激しい雨。彼女は灰色の空を見上げ泣いていた。
彼女の周りを囲むように咲く鮮やかな紫陽花や、
私の周りに咲き乱れる季節外れの彼岸花よりも、
顔を歪ませ膝から崩れ落ちる君に目を奪われた。
きっと激しく叫んでいるのだろう。
きっと頬には大粒の涙が伝っているのだろう。
それでも私には見えなかった。聞こえなかった。
雨が全てを、君の全てを隠していた。
私のために流した涙が、雨に流され溶けていく。
私のために叫んだ声が、雨に攫われ消えていく。
私はただ、そんな君を見つめる事しか出来ない。
何時まで眺めていただろうか。
気付けば彼女は泣き止んでいて、私を見ていた。
顔には熱が集まり、瞼は腫れていた。
未だに口元の痙攣は収まらず、顔は歪んだままだった。
そんな君が、何よりも美しくて。愛おしくて。
思わず頬が紅潮した。同時に酷く泣きたくなった。
彼女の口元が動く。雨音に声が掻き消された。
彼女が近づく。手を伸ばせば届くような距離。
それでも、この手が彼女に触れることは無い。
彼女の冷え切った体を温めることは出来ない。
苦しそうな笑みと零れそうな涙を浮かべ、君は囁いた。
「大好きでした。」
君は濡れたまま背を向け去って行く。
雨粒一つ付いていない私の足元には、
青い紫陽花が一朶だけ置かれていた。
君はいつか、私の事を忘れてしまうだろう。
共に過ごしてきたどんなに幸せだった日々も、
いずれ色褪せてしまうだろう。
それでいい。だけどどうか、今だけは。
この梅雨が終わるまでは、私のために泣いて欲しい。
私の最期のお願いだから。梅雨の間は、忘れないで。
私の目から溢れた涙は、雨に混じらず消えていった。
幼い頃から正しい愛情を向けられなかった私は、
どうやら愛の価値観を違えてしまったらしい。
父は人に興味を持たぬ人で、
母はそんな人と一度だけ過ちを犯し、私を産んだ。
父は母にも私にも関心を向けることなど無く、
母は私を居ないものとして扱った。
好きの反対は嫌いではなく無関心。
私に食べ物の好き嫌いは無い。
それは、私が食に関心を持たないことを意味する。
つまりは、好きも嫌いも関心を持つが故の感情だ。
私を嫌いになれないのなら、どうか好いてくれ。
私を好きになれないのなら、いっそ嫌ってくれ。
無関心が何より恐ろしいものだと、私は知っている。
淑女たるもの、秘密は多ければ多いほど魅力的。
だから今日も、口癖となった言葉を発する。
「これは、貴方と私だけの秘密ですよ。」
周りの紳士は皆、神秘的な私に夢を見る。
知らないことには興味を持ち、興味は後に好意となる。
故に、自分自身を晒してはならない。
彼らの好奇心を満たしてはならない。
秘密にしなければ、秘密をつくらなければならない。
そうでもしないと、ただの私では好いてもらえない。
だというのに、私には大した秘密なんてない。
そこらの乙女と何ら変わらぬ、平凡な生娘だ。
これこそが、私の一番であり唯一である秘密。
私が私でいるために、隠さねばならない事実。
皆に愛されるために、演じなければならない。
謎多き淑女を騙るために、今日も私は嘘を吐く。
「これだけは、誰にも言えない秘密なのです。」
君を一番理解しているのは僕だと思ってた。
冷たい眼差しに見えるその瞳はすぐに涙を零すし、
滅多に開かないその口は意外と強い毒を吐く。
高嶺の花だと敬遠されている君は、
案外抜けているし、よく笑う。
神のように崇拝されている君は、
誰も知らないだけで、誰よりも人間らしい。
僕だけが君のことを知っている。理解している。
それがなんだか、どうしようもなく嬉しかった。
僕は愚かにも、君の全てを理解した気になっていた。
君は僕の知らない笑顔を、知らない人に向けていた。
なんだその顔。誰だその人。僕は何も知らなかった。
胸の奥が嫌な音を立てた。酷く痛んだ。
思わず視界が滲む。
この感覚は、知っている。失恋だ。
君への想いは、優越感なんかじゃなかった。
「僕、君が好きだったんだ。」
正直に言おう。僕は君のことが嫌いだ。
素直で、嘘が下手くそで、周りに好かれている。
そんな君が、大嫌いだ。
人の顔をよく見て、空気をこれでもかと読んで。
他人の好き嫌いは暗記して、常に笑顔を絶やさず。
周りの目をずっと気にして生きていた。
誰にも本音を吐けず、さらけ出せなくて。
自分を殺して、相手を思いやる事に全力を尽くす。
誰の為に生きているのか、分からなくなっていた。
君の嘘偽りない笑顔を見ると、
嘘で塗り固まった僕が、愚かしく思えて。
君の心からの称賛を聞くと、
胸の奥が酷く抉られたように痛んで。
君の曇りなき瞳に映る僕は、
何よりも醜い化け物に見えるんだ。
君を見る度に妬んでしまう。
そんな僕が、本当に惨めで。
それなのに、君は僕に向かって言うんだ。
「正直になりなよ。」
腹が立ったよ。煮えくり返りそうだった。
こっちの気も知らないで、
よくも軽々しく言ってくれたなって。
思わず怒鳴ってしまいそうになった。
でも思い返せば、自分のこと誰にも話せてなかった。
そりゃあ、僕の気持ちなんて知ったこっちゃないか。
君とはきっと分かり合えない。
人の顔色を伺わずにはいられないし、
偽物の笑顔は治りそうもない。
何度だって君を妬むし、羨んで、憎んでしまう。
それでも、君には僕を知って欲しいと思ったんだ。
君にだけは正直になろう。
僕は君のことが大嫌いだ。
君は笑って僕の言葉を受け止めた。
いつもの様に、偽りのない笑顔で。