今年の春は、ずっと雨だ。
雨音で満たされた室内でそっと息をする。
肩によった君の体が熱い。
今日、僕は人を殺した。
苦しかった。
耐えきれなかった。
奪われたのだ。
何よりも大切だったものを。
お前の命より、ずっとずっと。
代償なんかじゃない、足りない。
だから、これはせめてもの償い。
心臓の鼓動が激しく、指先がひく、と震えた。
手に持った包丁の重みはとうに消えてしまっている。
開かれた瞳孔と動かない胸は、
精巧な人形の完成を示唆していた。
しかし、映画や漫画でも
こんなに醜い顔はしていなかったと思う。
捻くれた眉根、皺のよった皮はまさに醜悪だ。
割れるように痛む頭を低気圧のせいにして
手順を思い出しながら解体に進もうとした時、
『ねえねえ』
目の前にのっぺりとした影が現れ
顔を上げれば女の子がそこに立っていた。
『なにしてるの?』
一瞬、天使でもやってきたのかと思った。
白い肌、湿気のない柔らかな髪、
下がった目尻には睫毛の影が写っていた。
細い指は今にもずり落ちそうな
リュックを掴んでいる。
ひび割れた喉に言葉を滑らせ、
掠れて詰まった咄嗟の嘘を出した。
「人形の、解体」
『壊しちゃうってこと?もったいない
こんなところでやってて暗くないの?』
「…やらなきゃ駄目なんだよ
ゴミは残っててもしょうがないだろ」
『お人形さんはごみなの?
どうしてもお人形壊さなきゃだめ?
ねえ、どんなお人形なの?』
「…そんなに知りたい?」
『うん!
いいの?教えてくれるの!』
「…ああ、良いよ。」
もし逃げて誰かに知らせようものなら、
殺してしまえば良いんだ。
そっと体をずらして、彼女に鼓動のない体を見せた。
表情は変わらず、まるで昆虫を見つめるような
落ち着きのある目でじっと見つめている。
「人形なんていないよ。
ついさっき、僕は人を殺した。」
『なんで?』
「…さっき言ったじゃないか
やらなきゃ駄目なんだよ
これは復讐だから。
こんな奴、死んで当然なんだ」
『ふーん?…じゃあお兄さんは、人を殺したんだ!』
「誇ることじゃない。こいつと同じで
僕も、人の道から大それたことをした」
彼女は大きく首を横に振った。
『そんなことない!
悪い人を裁いたんでしょう!すごいよ!』
この子は、変だ。
「…早く、帰りなよ
もうすぐお昼だよ」
きらきらと僕を写していた瞳が、
その言葉で急激に色褪せていく。
ギョッとする僕に気づかずか、
俯いた彼女はぽろぽろと言葉を溢す。
『いえ、たのしくないんだもん
パパもママもだいっきらい』
リュックを握る手に力がこもったのか、
肩紐がぎゅり、と音を立て、指が朱から白に変わる。
すると、ばっと顔をあげこちらを見つめてきた。
『お兄さん、あたしのパパたちころして
おねがい、そうじゃなきゃあたしが殺される』
「…そんなこと」
捻り出した声がカサついたのは、
彼女が有無を言わせぬ強い瞳をしていたからだ。
『1人も3人もおんなじだよ!
じゃあじゃあ、あたしがとどめ刺す!
そしたら、お兄さんは人ころさなくていいし』
舌足らずで可愛い顔をしながら、
ショッキングな話をする彼女。
彼女の懇願するような紫陽花のような瞳のせいか、
ふわふわした感覚に包まれ
脳みそにはパステルな花が咲いているような気分だ。
もしかしたら熱でもあったのかもしれない。
「…わかった
でも僕、捕まらないように逃げるつもりだから」
『どこにいくの?ひとりで?
あたしも連れてって!足引っ張らないから!』
「…本当に、いいの?
もう戻れないよ」
『いいもん!だってあたし、まだ生きたい
まだ見てないもの、沢山あるの。
ちきゅうはおおきくてまーるくて、
繋がってるんだってことも
しっかり見ておかないと!
もちろんお兄さんも一緒だよ?
