疑問に思うことなく、日々を謳歌する。
友人と何気ない会話をして、
最後はみんな言うんだ。
「また明日。」って。
それが普通だったから。当然だったから。
明日があることは不変の事実で、
私達が生きていることは至極真っ当な事だと。
私は、私達は、信じて疑わなかった。
君からのおはようが聞けなかった。
大好きな君の笑顔が見れなかった。
君の明日が来なかった。
私の当たり前が壊れた。
音も立てずに、別れの言葉も無く。
私の隣に君が居る、小さな幸福が。
昼とはまた違った賑わいを見せる夜の街。
偶然にも君と出逢い、酒を飲み交わした。
最後の別れから、何年経っただろうか。
僕たちの会話は、昔と変わりなかった。
思い出話に花を咲かせ、酒を呷る。
君が話す今の君は、僕が知っている君よりも、
ずっと立派な大人になっていた。
つい浮かんだ悪態は、肴と共に腹に流し込んだ。
気分の良い君に、流されるままに奢られる。
少し強い風が火照った身体を冷ましていく。
心地よい居心地の悪さが胃を重たくさせた。
街の灯りが君の頬を赤く照らす。
過去の面影が残っている君の横顔は、
何故だか知らない人のように見えた。
今日は七夕だねって、君が言ってから気付いたの。
視界の端に垂れている笹が見えた。
色とりどりの短冊が掛けられている。
君が書きたいって言うから、短冊を手に取ったの。
視界の端で君は真剣に願い事を書いていた。
目の前の笹には、他人の願望が飾られている。
君の願い事は笑ってしまうくらいに典型的な綺麗事で。
思わず僕の手が震えた。筆先が振れた。
そんなに美しく他人の幸せを願える君が、
酷く恐ろしいものに見えてしまった。
君は何を書いたのって、僕の手元を覗き込まないで。
君のように綺麗な願いじゃないから。
君のように出来た人間じゃないから。
君に僕の願いを見て欲しくないんだ。
思わず短冊を握り潰した。
君の願いを盗み見て、勝手に自己嫌悪に陥る。
綺麗事をどこかで嫌い、君の願いを嘲笑った。
出来た君に嫉妬すると同時に軽蔑もしている。
こんな僕を、知られたくなかったんだ。
自分の為にしか願えない僕を、
どうか君だけは、赦さないで。
1年前の朝だった。君が起きて来なかったのは。
いつものように朝日が差し込む部屋で、
君は幸せそうに眠っていた。
君の部屋には空っぽになった睡眠薬の瓶。
手首から流れていた血。頬には泣き跡。
身体中には他人から付けられたような打撲の痣。
「疲れた。おやすみ。」とだけ書かれた遺書。
君は、どれだけ苦しんでいたのだろうか。
何故、気付いてあげられなかったのだろうか。
君を苦しめていた人達は、今日を当たり前に享受する。
君の死が生きている人達の記憶に残ることは無い。
君のいない日常は、涙が出るほど変わりなかった。
早く君の元へ逝きたいんだけど、眠るのが怖くて。
君を憶えている人が居なくなるのが、恐ろしくて。
僕も君の様に忘れ去られてしまうのが、寂しくて。
もう少しだけ、夜更かししていてもいいかな。
激しい雨。彼女は灰色の空を見上げ泣いていた。
彼女の周りを囲むように咲く鮮やかな紫陽花や、
私の周りに咲き乱れる季節外れの彼岸花よりも、
顔を歪ませ膝から崩れ落ちる君に目を奪われた。
きっと激しく叫んでいるのだろう。
きっと頬には大粒の涙が伝っているのだろう。
それでも私には見えなかった。聞こえなかった。
雨が全てを、君の全てを隠していた。
私のために流した涙が、雨に流され溶けていく。
私のために叫んだ声が、雨に攫われ消えていく。
私はただ、そんな君を見つめる事しか出来ない。
何時まで眺めていただろうか。
気付けば彼女は泣き止んでいて、私を見ていた。
顔には熱が集まり、瞼は腫れていた。
未だに口元の痙攣は収まらず、顔は歪んだままだった。
そんな君が、何よりも美しくて。愛おしくて。
思わず頬が紅潮した。同時に酷く泣きたくなった。
彼女の口元が動く。雨音に声が掻き消された。
彼女が近づく。手を伸ばせば届くような距離。
それでも、この手が彼女に触れることは無い。
彼女の冷え切った体を温めることは出来ない。
苦しそうな笑みと零れそうな涙を浮かべ、君は囁いた。
「大好きでした。」
君は濡れたまま背を向け去って行く。
雨粒一つ付いていない私の足元には、
青い紫陽花が一朶だけ置かれていた。
君はいつか、私の事を忘れてしまうだろう。
共に過ごしてきたどんなに幸せだった日々も、
いずれ色褪せてしまうだろう。
それでいい。だけどどうか、今だけは。
この梅雨が終わるまでは、私のために泣いて欲しい。
私の最期のお願いだから。梅雨の間は、忘れないで。
私の目から溢れた涙は、雨に混じらず消えていった。