ロザリオ
ガルシア大修道院の裏手にある小さな墓地。偶々、私はそこに迷い込んでしまった。墓石がちらほらと見えるその場所で、私はよく見かけるフードの後ろ姿を見つけた。
墓石の前で彼は膝をついていた。
「スピカ」
その後ろ姿に声をかけると、彼は振り返り赤と青の色違いの瞳と合う。
「ミル。どうしたの?」
「その、迷って……」
「何処へ行くつもりだったの?」
「中庭。ついさっきまで聖堂で司祭様と話していたの。それでふらついていたら、ここに……スピカは、誰かのお墓参り?」
「うん」
彼は頷いて墓石を振り返る。綺麗に保たれた墓石の前には彼が供えた白い薔薇の花束が置かれている。
「ここに、俺の母さんが眠っているんだ。俺を産んですぐに死んじゃったから」
「……そう、だったの」
沈黙が落ちる。秋の終わりが近く、近くの木にあった枯葉が一つひらりと落ちてきた。かさかさ、と音を立てて枯葉はスピカの足元に落ちる。
スピカは胸から下げたロザリオを指先で触れた。
「枯葉が全て落ち、雪が降り始める頃に俺は母さんの命と引き換えに産まれた。物心がついた時、母さんと親しかった一人のシスターがこのロザリオを渡してくれた。母さんの形見だって」
「お母様の……」
「うん。俺の大事な宝物なんだ」
小さく笑って彼はロザリオから手を離すと、その手を私に差し出した。
「中庭に行こう。話の続きはそこで。……じゃあ、母さん。また来るよ」
中庭には誰もいなかった。寒いから皆、外に出たくないのかもしれない。近くのベンチに腰掛けると、ひゅうっと冷たい風が吹いた。
「お母様はどんな方だったの?」
「シスターたちによると、病弱だったんだって。でも、誰よりも心優しくて敬虔なシスターだったと。それからこの頃の季節が好きだったんだって。とても静かで、枯れ葉がかさかさと立てる音が好きだったと。その後に来る冬も好きで、雪を見てはいつもはしゃいでいたって」
「とても純粋な方だったんだね」
「うん。だから、俺もこの季節が好き。静かで時折聞こえてくる枯れ葉の音が好き」
スピカは小さく笑うと、目を閉じて胸の前にあるロザリオを両手で握りしめた。
「母さんは命が終わる時まで、俺のことを愛してくれていたんだと思う。だから、俺は母さんに約束したんだ。母さんが繋いでくれたこの命を、俺は大切な人を守る為に使い、そしてその人たちと共に生きていくと」
「スピカ……」
「俺に出来る約束はそれくらいしかない。でも、来年もこの季節を迎えられるよう、全力は尽くす」
「……私もその約束を一緒にしても良い?」
「えっ?」
少し目を見開いてスピカがこちらを見る。
「私も大事な友達と一緒に約束をしたい。来年もこの季節を共に迎えられるよう、生きていくと」
スピカは少し呆気に取られたように目を丸くしていたけど、やがてまた小さく笑った。そして、私の手を掴むとその手をロザリオの方へ導く。
ロザリオを握ると、彼の両手が上からそっと握ってくる。
「なら、約束。この枯れ葉の季節を、また来年も一緒に迎えよう」
「うん、約束だよ。スピカ」
限られた時を
「ミル」
部屋でヴァイオリンの手入れをしていると不意に自室の扉が開き、ぶっきらぼうな声で名前を呼ばれる。振り返ると部屋の入り口に血塗れのヴァシリーの姿が。
「……返り血、よね?」
「当たり前だろう。お前の師はそこらの雑兵に遅れをとると思っているのか?」
「思っていない。……なら、どうしてここに?」
「………」
ヴァシリーは何も言わずに血に塗れた外套を脱ぐと、床に投げ捨てた。驚くほど外套下の制服に血はついていない。そして、そのまま私の背後にある寝台に腰を下ろした。
「そのヴァイオリンは何だ?」
「これ?最近趣味で始めたの。この前、スピカが楽しそうに弾いていたのを見てやってみたいなって」
「暗殺者が呑気に楽器演奏とはな……」
不機嫌そうに頬杖をつくヴァシリー。こうなった時のヴァシリーには下手に話しかけない方が良いことを私は知っている。何も返さずに、手元のヴァイオリンの弓に松脂を付けていると。
「何か一曲弾けないのか?」
「……練習している曲ならある。でも、上手く弾けるかどうか……」
「構わん。やってみろ」
「……分かった。でも、十五分の時間が欲しい」
松脂を付け終わり、椅子から立ち上がり調弦を始める。それまでヴァシリーは何も言わずにただ待っていた。調弦を終わらせた後、ヴァシリーの方へ身体を向けた。そして、弓を弦に滑らせる。