ほら、もう夏はすぐそこなんだから!』
指差した君の後ろには、
目が痛むほど白んだ快晴が広がっていた。
君が死んだ。
ある暑い夏の日だった。
『蝉は一週間しか生きられないんだね』
外は照っているのに関わらず薄暗い病室。
陽を浴びたことがない君は青白く、
無機質な部屋に溶けて消えそうだった。
君の手元には昆虫図鑑が収まっている。
「でも、長生きする奴もいるんだって」
『ふぅん?凄いね』
夏休みに入ってから、毎日ここに来ている。
君の担当である看護師のおばさんは
僕が来ると嫌そうな顔をし、バイ菌がつくからと
少し前にはついに部屋を追い出された。
それ以来、部屋に入れさせてもらえない。
そこで、病室が一階にあることを利用して
こっそり窓から侵入する方法を編み出した。
お菓子や外で撮ってきた写真を持って行くことを約束しているので、ちょろまかしたお菓子を母さんに疑われても誤魔化している。
『今日は暑いね。ここにいても蜃気楼が見える』
「しんきろう?」
『道がゆらゆらしてることだよ
暑い日にできるんだって』
今日持ってきたのはアイスだ。
ここに来る時、家の手伝いをしてもらったお駄賃を
使って駄菓子屋で買ってきた棒アイスを2人で舐める。
「ねぇ、ここ出て遊んだりできないの?」
『難しいって言われちゃったんだ。
今は落ち着いてるけど、
いつ悪くなるかもわからなくて』
君の病気は最後までわからなかった。
教えてくれなかった。
「じゃあ、もし外出れるようになったらさ、
絶対海行こう。海、凄い綺麗なんだよ」
『いいよ、でも絶対だよ?
その日まで僕のこと忘れないでね』
君が差し出した生白く細い小指に、
薄く小麦色に焼けた小指を絡ませる。
「忘れるわけねーじゃん」
『言ったね?忘れてたら許さないよ』
顔を近づけて、くふくふと笑いあう。
秘密の約束に胸が躍って、
心臓の内側にまた一つ大切なものが並んだ。
それなのに、白い病室から君はいなくなった。
溶け込んだんじゃないかと思うほど跡形なく。
それでもおれは通い続けた。
ある日、小さくて綺麗な箱がベットに腰掛けていた。
上で結ばれ、巾着のような形をしている。
こっそりと中を覗けば、白い塊が入っていた。
これはイコツというやつだろうか?
おばあちゃんの葬式で見たな、と思うと
君が死んだことをようやく脳が理解した。
沸騰するような熱が胃の奥から這い上がり、
沢山の手が口をこじ開けて声となって
薄く細い君の背中を掴もうと足掻いた。
気がつけば海にいた。
今日は星がよく見えて、
ふと君と読んだ話を思い出した。
死んだ人が星となり、ひとりぼっちの女の子の
願いを叶えてあげる話。
君も今頃星になっているのだろうか。
思わず取ってきてしまった手元の小さな骨は
軽い音を立てて転がるだけで、
君の澄んだ声はもう聞こえない。
もう会えない。
もう話せない。
もう触れない。
視界が揺れ、頬が熱い。
脳みそに花が咲いたように何も考えられない。
冷たい海の水は足を駆け上がって、
火照った顔を包み込んだ。
こういうのを何というのだったか。
そうだ、ニュウスイだ。
これも君が教えてくれた。
でも、おれだって君が知らないことを沢山知ってる。
春に見る桜は、近くで見ると薄く透けること。
夏の始まりには、虹が沢山見れること。
秋の木の葉は湿った匂いがすること。
雪は冷たく、人の肌は赤く色づくこと。
雨は柔らかくて、時に歌となること。
星の光は海の中まで届くこと。
全部教えたかった。
全部知りたかった。
もっと触れたかった。
長生きできる、強い蝉になってほしかった。
夏の夜、光りながら生まれるような蝉に。
おれは、星になれたらいい。
何光年も前に生まれ、世界を知る美しい星に。
「今度、学校休校だって」
『…どうせ嘘なんだろ?
