権力者の世界は、基本的に夜しかない。
月が光っている、綺麗に。
前に演奏者くんが「月に願い事をすると叶う可能性が高い」なんて言ってたっけ。
願い事か⋯⋯⋯⋯。
ボクが叶えたい、願い。
権力者であり続けたい⋯⋯⋯⋯わけじゃない。
この世界に来た迷い子を意思のない人形のようにし続けるのはいやだ。
演奏者くんがこの世界にずっといて欲しい⋯⋯⋯⋯なんて言ってはいけない。
彼の自由を奪うことをできるほど、ボクと彼は対等ではない。
演奏者くんと付き合いたい⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯なんて、何を考えてるんだボクは。
付き合いたいとかそういう話ができるほど対等じゃないと、何度思えば⋯⋯⋯⋯。
それでも、それでもたぶんこの恋心は消えないし、消すことを願うことすらしたくない。
だから、月に願い事をするならば。
「どうか、少しでも長く幸せな日々が続きますように」
そんな子供っぽい願いを口にして、ボクは月に背を向けた。
叶ったかどうか確認する術はない。代わりにどんな状況になっても『願い事をしなかったらもう少し短かったんだ』と思うことができる。
そんなふうに無理やり自分を誤魔化してボクは演奏者くんがいる『昼』の場所へと戻ることにした。
雨だった。
いや、雨じゃないけども。
この世界にそもそも『雨』とか『夜』とかそういうものは存在しない。ここにあるのは『晴天の昼』だけで。
でも雨だった。正確に言えば、ボクの肩の天気が雨だった。
演奏者くんの顔色が特にいつも変わらないな、なんて思ってしまったのが原因である。
冗談を言うと怒ることはあっても、悲しそうな顔を見たことがない。だから一回悲しませそうと思った。
それで「グランドピアノが壊れた」とか「今日来た迷い子が進んで住人になった」とか言ってみたものの全然顔色一つ変えなかったから、半ばやけになって「ボク、もうすぐ死ぬんだ」なんて言ってしまって。
そしたらやけに動揺したから面白くなっちゃって、「あとどんくらい生きられるか分からない」「もしかしたら今日死ぬかも」なんて言ったらボクのこと急に抱きしめて泣き出した。
そんなわけで、肩の天気は雨である。
「なんでそんなに泣いてんの」
ボクがそう声をかけても全然返答はない。
悲しそうな顔は見たかったけど、泣いて欲しかった訳じゃなくて、少し見て楽しんだあとに「冗談だよ〜」なんて茶化して終わりにしようと思ったのに。この雰囲気で冗談なんて言ったらそれこそ本当に命がなくなりそうだ。
演奏者くんは急にガバッと離れると言った。
「死んじゃやだ」
ガキか? 子供なのか? 迷い子が言いそうなセリフを吐くな、演奏者くん。
「死んじゃやだよ。どうやったら死なない? どうやって食い止めればいい?」
それ、本当に死んじゃうと思って言ってるのか? 食い止められるもんだと本当に思ってるのか?