ゆったりとした調べで始めたのは「カノン」。スピカが初めに教えてくれた曲。ヴァシリーが何故、こんなにも不機嫌なのかは分からない。彼の感情の起伏にはいまだに分からないところがあるから。今は、少しでも彼の心が安らぐようにと願いながら演奏を続ける。
演奏の途中、ちらりとヴァシリーのことを盗み見た。彼は目を閉じてヴァイオリンの音色を真剣に聴いている様子だった。そのまま最後まで弾き終わると、ヴァシリーの青い瞳がこちらを見る。そして、その口元がいつもと変わらない笑みを浮かべた。
「何だ、練習中という割にはよく弾けている」
「ヴァシリーの前だからかな」
「こちらへ来い」
ヴァシリーに手招かれ、ヴァイオリンをケースにしまう。それからヴァシリーに近づくと、腕を引かれて腕の中にそのまま閉じ込められる。彼からはまだ微かに血の香りがしていた。
「ヴァシリー」
「何だ」
「さっきはどうして機嫌が悪かったの?」
「……今回の任務で部下が大勢死んだ。背教者共が最期の悪足掻きにと、自爆をした」
「………そう」
「いつ死んでもおかしくない日々の中で、人の命が散る様は散々見てきた。今までは何も思わなかった。だが……今回は何故か違う。どうにも苛つく」
「……」
「だが、お前の演奏を聴いている間はその苛つきが鎮まるのを感じた。今日という日は俺の中では良くないものだったが……お前の演奏のおかげで、少しは違うものになりそうだ」
まるで幼子を褒めるように頭を撫でられ、くすぐったいような気持ちになる。
「なら、もっとヴァイオリンを弾くよ。ヴァシリーの心が少しでも穏やかになるように」
「……やってみろ」
ヴァシリーの腕の力が弱くなる。彼の腕から抜け出して、私はもう一度ヴァイオリンに手を伸ばし、弦に弓を添えた。
今日という日に多く亡くなってしまった騎士たちの為に。その死に心を痛めるヴァシリーの為に。
思慕
「ねぇ、魔女様」
「何かしら?」
僕の呼びかけにくるりと振り返る愛しい魔女様。誰よりも美しくて、強くて、優しい心を持つ君。
深海の底で人魚たちの願いを叶えてくれる魔女様。僕はそんな彼女の従順な従属。今回は人間の王子に恋をした人魚姫の為に、人間になれる薬を作っているらしい。
お使いを終えた僕は手に入れた品を魔女様に手渡していた。
「いつもならこんな依頼引き受けないでしょ?どうして今回は引き受けたの?相手が姫君だから?」
「そんな単純な理由で私が依頼を受けると思ってるの?」
「まさか。君のことを誰よりも知っている君の従属である僕が信じられないから聞いているんだよ。ねぇ、どうして?」
僕の問いかけに魔女様は顎に手を添えて考えた。しばらくした後「そうね……」と呟いて、身体ごと僕の方へと振り返り、僕の頬へ指を滑らせる。
「誰かを想う気持ちに共感したからかも」
「へぇ、魔女様にとってそれは僕のこと?」
「さぁ?どうかしらね。でも、あなたのことは可愛くて強い私の従属だと思っているわ」
「何それ、答えになってないよね?」
「仕事の邪魔になるから、そこで大人しくしていなさい」
「………」
魔女様の返答に僕は渋々頷く。魔女様はにこりと笑って、踵を返し大釜の中をかき混ぜる。僕は近くにあった薬学書を手に取り、パラパラと頁をめくった。
「僕はこんなにも魔女様のことを大事に想っているのに……君は違うんだね」
拗ねたように僕がそう言うと魔女様は小さく息を吐いた。
「もし、あなたがここを立ち去ると言ったら、魔法で拘束して、私に従うように痛めつけてやるんだから。もう一度、魔女様、と呼ぶまで外に出すことも許してあげない」
「………」
ちらりと僕の方を振り返った魔女様の目は茶化すように笑っていた。
「人魚の姫君からはあるものを受け取るから引き受けたのよ」
「それって?」
「あなたが以前欲しがっていたでしょう?クジラを呼ぶ笛のことを。姫君がそれを持っていたから、依頼を受けることにしたのよ。あなたはいつも私の為に頑張ってくれているから、偶にはご褒美をあげなくてはね」
そう笑って魔女様は大釜へと視線を戻し、鼻歌を歌い始めた。僕はというと、魔女様の言葉にきゅぅぅと喉を鳴らしていた。
僕がこんなにもやきもきしている横で、魔女様は余裕綽々としている様子だった。
「ふふ。喉が鳴っているわよ?」
「……そんなことない」
「仕事が終わったら構ってあげるから、大人しくしていてね」
「僕のことからかってるよね!?」
「そんなことないわよ」
やっぱり僕の魔女様は狡い人だ!
