」
「……謝っている理由が分かりませんが」
顔を真っ青にしながら口から謝罪の言葉を捻り出したサルサに向かってウィルは若干驚いたような、困惑したような顔で言った。
「…………えっと、ボクの覚えが悪いのかな……と」
「そんなこと言ってないでしょう。大丈夫ですか。疲れてたりしますか」
彼の頬に手を当てて、体温を測るようにしたが異常は見当たらずにウィルは手を離した。
「…………まぁ、そんなわけでそろそろ実践というかあなたがするべき仕事の教育の前段階に進みます」
「…………はい!」
ウィルは微笑んで立ち上がった。
「ここです」
サルサの部屋からエレベーターで十階へと向かって、そこから五分ほど歩いた場所の部屋の前でウィルは言った。
普通の部屋とは少々ドアの装飾が違っており、漆黒の扉に金色の装飾がついたドアノブがついている。
「…………ここは?」
「入ったら、分かります」
ウィルはそう言いながら扉を開いて中へと入っていく。
中は黒い壁に赤いカーペットで荘厳な様子であり、人が何人か機械と向き合っていた。誰もいない機械の前にウィルとサルサが立つと隣に座っていたアリアが驚いたような顔で口を開いた。
「…………早くない?」
「まだ使えませんけどね、いずれ半年も経たないうちにこれを使うことになるのでしょう? だったら一回くらいは触れた方がいいと思いまして」
「あ〜、それめちゃくちゃ助かる……じゃなくて、いい考えだと思うぞ。私の教育係なんぞはいきなり使ってみろ、とか言ってきたからな」
「…………大変そうですね」
途中で咳払いをひとつ入れて、オフの時の少々高めの砕けた調子から、仕事の時の若干低めで偉そうな口調に切り替えたアリアに対してウィルは冷めた目でそう返した。
「さて、サルサさん」
「……はい!」
部屋の内装を見回していたサルサは、肩をビクッと震わせてウィルの方へと視線を向けた。
「この機械は夢を見れる機械です」
「…………? 眠れる、的な話ですか」
「いいえ。人間が見てる、というか持っている夢を覗ける機械です」
ウィルは微笑んでから機械の前の椅子を指した。
「座ってください」
「は、はい」
赤いベロアの椅子に腰掛けたのを確認すると機械を手で指し示した。機械は顕微鏡のような形をしている。
「下のダイヤルを回すと人を切り替えれます。見たい人を指定することはできません。ここから覗きます。では、どうぞ」
「は、はい……」
サルサは恐る恐る覗いて、少し経ってから顔を離した。
「見えました?」
「は、はい…………」
「よかったですね。……ここで働くことになると夢を書き出してデウス様に選んでもらって叶えてあげたりします」
「……なるほど」
「………………貴方がここで働くことになったのも、実は貴方がここで死なないように、どうか生きれるようにと願った人の夢がたまたま目に止まったからです」
「…………え?」
「だから、その人の夢の続き、ちゃんと叶えてあげてくださいね」
ウィルはそう言うと柔らかく微笑んだ。
⚠書き忘れたお題の話も載せました
お題「ほしのかけら」
「ここまでにしましょうか」
ウィルの言葉にサルサはそっと息をついた。
「意外と覚えが良いですね」
「ありがとうございます……。せっかく教えて頂いてるのに全く頑張らないというのもダメだと思いまして、復習もしてるので……」
「……だから昨日も今日も起きるのが遅かったんですね」
「う……すみません…………」
顔を下げて申し訳なそうな顔で謝罪した彼に向かってウィルは眉をひそめた。
「…………別に大丈夫ですよ。七時までに起きればいいんですから。……夜更かししてまで復習してるのはあまり褒められたことではございませんがね」
「すみません……」
「謝って欲しいわけではないのですが…………」
ウィルはそう呟いたあと、若干の時間考えてから微笑んでからカレンダーを見つめて言った。
「今日は……よし。サルサさん、外に行きましょう。今日は特別な日ですから」
「……え?」
