逃げ出してすまない。
でも、言わせてくれ。あれは本当に僕には耐えられなかったんだ。その……君の思いをよく知らなかったから。
だから、その、君が僕にどんな思いを抱いているのかわからなくて、僕だけが君のことを気に入っていると思っていて、僕だけが君のことを好きだとばかり思っていたんだ。
いや、ごめん。嫌われていないというのはわかっていたよ。そうでなければ僕のあの無茶ぶりに付き合う奴はいないだろう。
君は僕が面白そうだからやろうと言ったことに、代案は出してくることはあっても結構付き合って貰ったからね。
でも……そうだな。野良猫に好かれた程度に思っているんじゃないかと考えていたんだ。ほら、猫はかわいいだろう? そう。猫だから変なことしてもしょうがないなみたいな気持ちで僕と一緒にいるものだとばかり思っていたんだ。違ったんだけどね。
それで、僕はそんなことを思っていたから、君の僕に抱いているものが色恋のそれだとは思わなくて、その……もう、この話はやめにしないか? もう私は恥ずかしくって心臓が痛くて死にそうなんだ。正直、苦しい。
……ぅ、わ、笑うなよ。これでも本当に君にはすまないと思ってるんだぞ。たかが抱きつかれただけで逃げ出してから一週間も避けてしまったんだから。
いや、そう。うん。だからごめん。
今の私には刺激が強すぎるんだって……。
この学校では夏に半袖の制服を着ている生徒は少ない。
なぜか長袖のシャツの袖を捲っているものが多い。しかも男性だとシャツの下に半袖のTシャツを着ているものが多く、教員からは「暑いだろうから半袖になった方がいい」と苦言を呈されるほどである。
そしてそれは、宮川翔吾も例外ではなく、夏場の学校でも長袖のカッターシャツを捲って過ごしていた。
だが今日に限ってどういうわけかシャツの長袖が用意できず、仕方なく半袖を引っ張り出してきたのだった。
そしてそれを、高宮早苗は出会った瞬間、指をさして大声で指摘してきたのだった。
「珍しいな。君が半袖を着てくるの!」
「長袖がなかったんだよ」
前に後ろに右に左にと翔吾の周りをうろちょろしながらはしゃぐ早苗に翔吾はうんざりした顔をした。そんなに自分の半袖姿は珍しいものなのだろうか。というか、同じクラスの一ノ瀬も隣のクラスの永倉も今日は珍しく半袖で登校しているものがいるだろう。なぜ自分だけにはしゃいで寄ってくるのか不思議でたまらなかった。
「そんなにはしゃぐもんじゃねえだろ。たかが半袖くらいで」
そう言うと早苗は目をぱちぱちと瞬かせた。
「いや、いや、いや。君が半袖なのは珍しいよ。はしゃぐに決まっているだろう。僕は一年から出会ってずっと、その姿を見たことないぞ」
と、言うわけでハイチーズ! 早苗はどこからか取り出した通信機器を手に持って、写真を取り出した。
男の半袖姿の写真を撮って楽しいのかよ。
そう思いながら、翔吾はため息をついた後、へたくそなピースサインを作ったのだった。
早苗「クーラーが あったら大変 嬉しいな 中は天国 外は地獄」
翔吾「変な歌詠むんじゃねえよ。余計暑くなるだろ」
早苗「お月さんなんぼ 十三、九つ」
翔吾「なんだそれ」
早苗「そういう歌だよ。国語の先生から教わった」
翔吾「ほーん」
早苗「なんでもはないちもんめみたいに割りとあちこちである歌みたいなんだ。ショーゴくんは知っていたかい?」
翔吾「知らねえな」
早苗「そうか。知らないのか。君は若いなあ!」
翔吾「同い年だろうが」
早苗「そうだね。同い年だね。しかし若い。若すぎる。ちょっと君は今夜月を見て趣を感じながら願い事をそらんじてみたらいいんじゃないか? そうだな。それがいい」
翔吾「そらんじるの使い方間違ってねえか? あと話が急だな」
早苗「誤用かどうかは僕が決めるので気にしなくいでくれ。そして急でもなんでもない。国語の先生に話を聞いたときからそう思っていたんだ」
翔吾「俺は聞いてねえしお前の思惑は今知ったばっかだっての」
早苗「まあ、まあ、まあ。いいじゃないか。とにかく今夜月に願掛けをしようじゃないか。きっと君の事だから自分で叶えるというかもしれないけれど、風流なことというのはいつやっても良いものだからな。やってみようじゃないか!」
「見てほしいものがある」
そう言われて放課後、宮川翔吾は高宮早苗の家に訪れていた。早苗は翔吾を自室に案内するとゴソゴソと部屋の隅に置いてあった段ボール箱を開けて何かを探し出した。
「これだよこれ。見てくれよ」
そう言って差し出されたのは、十数冊のノートだ。よく中学生や高校生が使っていそうな、なんの変哲もない大学ノート。翔吾はその分厚い束の一番上のノートをとってペラペラとめくった。日付と曜日の下に文字が羅列されている。どうやら日記のようらしい。
日記の内容は主に、今日あった出来事だった。ただ、たまに「つまらない」とか「おもしろくない」と書かれている日が目に入る。後半に至っては、そういった内容のものが増えた。進めば進むほどただただ不安を書き連ねた日記帳になっている。
『自分は、ここを卒業して、うまくやっていけるだろうか。友人はできるだろうか。もう熱で学校を休むことは無くなるのだろうか。叶うのであれば、高校はおもしろくてたくさん笑えていい思い出になるものであって欲しい』
最後はそう締めくくられていた。普段の明るい早苗を見ている翔吾からしたら、それは本当に弱っている文章のように見えた。翔吾はノートから顔を上げて早苗の方へ目を向ける。
「これは僕が中学卒業まで綴っていたやつだ」
とつ、とつ、と、早苗は静かに笑いながら話し出した。なんでも、中学入学から卒業までの三年間、ほぼ毎日認めた日記らしい。この前部屋の掃除をしていたら見つけたようで、つい懐かしくなったから見せたくなったのだという。
「でも、笑っちゃうだろ? 僕は中学を卒業するまでこんなにも不安を抱えていたんだな」
不意に、早苗の表情が、苦笑いになった。翔吾はもう一度ノートに目を落とす。よく見ると、涙が落ちて乾いたのかもしれない、まるいしみのようなものがあった。そこだけ紙の質が微妙に変わっている。
「で、これを俺に見せてどうしたいんだよ?」
翔吾は首を捻りながら早苗に聞いた。こんな、今の自分のイメージとは異なる弱みとも取れるものを見せるのだ。何かしたいことがあったから見せているとしか思えない。
「手紙を書きたいんだ。昔の自分に。君の考えはすべて杞憂だ。安心して行くといい、とね。それで君にも一言書いて欲しいんだよ」
早苗はトントン、と、最後の日記の横にある空白をたたいた。ここに二人で書こうじゃないか。そう言っている早苗の声は、優しい声だった。