『ユートピア』は昼の世界。光が当たる希望の街。
それに比べてボクが毎日報告に行かなきゃいけない『ユートピア管理施設』の周辺は夜の世界。星も灯らぬ真っ暗な世界。そこに少ない街灯が施設までの道を照らしている。
『ユートピア』の広場から真っ直ぐ歩くとあるそこは、何故かボクたち「権力者」じゃないと見えないらしく、たまに近くに演奏者くんがいることもあって、ちょっぴり怖い。
報告書を渡して、新しい用紙を貰う。ただそれだけ。あとは他の相手と話したり、いろいろできるけどもボクはあんまりこの空間自体が好きじゃない。
だいたいボクは落ちこぼれみたいなものなんだ。
過去の記憶に干渉することもできず、都合のいい操り人形にしかできない。しかも命令しないと生きるための最低条件しかせず、全然使い物にもならない。まぁ、後半は偉い人が言ってたことだけど。
そんなのはダメなんだって。
だからボクは落ちこぼれなんだ。
もしかしたらいつか、なんて思ったこともあったけど、全然ダメだった。
いつか、いつか、ボクは用済みになっていらなくなるかも。
それでも、これからも、ずっと彼のピアノを聴いていたい。
ボクは施設から去りながらそう思った。
「夕方って知ってるかい」
ボクの演奏を聞いていた彼女にボクは尋ねた。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
彼女は黙ったまま首をふる。星空の話をした時に見せたそんな顔で。
「⋯⋯⋯⋯太陽があるだろう」
「ん」
「それが沈むんだ」
「ん」
「その光景が『夕方』なんだよ」
「ん」
彼女は特段興味ないように相槌を打った。
なんだか少しだけ違和感を覚えるような、まるで彼女が彼女では無いようなそんなことを思って尋ねようとした時に口を開いた。
「⋯⋯⋯⋯知ってた」
「⋯⋯え?」
「知ってた、『夕方』」
夕方を、知っている?
この世界は昼しかない。日は永久に照り続け、暑さも寒さもなくずっとちょうどいい気温が続く。
そんな世界なのに、夕方を知っている。
「⋯⋯ここも全部こうってわけじゃないから」
彼女の言葉は酷く冷たかった。
「それなら夕日の美しさも知ってるのか」
彼女はその言葉に対して、少し目を伏せて返答した。
「嫌い」
それが夕日に対してかどうかは一目瞭然だったのだろうか。
「⋯⋯⋯⋯嫌い、だよ。夕方は寂しいから」
子供っぽいようなことを言って、彼女は微笑んだ。いつもとは全然違う、力のない笑み。
「⋯⋯じゃあ、一緒に見ようか。星空を見るついでに。そしたら寂しくないよ」
その言葉に彼女は微笑んで言った。
「楽しみにしてる」
好きなのかもしれない。もしかしたら。
いや、そんなことはない。というかあってはならない。だいたい不相応なのだ、ボクと彼は。
でも、好きなのかもしれない。
最近、ピアノの音が聞こえると勝手に足が広場へと向かう。今までは音を聴いているだけで幸せだったのに、どうしてか広場に行かないと気がすまなくなってしまった。
それだけじゃない。
気づくと彼のことを考えてしまうようになった。
彼が何をしてるかとか彼が今どんなことを考えているのかとか。
そんなのはよくない。
だいたいボクと彼は敵対しているのだ。
ユートピアに来た迷い子を元の世界に返したい彼と迷い子をこの世界の住人にしたいボクとでは本来は分かり合えるはずもない。好意なんてもってのほか。
なのに、なのに。もしかしたらボクは彼のことが好きなのかもしれない。
違う、そんなことはない。ダメだ、ダメなんだ。
ボクのことを見てる時にしかめられる顔が、ボクにしか向けられないことに優越感を持ってしまって。彼が微笑んだら何だかボクまで嬉しくなって。
その感情の行き着く先が恋かもしれないことはよく分かってる。でも、それは持ってはいけない感情なんだ。
彼は綺麗で穢れてなくて、ボクはもう何人も人の理性とか人格とかを洗脳で消して人形にしてて。ボクがしてることなんてもはや人殺しと同じで。それを平然とやってしまっているボクが、彼を好きになる資格なんてどこにもない。
消さなくちゃいけないんだ。この気持ちは。
⋯⋯⋯⋯好き、なんて思っちゃいけないんだ。
「ねぇ、聞いてるかい?」
彼に覗き込まれて意識は現実に戻された。
光が反射する青い瞳につい目を奪われる。なんて綺麗で、なんて穢れのない瞳なんだろうか。
「今日のきみは変だね」
「⋯⋯⋯⋯うるさいな。君といると調子が狂うんだよ」
そんなことを言ってボクは立ち上がった。