サルサの困惑した声に全く構わずにウィルは立ち上がった。
「文献を片付けてきますから、その間に支度済ませておいてくださいね」
ウィルはそう言いながら微笑んだのに、何故か若干の圧を漂わせていて、サルサはさらなる困惑と抗議の声を飲み込んで大きく頷いた。
魔界の季節というものは人間界とは全くもって準じて居らず、気温は一年中十五から二十度、人間界で言うところの秋頃の温度であった。雨も晴れも曇りも雪も全てデウスの思い通りであり、晴れが好きなデウスのおかげで一年のうち九割ほどは晴れていた。雨が降るのは作物を作っている場所だけである。
そんなわけで空は青い月が欠けることなく光り輝いていて、満天の星空であった。
「……月、人間界のよりも明るい気がします……」
「そりゃあ人間界のは自分で光り輝いてないでしょう。こっちのは恒星といって、月自体が光り輝いてますから」
「そうなんですか……」
「そうです。まぁ、今日は消えますが」
「…………え?」
ウィルの声に困惑しながらサルサが空に目を向けると、月が段々と光量を失って、空と同じ色になってしまった。
「………………………………え?」
「……今日は、特別な日ですから」
ウィルは微笑みながら、でも全くサルサには目を向けずに空を見つめた。
そのまま二人で月が無くなって星だけになった空を見続けていると、ウィルが突然口を開いた
「…………そろそろ来ますよ」
「何がですか……?」
「…………そうですね。流星群の『この世界バージョン』と言ったら分かりやすいでしょうか」
「…………え?」
サルサの声と同時に星が空を流れ始めた。白い星が次々と流れていく。
「わぁ、キレイ…………って、痛い」
サルサが見とれていると、コンっという音とともに何かが頭に当たった。
「…………なにが、落ちてきて…………?」
地面に落ちたそれを拾い上げるとキレイな白色をした、角が丸くトゲトゲしたものだった。
「なんですか、これ…………」
「『星のかけら』です」
「星の…………かけら……?」
「はい」
頭に疑問符を浮かべた彼に対して、特に何とでもないかのようにウィルはそう答えた。
「星のかけらです。落とさないと増えていくんですよ、星って」
「…………え?」
全く分からないといった様子で聞き返したサルサに構わずにウィルは手を出した。そうすると、一つの星のかけらが彼の手に吸い込まれるように落ちてきた。今度は赤色だった。
「……赤色ですか」
「いっぱい色ありますよ。一番多いのは黄色ですけどね。やはり星といったら黄色でしょう?」
若干弾んだ声でウィルはそう言ったが、サルサは困ったような顔で質問をした。
「…………どういう原理で落ちてるんですか」
「……デウス様が落としてます。『魔法のような力』でね」
「…………増えるんですか?」
「空だと増えます。人間界の星だといずれ星は死ぬのでそんなに爆発的に増えることはないんですが、この世界だと死なないんですよ、星が。でも、増えるんです。一日に五から六個くらい。だから一ヶ月に一回くらい落とさないと空が星で埋まってしまって月が出れなくなってしまいますからね」
「…………すごいですね」
空からは星が流れながらたまに落ちていく様子が見えた。サルサが両手を伸ばせば、コロンコロンと何個かのかけらが飛び込んできた。ほぼ全て黄色だったけれど、一つだけ虹色だった。
「……虹色?」
サルサが不思議そうな顔で言うと、ニコニコと微笑みながらウィルは拍手をした。
「レアです。よかったですね。一個しか落ちないから大事にしてくださいね」
「…………どうしたらいいんですか」
「飾っておいてください。要らないなら、今度城下町に向かう時に加工店で加工してもらうなり、換金するなりしましょうか」
「加工……?」
「アクセサリーとかにです。今度行きましょうね」
ウィルは優しく微笑んでまた空に向き直った。
空の流れ星はまだまだ勢いを弱める様子はなくて、たまに星を落としていた。
お題「未来への鍵」
