小さい頃。まだ明確な恋心も、熱烈な愛情も知らぬ頃。
私たちはジャングルジムで遊ぶ事が好きだった。
今思えばそこまで大きくはなく、難易度も高くない。
ただギミックが豊富だったのは覚えている。
中でも人気だったのは、鎖で覆われたジャングルだ。
その歳の子は到底手が届かない様な空間。
そこに彼女は陣取っていた。
歳の割に高い身長と柔らかい身体を活かし、
彼女は誰も行けない鎖の中へ囚われるのだ。
誰が言ったのか、彼女はまさに「檻姫」だった。
休み時間になれば教室はガラリとし、
ジャングルジムへ一目散に駆けていく。
チャイムと同時に出たというのに、
彼女は既に囚われていた。
果敢に挑戦する者、怯えて辞退する者。
その場にいた男子全員が鎖に手を掛けるも、
彼女の元へ辿り着いた者は誰一人として居なかった。
正直に言おう。
彼女は子供心にしてもわかる程、可愛らしかった。
大きな瞳、鈴を転がしたような笑い声。
おまけに愛嬌も良いと来た。誰が嫌いになれよう。
静かに本を読む彼から、ヤンチャなあいつまで。
みんな彼女に、いや。「檻姫」に夢中だったのだ。
それでもなお、彼女を救い出せる者は居なかった。
ある日。遂に最後の鎖に辿り着いた者が居た。
運動神経はいいが頭は弱い彼だった。
彼が彼女の居る鎖に手を伸ばした時、
体制を崩し、思い切り鎖を引っ張ってしまった。
檻姫は手を捻り、その日から登ることはなくなった。
ただ、私は知っていた。私だけは見ていた。
彼女が放課後に、
誰も居なくなったジャングルジムに登っていることを。
私はその時、初めて鎖に手を掛けた。
彼女の元へ行きたいという一心で。
何度も何度も挑戦した。
彼女は上から僕を見つめていた。
日が暮れてきた頃、遂に私は最後の鎖に手を伸ばした。
私の手が鎖に触れる前に、彼女は私の手を取った。
私は暖かい、微かに湿布の匂いがする手を握った。
「待ってたよ。」
まさに彼女と私は、御伽噺の中にいるかのようで。
あの日の事は夢のように、しかし鮮明に覚えている。
あの瞬間、私は檻姫を救った騎士であった。
どんなに甲斐甲斐しく媚びを売ったって、
自分の価値を認めてもらおうとしたって、
貴方では無理よ。私の瞳には映らないわ。
見向きもされないとわかっていながら、
私に利用されることを望むなんて。
変わった人ね。でもそれだけよ。
私は貴方を求めていない。
求めているのは貴方で、私はそれに応えていない。
それでも貴方は全てを受け入れ、
私に浪費されることを選んだ。
貴方の声が聞こえる。
届かないと分かりきった上での、悲痛で誠実な叫び。
私の役に立ちたいと。立たせて欲しいと。
そうじゃないでしょう?
私は教えたはずよ。
貴方は私の役になんてこれっぽっちも立たない。
精々出来るのは私の気まぐれに振り回されることだけ。
ただ、貴方の一途な想いに少しばかりの賞賛を。
世界一幸せに飼い慣らしてあげるわ。
その口で吠えてみせて。私の犬だ、とね。
肩が触れるような距離で話していたい。
膝の上を当然のように座ってみたい。
当たり前のように抱きつきたい。
人気者の彼は、何時だって周りを友達で囲む。
息がかかるほどの距離で笑い合うことに、
飛び付いても受け止めてもらえることに、
どれほど憧れ羨んだことか。
頬を赤らめながら手を繋ぎたい。
強く出張った喉仏に噛みつきたい。
乾燥気味の薄い唇に口付けをしたい。
ふと、誰かの肩越しに目が合う。
時間よ止まれ。
今はただ、この視線を独り占めしていたい。
空が泣く。私を見兼ねて。
頑なに涙を流さない私を嘲笑うように、
傘を差す間もなく頭から足元までを濡らした。
冷たい雨の筈なのに、頬だけが何故か温かくて。
嗚呼、ついに泣いてしまったのか。
空よ、私の負けだ。泣かせるのが上手い奴め。
一粒溢れたら、もう止まらない。
歯止めを失った涙は気の済むまで溢れ落ちる。
ふと、雨が止む。
否、私の頭上に傘が差された。
ずぶ濡れの私を抱き締める彼によって、
私の涙を雨粒ごと拭った彼によって、
私の雨は泣き止んだ。
冷えた身体は、彼の体温を求める。
彼の優しさは、酷い程に熱かった。
知らない人間と手を繋ぐ君の笑顔が、
僕の網膜に焼き付いた。
怒りとも、悲しみとも違う。
空洞。僕の心に穴が空いた。
何かが出ていった気がした。
僕の事をなんとも思っていない視線が、
他人を見る目と何ら変わりない視線が、
僕の心を射止めて、深く抉るんだ。
君は僕の手の中に体温だけを残して去った。
君に貰った香水を未だに付けて虚しくなる。
君の手料理は今でも味を鮮明に思い出せる。
君が放った愛言葉は一言一句忘れていない。
目を開くと、言い知れぬ喪失感が襲いかかる。
君が僕の隣に居ないと思い知らされる。
君が僕以外に笑顔を向けているのを見せつけられる。
僕にとって君の存在は、
思っていたよりずっと大きなものだったらしい。
そして、君にとっての僕は、
替えの利く都合のいい人間だったみたいだ。