なこさか

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 限られた時を



 「ミル」

 部屋でヴァイオリンの手入れをしていると不意に自室の扉が開き、ぶっきらぼうな声で名前を呼ばれる。振り返ると部屋の入り口に血塗れのヴァシリーの姿が。

 「……返り血、よね?」

 「当たり前だろう。お前の師はそこらの雑兵に遅れをとると思っているのか?」

 「思っていない。……なら、どうしてここに?」

 「………」

 ヴァシリーは何も言わずに血に塗れた外套を脱ぐと、床に投げ捨てた。驚くほど外套下の制服に血はついていない。そして、そのまま私の背後にある寝台に腰を下ろした。

 「そのヴァイオリンは何だ?」

 「これ?最近趣味で始めたの。この前、スピカが楽しそうに弾いていたのを見てやってみたいなって」

 「暗殺者が呑気に楽器演奏とはな……」

 不機嫌そうに頬杖をつくヴァシリー。こうなった時のヴァシリーには下手に話しかけない方が良いことを私は知っている。何も返さずに、手元のヴァイオリンの弓に松脂を付けていると。

 「何か一曲弾けないのか?」

 「……練習している曲ならある。でも、上手く弾けるかどうか……」

 「構わん。やってみろ」

 「……分かった。でも、十五分の時間が欲しい」

 松脂を付け終わり、椅子から立ち上がり調弦を始める。それまでヴァシリーは何も言わずにただ待っていた。調弦を終わらせた後、ヴァシリーの方へ身体を向けた。そして、弓を弦に滑らせる。
 ゆったりとした調べで始めたのは「カノン」。スピカが初めに教えてくれた曲。ヴァシリーが何故、こんなにも不機嫌なのかは分からない。彼の感情の起伏にはいまだに分からないところがあるから。今は、少しでも彼の心が安らぐようにと願いながら演奏を続ける。
 演奏の途中、ちらりとヴァシリーのことを盗み見た。彼は目を閉じてヴァイオリンの音色を真剣に聴いている様子だった。そのまま最後まで弾き終わると、ヴァシリーの青い瞳がこちらを見る。そして、その口元がいつもと変わらない笑みを浮かべた。

 「何だ、練習中という割にはよく弾けている」

 「ヴァシリーの前だからかな」

 「こちらへ来い」

 ヴァシリーに手招かれ、ヴァイオリンをケースにしまう。それからヴァシリーに近づくと、腕を引かれて腕の中にそのまま閉じ込められる。彼からはまだ微かに血の香りがしていた。

 「ヴァシリー」

 「何だ」

 「さっきはどうして機嫌が悪かったの?」

 「……今回の任務で部下が大勢死んだ。背教者共が最期の悪足掻きにと、自爆をした」

 「………そう」

 「いつ死んでもおかしくない日々の中で、人の命が散る様は散々見てきた。今までは何も思わなかった。だが……今回は何故か違う。どうにも苛つく」

 「……」

 「だが、お前の演奏を聴いている間はその苛つきが鎮まるのを感じた。今日という日は俺の中では良くないものだったが……お前の演奏のおかげで、少しは違うものになりそうだ」

 まるで幼子を褒めるように頭を撫でられ、くすぐったいような気持ちになる。

 「なら、もっとヴァイオリンを弾くよ。ヴァシリーの心が少しでも穏やかになるように」

 「……やってみろ」

 ヴァシリーの腕の力が弱くなる。彼の腕から抜け出して、私はもう一度ヴァイオリンに手を伸ばし、弦に弓を添えた。
 今日という日に多く亡くなってしまった騎士たちの為に。その死に心を痛めるヴァシリーの為に。

 

2/18/2024, 11:23:13 AM