「今日は休みにしましょう」
朝の六時きっかりには顔も洗って制服も着ていたサルサに向かって、無慈悲にもウィルはそう言った。
「…………え」
「一番最初の日に教えましたがエレベーター以外に階段もあるのでご自身の足で行けるところには行って大丈夫ですが、くれぐれも城内からは出ないでくださいね」
「は、はい…………」
サルサが困惑とともに頷けばウィルは微笑んで去っていた。
こうしてサルサは突然休日を手にしてしまった。
『ご自身の足で行けるところには行って大丈夫』なんて言われたものの、城内はとてつもなく広い。働いてる職員数が人間界の城と比べれば桁違いに多く、さらにその人たちが全員城内に住んでいる。つまり、階数も部屋数も半端じゃないくらいに多いのであった。
サルサが住んでいるのは二階であり、外である一階に出るのは一見とてつもなく楽そうに見えるが、エレベーターならばすぐにあるものの、階段は階の端に一つしか存在せず、サルサの部屋は真ん中であったため、階段の方へ向かうのも一苦労、といった感じであった。
とりあえずどこかに、と思い立って階段へと向かったはいいものの、そこから階段を登る気をほとほと無くしてしまった彼は、ため息をつきながら階段の近くにあったベンチに座り込んだ。
「…………広い」
そう呟いた声は心底疲れたことが感じ取られるほどに吐息混じりであった。
「…………あれ、もしかして〜『供物くん』じゃない?」
そう言われてサルサが顔をあげれはそこに立っていたのは、サルサをこの世界に連れてきた少女、アリアだった。
「……供物って呼ぶのダメって聞きました」
「ウィルはね、頭硬いからさ。臨機応変に対応すりゃーいいし、私くらいになれば上の人じゃなきゃ黙らせることだってできちゃうしね〜」
あっけらかんと言ったアリアはサルサの隣に腰掛けた。
「口調、違いません?」
「……なまいきだな〜。オフみたいなやつだよ。偉そうにするのも畏まるのもどっちもめんどくさいじゃん?」
「…………ボクには分かりません……」
申し訳なさそうな顔になったサルサに対して若干慌てた様子でアリアは一つ咳払いをしてから口を開いた。
「勉強は順調?」
「…………多分」
「あはは、ウケる。多分か〜。まー、そんな簡単に分かりゃしないか〜」
「……どこまで言ったら順調と言えるか、分からないだけです」
「そりゃそうでしょ。そんくらい分かってるよ?」
アリアは軽い調子で言ったあとに微笑んだ。
「……名前、なんていうの?」
「あ……サルサ、って付けていただきました……」
「いい名前じゃん♪ デウス様命名なんでしょ、いいな〜」
「……いいんですか?」
「人間にとっても神様だけど、私たちにとっても神様だからね〜」
アリアは嬉しそうに微笑んでから立ち上がった。そのままサルサの方に向き直って手を取る。
「キミがもーちょい偉くなったら私の下になるんでしょ? 楽しみにしてるからね〜」
嬉しそうに言ったアリアはポケットから小さい小物を取り出してサルサの手に握らせた。
「……なんですか、これ」
「これはね、黒の星のかけらで作ったキーホルダー。なかなか無いものなんだよ」
「……頂けるんですか」
「うん、あげる。これはね、そーだな……キミの『未来への鍵』だよ」
「どういうことですか?」
「鍵なんだよ。これはね、特別なものだから」
アリアはそう言って笑うと、ヒラヒラと手を振って去っていった。
黒い光を鈍く光らせたキーホルダーは、なんだか少しだけ怖く見えるようだった。
お題「あたたかいね」
「……はぁ」
小さくため息をついたサルサに対してウィルは彼の顔を覗き込んだ。
「…………どうかいたしましたか?」
「え、あ、その……」
サルサは若干目を泳がせながら言った。
「………………寒いなぁ……と」
「……寒い、ですか」
外の気温は二十度近く。とてもじゃないが寒いという気温では無い。しかし、なんとなく寒気がするのは確かであり、事実、今日はサルサの隣の隣の部屋である第十二会議室にて、氷系の『魔法のようなもの』の開発会議みたいなことをしていた。その冷気が周辺の部屋にまで届いてしまってたのである。