ボクが冷たい態度を取り続ければ君はボクのことをどんどん嫌いになっていく。そしてボクも恋心を消せるはずだから。
そんなことを思いながらボクは唇をかみしめた。
「星空って見たことあるかい?」
ふと気になってそんなことを通りがかった権力者に聞いた。権力者はちょっと顔を顰めながら答えた。
「⋯⋯ないけど」
「ユートピアはずっと昼だもんな。これはきみの趣味かい?」
立て続けに聞けば彼女は軽くため息をついて僕の前を横切ろうとしたのをやめてこちらに来た。
「趣味っていうか⋯⋯⋯⋯⋯⋯そもそも星空見たいことないから知らないし」
「きみの知識が反映されてるのか。そうだよな、きみが権力者だもんな」
「⋯⋯⋯⋯そーだよ」
少しつまらなそうに彼女は言った。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯星空、綺麗だよ」
いつか見たのだ、星空を。
天界から下界に降りた時、そこはちょうど夜だった。辺りに何も無い真っ暗な世界で僕は少しだけ怖くて。でも空があまりにも輝いていた。
紺色を背景にキラキラと光る銀色、それが端まで広がっていて、目を奪われたのを覚えている。
でも段々と朝が来て、その光景が失われた時、僕がいたその場所は天界となんら変わらなくて、だから僕は興味を無くして、あそこから離れてしまった。
そして、ここに来たんだ。
何か天界と違うような景色はどこにもなかったし、いつまで経っても夜空は見れないけれど、ここに来る迷い子を助けることが僕の指名だと、そう思えたから。その結果、天使という称号を剥奪されても特に何も困らなかった。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯てよ」
「え?」
僕が過去を静かに振り返っていたら、隣の彼女が何かを言った。
「⋯⋯⋯⋯そんなに言うならさ、見せてよ」
「⋯⋯⋯⋯」
見せてよ、か。
きみは、星空を見たいからそう言ったのかもしれない。それでも僕は嬉しかった。
あの景色を一人で見た時、誰かとこの美しさを共有できたらいいのに、と思ったものだ。だから。
「いいよ。いつか、必ず僕が星空を見せてあげよう」
僕は天使じゃなくなって、ここから出る方法が分からないから、いつか僕がここから出られるようになったら。
「星空の下で感想聞かせてね」
そう僕が言って微笑んだら、きみは僕を一瞥して言った。
「キザだね、君は」
だろうな、と思った。きみがそう言うのは分かりきっていた。ところが、彼女は立ち上がって去ろうとしたのを一旦止めて、こちらを向かずに言葉を発した。
「⋯⋯⋯⋯楽しみにしてる」
「⋯⋯⋯⋯分かった」
僕は微笑んでそう答えた。
何かしようかな、なんて公園のブランコを漕いでたら偶然演奏者くんを見かけた。
ピアノからは少し離れているから、あまりこっちの方までは来ないんだろうと予想してたから少し驚いた。
彼は公園から道を1本挟んだ団地の端に生えている色とりどりの花にそっと触れたり、眺めたりしている。
なんだかとってものどかで、ボクに向ける表情とはまるっきり違う。
別に違和感はない。
というか、ボクに対してあんな態度とってきた方がよっぽど面食らう。
例えば、彼に「演奏者くん、こんな所で奇遇だね?」なんて声をかけたとする。
いつもなら彼は「⋯⋯なんだい、邪魔者」とか「僕に話しかけてくるなんてどんな心境の変化だい?」なんて聞いてくる。
ところが今日に限って「ああ、権力者。いい天気だね」とか「きみに会えるかなと思ってこっちに来たんだ」とか言ってきたら。
⋯⋯⋯⋯なんか気持ち悪いな。
この世界に来た迷い子とかにはそういう態度を取ってるのを見たことがある。彼は迷い子をみんな外の世界に返してあげたいタイプだから、印象もなるだけ優しくなるように気をつけている、みたいに見える。
それと同じ態度をされたら。うん、なんか気持ち悪い。
ボクは彼の唯一の敵にならなきゃいけない。
だからそのためにボクは彼と仲良くなってはいけない。
ボクはブランコを漕ぐのをやめて、公園を出たところで彼に向かって声をかけた。
「やぁ、演奏者くん。ピアノを弾いてないなんて珍しいね?」
いつものように距離が近いわけじゃない。道を1本挟んでいる彼の心情を空気として読み取ることはできない。もしも心穏やかそうな彼から、バカみたいに明るい声が返ってきたら。
彼は振り向きもせずに答えた。
「なんだい、どこに居たって僕の勝手だろう」
ああ、良かった。いつもの彼だ。
それでいいんだよ、それで。