きっかけは些細なことだった。
僕がうっかり花を踏んでしまって、彼女が仕返しにグランドピアノをしっちゃかめっちゃかに弾いた。
明らかに僕が悪いこともわかってる。
彼女は確かに僕が大事にしてるピアノに触れたのだ。それは確かに許せないことでもある。でも、僕がしたことは取り返しのつかないことで。花は折れたら戻らない。
そんなわけで僕が謝らないといけないのだが肝心の彼女が見つからない。
いつもいる場所を色々と探索してみても全く見つからない。
どうしようか、どうすればいいのだろうか。
見つからないなら話にならない。
気分転換に花畑に来たら、闇に包まれた向こう側から彼女がやってきた。
「⋯⋯⋯⋯あ」
「⋯⋯なんだ、演奏者くんじゃん」
微妙に嘲笑うような声で彼女は言った。
「あのさ、ごめん」
「ん? 何が?」
「花だよ、その潰しちゃったから」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯あぁ」
なんだ、そのことか。なんて続きそうな感じで彼女は言ってのける。
「⋯⋯ボクもごめんね」
「何が」
「⋯⋯⋯⋯もう、会えないかもだから」
彼女はそう言って闇の中に戻って行った。
意味がわからないなんて思って追いかけて闇に触れたとこで壁にぶつかったような感触がした。
確かにこの先に入って行ったのに、僕はそこから拒絶されて。
⋯⋯⋯⋯何が起こってるか僕は全く分からなかった。
「あれ、きみ服変えたかい?」
今まで長袖の白色のシャツに黒色のベストを着ていた彼女が、今日は半袖の白色のシャツに黒いベストを着ていた。
「ん、うん」
「なんで急に」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯なんか」
理由に全くなってない。もはや僕に教える気はなさそうだ。関係ないでしょ、とか言ってきそうだ。
「というかボクが何着てても関係ないよね」
言ってきた。なんと言動の予測しやすいことよ。⋯⋯じゃなくて。
「なんか、こう、きみと僕は今まで対みたいな服装をしてただろう? だから僕も半袖きた方がいいのかな⋯⋯とか」
「なんで?」
「いや今説明しただろう」
「対になるならなおさら長袖のまんまでよくない? なんでわざわざ袖だけ合わせんの? お揃いにしたいだけじゃない?」
口調が強い。怒って⋯⋯⋯⋯るのかもしれない。原因は不明。
まぁこういう時は黙っておくに限る。
「⋯⋯⋯⋯似合ってるよ」
そう言って去ろうとすると「ありがと」と小さい声が返ってきた。
「天国とか地獄ってあるの?」
ボクは何気なく彼に聞いた。
彼が天使様であることはとっくのとうに急にバラされた。だから多分そういうこと知ってるだろうと思って聞いてみた。
「天国と地獄の話をするのかい?」
「え、うん」
「ふふ。きみがそんなことに興味を示すとは思わなかったよ」
「あ〜、やっぱいい。ごめん」
「そう言わずに」
そう言って彼は話し始めた。
「まず天国。あるよ、これは」
「どんなとこ?」
「ん〜天使が住んでて、神様がすごいとこ住んでて、基本的に死なないって以外は大体普通。下界と同じ」
「げ、下界って⋯⋯⋯⋯」
「ああ、あれね。迷い子たちが住む世界のことね」
「知ってる」
ユートピアは迷い子たちが住む世界とは全然違うとこにあって、下とか上とかないのにズケズケと言ったことに対してボクは若干引いたのに全く伝わらなかったらしい。
「で、地獄。これは、ない」
「ないの!?」
てっきりあると思ってた。
悪魔が住んでる〜みたいなそういうとこ。
「悪魔はね、魔界に住んでるから。地獄には行かない」
「じゃあさ、悪いことしたらどうなるの?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯そんなこと聞いてどうするんたまい?」
「え、だってほら気になるじゃん?」
「必要?」
急に質問攻めしてくるのはなんなんだ、貴様。
ボクは気になってるから聞いてる。なんだ『必要?』って。バカにしてるのか。
「必要!!」
「じゃあ言うけど⋯⋯⋯⋯」
演奏者くんは怪訝な顔で言った。
「二つ道がある。一つ目は図書館にぶち込まれること」
「図書館?」
「普通の図書館じゃなくてね、奥に行けば奥に行くほど本の内容は迷い子たちが住む世界の真理に近づいていく。地獄がないとか、天国がないとか、どうやってできたとか」
「へぇ面白そう」
「代わりにどんどん記憶がなくなっていく。自分がどんな人間だったとか、そもそも自分は何者だったとか」
「え、怖」
「で、最終的に全てのことを知った記憶喪失ができ上がる」
「矛盾してない?」
「一応してない」
「それ、なるとどうなるの?」
「ん〜、壊れる?」
「壊れる⋯⋯??」
「理解してるけど到底脳が処理はできない。加えて真理とかは全部分かってるけど、今いる場所がどこすらも分かってないし、出る気も起きないから中で留まり続ける。で、天国に行ったわけじゃないから不死にもならずに肉体が滅びる」
「うわ、えげつな⋯⋯⋯⋯」
そう考えるとユートピアに来て良かったかもしれない。
「永久に死なないのが嫌な人もたまに入るって」
「そんな生き地獄に?」
「生き地獄じゃない。死んでる」
「ぅぇあ⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「で、もうひとつは⋯⋯⋯⋯⋯⋯どこか遠くに飛ばされる」
「は?」
「なんか異世界とかって」
「何そのふんわり」
「知らないよ、僕は正直興味なくて」
「ええ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
本当に??
