もしも過去へと行けるなら、いつに行く?
「行かない。」
ハイボール缶を片手に、彼女はきっぱりと断言した。
「ほう、どうして?」
てっきり任意の数字を選ぶ宝くじの高額当選番号を暗記してから行く、と夢もへったくれもないことを言われるかと思ったから意外だった。
「もう一回高校受験受けるのやだ、センター試験受けるのやだ、就職試験受けるのやだ、お祈りメールもらうのやだ、深夜残業実績が消えるのやだ。クソ上司に頭下げる回数リセットとかもう尊厳破壊。」
指折り数えてからハイボール缶をグッとあおる。
「ずいぶん後ろ向きな理由だな……。」
同僚の彼女は上司とそりが合わないらしく、日に日に死んだ目をするようになった。居酒屋で愚痴を聞き慰め、今は二次会も兼ねて部屋飲み中だ。
「未来に希望を見出す年齢は過ぎましたので。」
「おい20代。」
「ゆうてアラサーだもの。彼氏いないもの。結婚……結婚かぁ……。」
女性の名前をぶつぶつ言い始めた。居酒屋で言っていた、最近結婚したらしい高校からの親友の名前だ。
「そんなに好きなら高校時代に戻ればいいのでは?」
「あの素晴らしい青春をリセットとか愚の骨頂。」
カシュ、と音を立て、新しい酒を煽る。今度はレモンハイだ。
「私が望むのは、彼女の幸せだけだよーん。」
とろんとした目でつぶやく。彼女が見えているものはドレスを着た親友で、隣にいるのはきっと。
「まわる。」
「は?」
こてん、と横になりケラケラと笑い出した。
「ぐるぐるぐる世田谷〜。」
「酔ってんな。このレモンハイ9度あるもんな。」
「それはチェイサーっていうんだよ!」
「こんなチューハイ9度がチェイサーであってたまるか酔っ払い。」
ふふふ、と彼女は笑い続けている。
「過去に行けるなら、どこに行く?」
彼女がつぶやく。とろんとした口調だった。
「今の状況を良しとした俺を殴りに行く。」
俺の言葉が聞こえているのかいないのか、そのまま目を瞑り寝息が聞こえてきた。
「……無防備すぎるだろ、ばか。」
過去に行きたい自分と、行きたくない彼女。
線が交わるには、もう一歩なにかが足りないのかもしれないと思った。
【もしも過去へと行けるなら】
きらきらと、薬指の根元が光る。
「えへへへへへ……。」
だらしないとわかっていても、にやけた顔を止めることはできなかった。
「嬉しそうね。」
友人が呆れながらに言う。そんな友人の指にも光るもの。デザインは違うが、用途は同じもの。
「そっちだって嬉しそうなの、わかりますよ!手持ち無沙汰になるたび撫でてますもん!」
見てますよ!と手で双眼鏡を作ると、ふわりと友人は笑う。滅多に笑うことのない、彼女の笑顔は相変わらず綺麗。
「苦労して攫ったんだもの。感無量よ。」
「わあ、台詞だけ聞いたら悪い人。」
実際は相思相愛らしいが、いつまでも煮え切らない相手に友人が実力行使に出たらしい。クールな彼女にそこまでさせる人がどんな人か気になるが、まだ紹介してもらえていない。
「もう少し囲って、彼に『あなたは私の』って覚えさせてからね。」
「それ、よそで言っちゃダメですよ。捕まっちゃいそう。」
私の言葉を聞いて、ふふ、と笑う友人は美しい。
「私は自分に正直なだけよ。あんたの彼と違ってね。」
「……? 私は囲われてませんが……。」
何も制限されてない。友人のように独占欲で縛りつけたりされたりもしない。
「気付かないのも幸せでいいかもね。」
「何の話をしているんですか?」
いまいち噛み合わない会話に、友人は頭を撫でてくる。彼女はたまに難しい話をしてくる。
むぅ。と不貞腐れてるとさらに頭を撫でられた。
「ほら、あんたの王子様から着信よ。」
チカチカと光る携帯電話に、慌てて友人に一言言って外に出る。
「飽きっぽいあいつがここまで執着してるのに気づかないんだもんね。」
大好きな人との会話に夢中だった私にの耳に、友人の呟きは入らなかった。
【True love】
女の子が泣いている。
男の子が必死になだめているが、目から溢れる涙は止まることなく、女の子の手だけではなく頬、服、地面を濡らしていた。
「また会えるから、泣かないで?」
「いや。そう言ってきっと会えないんだもの。」