「⋯⋯⋯⋯死んじゃうなんて、ダメだよ」
「ダメとかダメじゃないとかで判別できる様なもんじゃないよ。あと、冗談」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯へ?」
「冗談。もうシャレになんない冗談は言わないようにするから」
そう返すと、演奏者くんはキョトンとした顔をした。そのまま少し考えたあとに言った。
「⋯⋯⋯⋯そんな嘘はつかないで」
「分かりましたぁ」
「死ぬなんて言わないで」
「分かった分かった」
「絶対だよ」
なんか子供っぽい嫌がり方するな⋯⋯とボクは思った。
(権力者は集団であるとバレたあと)
「過去の自分への手紙?」
「あぁ⋯⋯うん、そう」
やたらと嫌そうな顔で彼女が応じたのをふと思い出した。
権力者として書かなきゃいけないのに、どう考えても過去の自分が今の自分を受け入れそうにない上に、過去の自分に向き合うのもいやだ、なんて話していたっけ。
僕も書いてみようかなとペンを手に取り書き始めた。
「過去の僕、具体的には神様みたいだった僕へ
元気でしょうか、そうですね、元気ですね。
あのころの僕ほど元気でなかった時期はなかったと僕は思います。
過去の自分に敬語なんて使わなくていいのかもしれないけど、未来の僕という者はきみと比べるとあまりにも地位が下だから敬語にしてみました。
いいですよね。きみの生活。
何も不自由なくて、みんなから褒められて。
有頂天になったきみは人間界に降り立った後にとんでもないことをしでかします。未来の僕はその成れの果てを知っているけど、きみに対処の術なんて教えてはあげません。
なんで、と過去の僕は言うでしょうが、絶対に教えてはあげません。
僕は今の生活が気に入っています。あの時よりも何十倍も何百倍も。
だから教えてあげません。きみは有頂天のまま人間界に行って、そして『間違えてください』。それがただしい未来への道のりです。
過去の僕は神様になりたかっただろうし、それが無理でも天使でありたかったことでしょう。
でも今が一番幸せなので許してください。
それでは」
「逃がさないよ」
そう言われた。脈絡はなかった。
「なにが」
全く一ミリも会話が成り立たない返答を返したボクは彼の瞳から到底目を反らせそうにない。
理由はとてつもなく明確で、演奏者くんはボクの腕を片手で掴んで、もう片方の手をボクの頬に添えて真っ直ぐとこちらを見つめてきてるから目を逸らそうということすらできなかった。
「⋯⋯⋯⋯きみはさ、僕の前からいつかいなくなるだろ」
何の根拠が、などと言えない理由がある。ボクは『権力者』という集団の個体のひとつでしかなく、ボクが望もうと望まなかろうとボクの命は簡単に上の方の人たちによって握りつぶされてしまう。だから、居なくなってもおかしくはない。
「だったら」
「耐えられない」
真っ直ぐに言われた。目を全く逸らさずに強い言葉で、なのに若干目が潤んでいて、強くて敵わなそうな君の弱いところが見れたような気がして。
そんな若干の優越感を違う感情で塗りつぶすように君は言った。
「耐えられないんだよ、きみがいなくなるかもしれないという事実が。僕がここに来た時からずっときみはここにいて、きみと過ごすのが当たり前になってて。それなのにいつかいなくなる? どこかに消える? そんなのは耐えられない。分かるかい?」
重たい、どす黒い感情が一身にボクにぶつけられてるような気がする。
愛でも恋でもない、ただの依存と独占欲。それの対処が分からなくて、何だかもろくに理解できないままボクにぶつけている演奏者くんが愚かしくて愛おしくて。
そんなことを思ってしまったボクはもうきっと彼から逃げられないから。
「いなくならない、約束する」
そんな無意味な言葉を吐いた。
約束なんてできないのに、いつかその時が来た時に君が無理やりボクをそこから救い出して閉じ込めてしまったりしたら、きっとそれがボクの本望になってしまうから。
いつの間にか歪な感情を持っていた君の傍まで堕ちていけるようにボクはそう言ってしまったのだ。
「レパートリー、増えた?」
演奏者くんが演奏を終えたあとにそう尋ねると、彼は頷いた。
「少し前から考えてた曲、人に聴かせられるレベルになったから」
「なるほど⋯⋯」
生み出してるのだろう、きっと。すごいな、なんて思った。
ボクはピアノ弾けないからすごいことのように感じられる。
「うん、じゃあそろそろ僕は家に帰ろうかな」
「ん〜」
ボクも住人の見回りをしなきゃいけない。そろそろいい頃合い、だろう。
「じゃあね、演奏者くん」
そう言うと演奏者くんはいつものように口を開こうとして、少し立ち止まってから思いついたように言った。
「『また明日』、権力者」
そのまま家に入っていく。
『明日』なんてボクらには測れない基準なのに当然のように言ってのけた彼に、ボクは何にも返せなかった。