飽きて適当なこと言うならやめろよ』
「ふ、やっぱり分かったか」
見え透いた嘘をつくその姿は、エイプリルフールでも特に変わった様子がない。
日頃からよく嘘をつき、周囲の人を困らせる君。
「あそこのコロッケ屋、ボロボロだから
コロッケに木屑が入ってるんだって」
「斜向かいのアパート、全室埋まってるから
今度地下を作るらしいよ」
日々嘘をつき続ける
そのバイタリティは尊敬して良いものか。
世間は今日限りのネタを持ち寄って騙し騙される
1日限りの極小イベントで盛り上がっている。
まさに四月馬鹿だな、なんで言えば君は笑った。
「人間、手の届く範疇にあるものには
全力を出して取りに行くんだよ
それはそうと、君は今日も陰気そうだ」
『そりゃどうも。
お前こそ、よく口が回るもんだな』
「どういたしまして」
褒めてねーし、と口を開く前に君が振り向いた。
「この日のためにとっておいた、
とっておきの嘘教えてあげよっか」
ひゅ、と風が吹き、咲き始めたばかりの桜が
もう散ってしまう。
勿体無い、
もう少し後に咲けばよかったのにと思う。
『なんだよ』
「桜の木の下には秘密が眠ってるんだ。
何が眠ってるか知りたい?
隣の小学校では、クラスのマドンナ。
あっちの猫町の方にある幼稚園には、
お母さんが1人と子猫がざっと23匹。」
『へえ、名前に負けず変な街なんだな
うちは?』
「僕だよ」
聞き返す間もなく
君の体は蒼い桜の花と化し、風に攫われていった。
それからしばらく忙しかった。
先生に言ってもなかなか信じてもらえなかったが、
気の弱い女教師を引きずって掘り返した桜の木の下には真っ白に細くなった君がいた。
学校には警察が登校するようになり、
無期限の休校になった。
暇つぶしによく通る傘橋の方では、
食事中、年寄りが喉に木屑を突き刺して死んだという噂で持ちきりになっている。
おばさんに招かれて家にお邪魔した時、
ふと見た斜向かいのアパートが一段低くなっていた。
落雁を食べながらアパートについて尋ねると、
どうやら地面に穴を掘り、アパートを埋めて一階を地下一階にするという計画が進んでいるという。
今でも入居者が絶えず忙しいらしい。
君の嘘は現実になった。
そういや少し前に、俺の死に方について
君は何か言っていたな。
ぜひとも苦しまず死にたいものだと思っていたら、
家を出たところで車に引き摺られ、皮が剥け黄色い脂肪を垂れ流しながら台湾まで誘拐された。
どうやら死して尚君は悪趣味なようだ。
頭上でニタニタ笑う君を見つめながら俺は死んだ。
「君には、幸せになって欲しいんだ。
天国ってきっと地上にも生まれるものと思うよ。
底知れぬ深い慈愛に溢れて、
脳みそ溶けるほど美しい場所が。」
ー今更何を言うんだ。夢なんか見るな。
どちらにせよお前は天国なんか行けないよ、
罪人だもの。
口を開きかけて、やめた。
君が微笑むから。
おれと君は罪を持って生まれた。
果てない闇の中から、濁った瞳を持って。
蔑まれ、罵られ、顔も知らない人間に頭を下げる。
地を這い、泥水を啜り、己を卑下して生きる。
いくらおれたちが慎ましく丁重に生きたとて、
その運命は変わらないのだ。
だが君は違ったか。
生きる希望を失わず、いつでも笑顔を絶やさずいた。
耄碌した肉塊に屈さず、確固たる意志を持つ。
年を取るたび捻じ曲がるおれに比べて、
君はさらに美しくなる。
さながら泥中に咲いた白百合だ。
人は美しく儚いものを己の手の内に収めたくなる。
神も同じだろう。
君は病に臥せた。
快活に笑う口はよく閉じるようになり、
部屋に詰まっていた笑い声はしゅうしゅうと
風船のように跡形もなく消えていった。
おれで良いだろうに。
なぜ未来ばかり摘み取られていく?