その言葉は口には出さなかった。嘘だろうと確信はあった。絶対に。じゃなきゃそもそも言うのを躊躇ったりしないでしょ?
きみは知ってるんじゃない? 権力者が集団であること。
上の方の偉い人ってもしかして『異世界に飛ばされた悪いことした人』なんじゃない?
でも、聞かない。君が言わないことを選んだなら。
「⋯⋯⋯⋯演奏者くん。なんか弾いてよ」
「またかい? 全く僕の演奏、本当に好きだね」
「当たり前でしょ」
ただ、黙っとかれるのは気分が悪いから、ボクの機嫌取りはしてね?
権力者の世界は、基本的に夜しかない。
月が光っている、綺麗に。
前に演奏者くんが「月に願い事をすると叶う可能性が高い」なんて言ってたっけ。
願い事か⋯⋯⋯⋯。
ボクが叶えたい、願い。
権力者であり続けたい⋯⋯⋯⋯わけじゃない。
この世界に来た迷い子を意思のない人形のようにし続けるのはいやだ。
演奏者くんがこの世界にずっといて欲しい⋯⋯⋯⋯なんて言ってはいけない。
彼の自由を奪うことをできるほど、ボクと彼は対等ではない。
演奏者くんと付き合いたい⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯なんて、何を考えてるんだボクは。
付き合いたいとかそういう話ができるほど対等じゃないと、何度思えば⋯⋯⋯⋯。
それでも、それでもたぶんこの恋心は消えないし、消すことを願うことすらしたくない。
だから、月に願い事をするならば。
「どうか、少しでも長く幸せな日々が続きますように」
そんな子供っぽい願いを口にして、ボクは月に背を向けた。
叶ったかどうか確認する術はない。代わりにどんな状況になっても『願い事をしなかったらもう少し短かったんだ』と思うことができる。
そんなふうに無理やり自分を誤魔化してボクは演奏者くんがいる『昼』の場所へと戻ることにした。
雨だった。
いや、雨じゃないけども。
この世界にそもそも『雨』とか『夜』とかそういうものは存在しない。ここにあるのは『晴天の昼』だけで。
でも雨だった。正確に言えば、ボクの肩の天気が雨だった。
演奏者くんの顔色が特にいつも変わらないな、なんて思ってしまったのが原因である。
冗談を言うと怒ることはあっても、悲しそうな顔を見たことがない。だから一回悲しませそうと思った。
それで「グランドピアノが壊れた」とか「今日来た迷い子が進んで住人になった」とか言ってみたものの全然顔色一つ変えなかったから、半ばやけになって「ボク、もうすぐ死ぬんだ」なんて言ってしまって。
そしたらやけに動揺したから面白くなっちゃって、「あとどんくらい生きられるか分からない」「もしかしたら今日死ぬかも」なんて言ったらボクのこと急に抱きしめて泣き出した。
そんなわけで、肩の天気は雨である。
「なんでそんなに泣いてんの」
ボクがそう声をかけても全然返答はない。
悲しそうな顔は見たかったけど、泣いて欲しかった訳じゃなくて、少し見て楽しんだあとに「冗談だよ〜」なんて茶化して終わりにしようと思ったのに。この雰囲気で冗談なんて言ったらそれこそ本当に命がなくなりそうだ。
演奏者くんは急にガバッと離れると言った。
「死んじゃやだ」
ガキか? 子供なのか? 迷い子が言いそうなセリフを吐くな、演奏者くん。
「死んじゃやだよ。どうやったら死なない? どうやって食い止めればいい?」
それ、本当に死んじゃうと思って言ってるのか? 食い止められるもんだと本当に思ってるのか?
「⋯⋯⋯⋯死んじゃうなんて、ダメだよ」
「ダメとかダメじゃないとかで判別できる様なもんじゃないよ。あと、冗談」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯へ?」
「冗談。もうシャレになんない冗談は言わないようにするから」
そう返すと、演奏者くんはキョトンとした顔をした。そのまま少し考えたあとに言った。
「⋯⋯⋯⋯そんな嘘はつかないで」
「分かりましたぁ」
「死ぬなんて言わないで」
「分かった分かった」
「絶対だよ」
なんか子供っぽい嫌がり方するな⋯⋯とボクは思った。