彼のポケットに入っていたハンカチは涙を吸って使い物にならなくなっている。それでも彼はそれで私の涙を拭い続けた。
「いつもそう。私が泣くとあなたは嘘つきになるの。」
「……ごめんね。」
傷ついたような顔。どうしてそんな顔をするんだろう、と思った。泣いているのは私なのに。毎回嘘をつかれているのは私なのに。
「きっとあなたは迎えに来ないわ。嘘つきだもの。」
傷つけたいわけじゃないのに、口から出るのは悪態ばかり。そんな自分に嫌気がさした。
「……迎えに、行くから。」
「え?」
彼はキョトンとした顔で彼女の顔をみつめた。
「あなたが来ないなら、私があなたを見つける。迎えに行く。嫌って言っても攫うから。」
「……まるで悪役の台詞だね。」
彼はまるで子どもをあやすかのように頭を撫でる。歳はそんなに離れていないのに。
「そう、悪役よ。すべてを手に入れるためならなんでもする悪役王子。あなたは囚われのお姫様になるの、捕まえたら絶対に離さないから。」
「……僕が姫かぁ。」
クックッと笑う彼は、きっと本気にしていない。その油断が命取りになると知るのはいつだろうか。
「絶対見つけるから。」
「はいはい、待ってるね。」
嘘つき姫はまた嘘をつく。
いつかはわからない。けど絶対に、その嘘を本当にしよう。
私は決意を込めて彼の服に涙をこすりつけた。
【またいつか】
「天体観測はな、本当は冬がいいんだ。」
望遠鏡を覗き込んでいたら、彼が教えてくれた。
「空気が澄んでるっていうのかな。星が綺麗に見えるんだ。」
「夏の自由研究のイメージありましたけど、そうなんですね。」
子供の頃、家族を巻き込んで空を見上げたのを思い出す。星座図を見ながら目当ての星座を探すも見つからず、姉と喧嘩になったのも芋づる式に思い出し苦笑した。
「……姉と喧嘩したことでも思い出したか。」
「なんでもお見通しですね、そのとおりです。」
「俺も弟と喧嘩したからな。」
どこの家でもやるんだな、と2人でくすくす笑う。
「ほら、あれが織姫と彦星だ。」
あれは肉眼でも見える、と指差した先には大きな三角形。学校でも真っ先に教えられる星座だ。そして、星座に関わる物語で最も有名なもののひとつでもある。
「私たちは離れませんよね。」
ぽつりと呟くと、彼は笑いながら頭を撫でてきた。
「あれはおとぎ話だろ?俺たちを離すやつなんかいねえよ。」
まるで子供をあやすような口調に、安心すると同時に少し不満になる。その感情が伝わったのか、彼はクックッと笑った。
「冬も一緒に見よう。本当に綺麗なんだ。」
その言葉に返事をする代わりに、彼の胸に飛び込み抱きしめた。
【星を追いかけて】
ぬんっ ぬんっ ぬんっ
彼女の声で目が覚める。大方棚の上のコーヒーかなにかを取ろうと手を伸ばしているのだろうが、掛け声が間抜け可愛くて笑みが溢れる。
そっとキッチンを覗くと、指先が触れる程度しか届いておらず、必死に手を伸ばしながら「ぬ〜〜んっ」と声を出す彼女がいた。かわいい。
「ほら、これでいいか?」
すっと取ってやると、嬉しそうな顔をするでもなく、眉尻をさげられた。
「……起こしちゃいました?」
「ちょうどコーヒーが飲みたかったところだ。入れてくれるか?」
頭を撫でるととたんに表情は明るくなりいそいそとコーヒーを入れる。
「コーヒーミルでいれるのも挑戦してみたいんですよね。」
とぽぽ、とドリッパーにお湯を入れる。ふわりと空間にコーヒーの匂いが広がった。
「ブラックですか?」
「ああ。お前はミルクだろ?」
「ええ、たっぷりです!」
机の上に置かれたコーヒーを2人で飲む。あぁ、幸せだ。
「コーヒーの粉、あんなに上に置いた覚えがないんですけどねえ……。」
「俺がおいたからな。」
彼女は目を丸くしたかと思ったら頬を膨らませて拗ねた顔をする。
「どうしてそんな意地悪するですか?」
「お前と一緒にやる口実ができるからだよ。」
ごめんごめん、と頭を撫でると彼女はふいとそっぽを向く。あぁかわいい。
「……コーヒーの匂いの中、おはようって起こしに行きたかったんです。」
蚊の鳴くような声に、思わず彼女を抱きしめる。この込み上がる気持ちは、きっと。
「期待して、待ってる。」
彼女の赤い耳に頬擦りしながら囁いた。
【今を生きる】