「動けないとはもどかしいものだね、
昨日よりは元気だが。」
まだまだ知らない事がある、と言っていた。
「この世のこと全部知るにはあまりに人生短いな。
君は僕より幼い癖に多くのことを知ってる。」
君の脳みそ覗かせてくれよ、と笑っていた。
ふと気がつけば、丘の上に立っていた。
肩に君を抱いて、辺りを見回す。
あてもなく逃げてきた場所。
初めて出会った場所。
ピクニックに来た場所。
暗闇が明けたと思えば、
海に手をついて起き上がる太陽が見えだした。
次第に君の顔も陽に照らされていく。
ーそういや、海を知らないんだって?
ほら見ろ、あれが海だ。
ー⬜︎⬜︎⬜︎ ⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎
ー赤い?違うよ、あれは太陽。
海は青くて果てなく美しいんだ。
ー⬜︎⬜︎ ⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎ ⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎
ーおれはあそこを泳いで渡った。
凄いだろ?
なんか、眠くなってきたな。
海を泳いだ日も、疲れてここで寝た。
あぁ、わかった。
ー⬜︎⬜︎
ー天国はここにあったんだな。そうだろ、⬜︎⬜︎⬜︎?
クラスの子に、水を掛けられた。教室で。
周囲は突然のことに驚いていたが、
助けようとする人はいない。
こういった行為ー客観的に嫌がらせ、いじめだと
言われるものが僕の身に起き始めたのはごく最近。
初めこそ憤慨し、同情する者が居たが、
今はもう居なくなった。
人同士の繋がりなんて所詮この程度なことは
わかっているから、失望の気は抱かなかった。
まあ冬じゃないし別にいいか、なんて呑気に構えて
そのままでいた僕に、君はハンカチを差し出した。
「そのままで居ないでくれ。周りの迷惑だ」
クラスの委員長様は優しいんだね、なんて言えば
ムッとした顔で立ち去ってしまった。
ありがたく使わせてもらった群青のハンカチを
ふと見ると、端に濃い赤茶の斑点がついている。
何だこれ、と思っていたが、思い当たるものがあった。
僕の鼻血だ。
随分と前の、ある曇りの日だった。
階段から転げ落ちた僕に手を差し延べてくれたのも彼だったか。
恐らくそのときにもハンカチを借りたんだろう。
落ちなかったのだろうか、今更ながら申し訳ない。
放課後になるなり僕は近くの雑貨店に寄って
真っ白のハンカチを買った。
再び学校に戻る頃には日も沈みかけ、
殆どの生徒が家路に着いていた。
果たして、彼はまだ教室にいた。
きっと委員長の仕事で居残りをしていたんだろう。
音もなく現れた僕にハッとした顔をし、
気まずそうに頭を掻く彼。
「…なんだよ、早く帰ってくれ
それに、再登校は認められてないぞ」
これを渡したくて。
「え?あ、ハンカチ…
?この白いの、こっちは僕のじゃない」
貸してくれたハンカチ、前にも借りたことがある。
そのときは鼻血だったよね、その端っこにあるのは
落ちなかった鼻血の跡じゃない?
「…そんなことよく覚えてるな」
そう?勘だしね。
申し訳なくて、弁償。
「いいよ、これ捨てるつもりだったから」
ふーん、委員長も嘘つくことあるんだね。
ニタ、と笑いかければ彼の顔が
心なしか赤くなった気がした。
「…嘘なんか」
ま、別にいいけど。
とにかくこれ受け取ってよ。僕も要らないし。
「え、ちょっと…!」
ーそして、何気なく切り出す。
あともう一つ。
いちいち他人に言って、大変でしょ?
直接言えば、好きなだけさせてあげるから
今度からそうしてね。
それじゃ。
呆然とする彼に背を向け、颯爽と教室を後にする。
全く、彼のあの演技といったら笑いを堪えるのが大変だった。
ずっと前から知っていた。
僕に手を下すよう、影で手回しする姿を。
今日の朝も、ずっと前、曇りの日も、
君が仕組んだ事だと、とうの前から知っていたよ。
なんて、なんて愛おしい。
それほどまでに僕が欲しいのか。
思わずこぼれていた鼻歌は、
何者かが掴んだ手の感触にふつりと途切れる。
僕を掴む手が生える体の主を見れば、
それはまさしく委員長だった。
ああ、素直な君の方が何倍も良い。