「…………そうですかね……?」
しかし、ウィルは全く気づかなかった。氷系の『魔法のようなもの』の冷気は基本的にそこまで強くなく、またその会議はわりとしょっちゅうやっていることから、完全に慣れてしまっていたのだ。
「…………ウィルさんは寒くないんですか……。すごいですね…………」
カタカタと小さく震えながらへにゃっとした笑顔を見せたサルサの顔を見つめたウィルは小さくため息をついてから立ち上がった。
「少々お待ちください。それから……少しだけ洗面所を借ります」
「…………? はい、どうぞ…………」
首を傾げ困惑した様子のサルサに対して一礼をしてから洗面所に消えていったウィルはしばらくして赤いコップを二つ持って帰ってきた。
「あれ、それって……」
洗面所にあるうがいの時に使っているコップと酷似していたことから困惑した声を上げたが、ウィルはテーブルの上に置きながら小さく微笑んだ。
「ご心配なく。使っていたものではなく増やしたものです」
「ああ……!」
「中に入ってるのは暖かいミルクティーです。水をお湯に変えたものに粉末を混ぜました。つまり…………あ、貴方にはまだできません」
「まだ……?」
「いずれできるようになります。我々が使っているのは魔法ではなく『魔法のようなもの』なので」
ウィルは小さく微笑んでコップに口をつける。
「ありがとうございます……」
サルサも小さく呟いてからミルクティーをすすった。
暖かい湯気が上がっているミルクティーは、すごい熱いわけでもぬるいわけでもなく、ちょうどいい温度をしていた。
「あったかいですね」
サルサはそう呟いた。
朝六時を過ぎてウィルが扉をノックしても、いつも返ってくるはずの返事がなく、五分待っても扉は開かなかった。
「……サルサさん?」
不安そうな声色で部屋に向かって呼びかけても全く返事は無い。
鍵は外からしか掛けることができないから開けることは可能なものの、ウィルはドアノブに手を掛けることは出来ずにいた。
いつもならこの時間には制服に着替えて晴れやかな顔で扉を開けてくれるはずだった。それなのに、今扉の奥からは全くもって音はしなかった。
嫌になってしまったのか、とか今ちょうど出られないタイミングなのか、とかそういう思考が代わる代わるウィルの脳内に浮かび上がっては消えてく。
やがてため息をついてもう一度ノックしながら彼は扉を開いた。
「サルサさん………?」
首を傾げながら彼は一歩部屋へと踏み出した。
部屋の中はカーテンが閉まっていて赤い月の光が部屋の中を支配していた。テーブルの上にはノートが開いて置いてあって、ペンがその上に出されていた。
奥の洗面所やトイレも暗くなっていて誰かの気配も感じない。
部屋の隅に置いてあるベットは一定のリズムで布団が上下していた。
「…………もしかして」
そんなことを呟きながらウィルがベットを覗けば目を閉じて気持ちよさそうに眠っているサルサが目に入った。少し布団をめくっても全く目を覚ましやしない。
「……警戒心、解きすぎではないでしょうか……」
ウィルは呆れたようなトーンで言ったが、その表情は愛おしいものを見るような顔だった。
「…………本当はもう少し寝かせてあげたいところですが、今日は教えた常識を覚えてるかどうかのテストをしないといけませんからね……」
彼は布団を引き剥がすと、ベットの近くに置いてあるベルを振った。『RingRingRingRing……』と音がして、サルサがバッと起き上がった。
「…………な、なんの音……!?」
「朝ですよ、サルサさん。もう六時も十五分を過ぎようとしています」
「…………う、ウィルさん……! す、すみません! すぐに支度します」
「はい、早急にどうぞ」
慌てたように洗面台の方へ走っていくサルサを見つめながらウィルはそっとため息をついた。