紅葉
ひゅう、と一陣の風が吹き抜け、公園のベンチに座る私の目の前にひらひらと一枚の葉が落ちてくる。上半分が紅く色づいたそれは本格的に秋が訪れたことを知らせてくれた。
「何見てるの?」
「落ち葉だよ。目の前に落ちてきたから、拾ったんだ」
「半分だけ染まってんね」
「うん。さっきの風は一段と強かったから」
友人は私の隣に腰を下ろすと、冷えてしまった手を擦り合わせた。
「急に冷えたからさぁ。慌ててクローゼットからコートとかマフラーを取り出すハメになってさ……大変だった」
「ふふっ。だからあれほど天気予報を見た方が良いって言ったのに」
「それよりもさ」
友人は私の右手を掴んだ。
「お前も手、冷えてるじゃん」
「……そうだね。ここで君を待っていたからだよ」
急に手を掴まれたことに驚きつつも、平静を装って私は返す。友人はそのまま私の手を握り込むと、嬉しそうに笑った。
「変なの。手冷えてるのに、嫌じゃない」
「君、やっぱり変わっているよね」
「そうか?」
思い出を越えて
何処までも澄んだ青空が広がる夏のこと。
あの時の私たちは、同じ夢を見ていた。
「私たちならこの国を守ることができる」
「うん。そうしたら、僕たちはいつまでも一緒にいられるよ!」
青空を背に笑う君は誰よりも高潔で気品溢れ、そして無邪気だった。
この国の騎士団で揃えば最強な私たち。志を共に、いつまでも共にいられるとそう信じていた。けれど。
それももう、偶に脳裏に過ぎる思い出の話。
目を開き、眼前に立つ敵を見据える。
「……自分の信念の為なら、国を裏切れるんだね。君にそういう一面があるなんて意外だったなぁ」
隣国との戦争の最中。騎士団の布陣が敵に筒抜けだった。間者がいると思ってはいたけど、まさかこんな身近にいると思わなかった。
誰よりも純粋な君が、誰よりも一番憎悪に満ちた目で私を見ている。
「前々からお前のことが気に食わなかった。俺のいた国がどんな状況であったかも知らずに、のうのうと穏やかに生きていたお前も、この国も!!」
無茶苦茶に剣を振り回して君は私を殺そうとする。けれど、そんな無茶苦茶な剣技に片割れだった私に敵うわけがない。
「残念だよ。この手で君を殺さないといけないことが」
容易く懐に潜り込んで、腹部に剣を深く突き立てる。君の口からごぽり、と血の塊が吐き出され、その手から剣が落ちた。
ずるりと崩れ落ちる身体を抱きとめる。
「………気づいてやれなくてごめん。私は君の片割れであるはずなのに、誰よりも君のことを理解してやれなかった」
「っ、はは……今更、だろ……」
乾いた笑みを浮かべ、光を失った虚な目がが私を映す。
「でも……あの時の夢は……叶えてよね……」
「この国を守ること?」
「あいつらは……お前のことを、殺すつもりだ。お前は、騎士なんだろ……騎士なら……国を……」
そこまでだった。ずるりと彼の頭が私に凭れ掛かる。その目はすでに閉じていた。私は亡骸を抱きしめた。
その目にはもう何も映らない。あの青い空も、私の顔も、何もかも。
「おやすみ。また会えるといいね」
亡骸を横たえて、その場を立ち去る。
荒れ果てた戦場で見上げた空は、あの時に見上げた空によく似ていた。
脳裏に過ぎるのは、あの時の君の笑顔と先の乾いた笑顔。
どちらも君で、私にとって大事なもの。
君の亡骸を越えて、私は前に進むよ。