hashiba

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5/29/2024, 7:32:10 AM

職業柄夏でもきっちり着込んでいることの多い彼が、家ではラフな装いでのんびり過ごしているのを見ると和むものがある。しかし、そのシャツは一体何だろう。言葉にし難い抽象的な、眼球のようにも見えるものが無数にプリントされている。文句があるわけではないが、さっきからずっとそれらと目が合っていてどうにも気になる。聞くと、それは人からもらったお土産らしい。しかも十年近く前というのだから多分、相応に気に入っている。自分の様子に何かを察したのか、ぼそりと「駄目か」と問い返された。その声が少し萎れていたから思わず、そんなことはない、と否定してしまった。この一夏、あるいはその先もこのシャツとはお付き合いがあるだろう。お手柔らかにお願いします、と描かれたそれらにこっそり挨拶をした。


(題:半袖)

5/28/2024, 8:07:33 AM

感情に任せて突っ切ったり、かと思えば一転まじめくさって思い悩んだり。この人の進み方はいつなんときも、アクセルベタ踏みか急ブレーキのどちらかしかない。一緒にいると景色が目まぐるしく変わる。見たことないものばかり目に飛び込む。そうして今いる場所がわからなくなってからやっと尋ねるのだ。ついてきて良かったのか、と。ここは下り坂の真っ只中、おまけに追い風。おそらく本気で慮って言っているのだろうが、ギアチェンジも挟まずにブレーキは勘弁願いたい。隣から軽く小突いて再び前を向かせる。嫌なら最初から乗りはしなかった。この先が崖なら奈落まで同行するだけ。


(題:天国と地獄)

5/27/2024, 8:52:22 AM

二人で外飲みなんて久しぶりで、ついつい酒が進んでしまった。酔いの回った彼を連れ、ゆっくり歩いて帰ることにしたのが二十分ほど前。中心街からは既に遠く、夜も深いため周囲に人の気配はない。空に雲一つなければ風も吹かず、不規則な足音が住宅街に小さく響く。眠くないかと振り返って尋ねると、微妙、などと文字通り曖昧な返事。重たげな瞼と緩んだ頬が月明かりでよく見えた。何だか随分と幸せそうだ。このままキスがしたい、なんて思ってしまうあたり自分も大概酔っているのだろう。何事もなく家に辿り着けるよう、少し見張っていてくれないか。月に傍迷惑な依頼をしつつ、その手をとって再び歩き始める。


(題:月に願いを)

5/26/2024, 9:50:46 AM

どす黒い雲の下でさらに黒い傘を差す。ただでさえ雨で視界不良、顔を隠して距離を取るのに好都合だ。水滴がビニールを弾く音も良い。周囲の雑音を聞かずに済む。そんななか、当たり前のように一つ薄い屋根の下に入ってきたのがこの人。聞き馴染みすぎた声に雨音が掻き消える。肩が濡れないかと気にかければ、こうすればいいと言わんばかりに腕を組んで密着するから暑苦しい。傘を忘れたのなら、すぐそこのコンビニで買わせることもできたのだ。靴下がずぶ濡れだ、などとぼやいていたら通り過ぎてしまった。その割には何だか楽しそう、とこの人は言う。目と鼻の先ほどの距離で見つめられている。楽しそうなのは、あなたの方こそ。浮かんだ言葉は声に出さず、屋根の外へと放り投げた。


(題:降り止まない雨)

5/25/2024, 7:49:21 AM

片付けを手伝ってくれるのはありがたいが、段ボールの奥に隠したアルバムを掘り出して無断で見始めるとはデリカシーの欠片もない。しかも悪びれるどころか「細い」「何か今より目つきが悪い」「服どうなってるのこれ」などなどページをめくって言いたい放題である。スマホがないどころかガラケーにカメラもなかった時代、今その写真を見ている彼と出会うよりずっと前。何者にもなれず情動ばかり持て余した、どこにでもいる大人未満の若者だった。「そんな古い写真、処分したとばかり思っていた」気恥ずかしさからつい言い訳をしたら、彼は嬉しそうに「捨ててなくて良かった」と笑う。それはきっとただ愉快なだけなのだろうが、どうしたことだろう。自分の中に欠片だけ残ったあの頃の自分が、今初めて顔を上げた。何者でもなかったものが、大切な人になぞられて輪郭を持つ。憑き物が落ちたような気分だった。


(題:あの頃の私へ)

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