帰り道はいつも暗い。
街灯なんか50メートルに1本立っていれば明るい方で、今の季節、高緯度に位置するこの街は、4時にもなれば星すらも見えるほどに静まり返る。そのくせ定時は年中変わらず、昼頃オフィスから下校途中の児童を見るたび、少しは学校の年間下校時間変更システムを見習っても良いんじゃないかとごちるのだ。
北の空に北極星。いくら暗くたって、歩く道を見失わない程度にはインフラは整っているのだから、4等星を下回るような星たちはここでは見えない。それでも、コウモリの翼のような色をしたおかしな夜空に、ぽつぽつと光が灯る様は壮観だ。見えないあえかな星たちの分、強い光を放つ天体がこの広い宇宙には無数にあるのだから、結局夜空を埋め尽くす星の数はそれほど変わらないように見える。そんな生命力あふれる星たちの中で、北極星はひときわ大きな光を放っている。つい最近、北極星とされる天体が変更されたとかで、軽く世界的なニュースになっていた。今北の空を牛耳るあの星も、少し前までは牛耳られる有象無象の一欠片であったのだと思うと、なんだかむず痒い気分になる。人間の研究と時の流れによって北極星の座を追われた星はどう思ったのだろう。あんな遠いところにある星だ、こんなちっぽけな惑星の定義一つ、気にもとめていないかもしれない。
住宅街に挟まれた坂道を登る。この坂を登りきった先に、やっと愛しの我が家が見える。築40年のボロアパート、その一階の一番奥。1LDKの、それなりの部屋だ。ここ1年ほどは、寝に帰るためだけの家と化している。家に帰っても、やることなんてそうないのだ。
アパートの玄関口が迎えに来た。予算もないのに、5年前に無理くりつけたWELCOMEアーチが、無残にサビを浮かせている。なんのために付けたのか、割と古参の住民であると自負してはいるが、しかし未だに理解できない。ふと、錆びついたアーチの更に奥、フェンスの取れかかった屋上に、誰かが立っているのを見つけた。ひょろっとしていて、おそらく、男だ。もぞもぞと、立ったりしゃがんだりを繰り返している。あんな住人、いたか。何をやっているんだ、あの人影は。気にはなるが、しかし仕事帰りで疲れていたので、構うことなく部屋に向かうことにした。ご近所付き合いなど、こちとら疾うの昔にかなぐり捨てているのだ。
人影がふらついて、勢いよくフェンスに手をついた。その拍子にガコンとフェンスが外れて、運良く他のフェンスに手をかけていて踏みとどまった人影を置き去りに、地面へ落ちていった。人影はとたんに尻餅をついている。
これは、ちょっとだめかも知れない。
部屋に鞄をおいてから、疲れた体に鞭打って屋上への階段を登った。
「いやあ、一人じゃあ心細かったもんでの。あんさんのような若い兄ちゃんが一緒にいてくれんなら、安心じゃあ」
人影は、名も知らぬおじいちゃんだった。
続きは編集して付け足します。
燃え上がる炎に囲まれて生きるのだ。
黒い煙雲、上がる呼吸、この場の何に苛まれても、この炎を絶やさずに、ただ生きるのだ。
雪のちらつく午前4時、俺は手汗まみれの筆を置いた。筋肉質な俺の上半身すべてをすっかり覆ってしまえるほど大きなキャンバスには、一人のか弱そうな少年がいる。この年頃の子どものような活発的な雰囲気は見せず、雨上がりのグラウンドで野球をするより、窓辺で本を読んでいる方が似合いそうな、儚げな少年だ。何より目を引くのは、薄いヘーゼルのその瞳。その黄緑とも茶ともつかぬ不安定で褪せた色彩が、キャンバスを通して俺のことをまっすぐに見つめている。
この目だ。この目に俺は変えられた。もう戻れなくなってしまったのだ、あの頃には。
燃え上がる炎に囲まれて生きるのだ。
この場の何に苛まれても、この炎の輪の先に、平和な世界があるのだと知っているから、ただ生きるのだ。
中学を卒業する頃のことだった。創立記念の日、友だちと遠出をした帰り、小学校の近くを通ったときに、集まって下校しようとしている児童たちを見かけた。いつもの光景だった。季節外れのひまわりのような通学帽が群がっている。
下校の集団がこちらに来た。しまった、通学路だったと俺たちは慌てて細い路地に飛び込んだ。目の前を横切っていく列をぼんやり眺めていると、一人の児童が立ち止まった。児童が列を離れたと言うのに、先生も、班長らしき児童も、誰も気に留めていなかった。
「こおりみたいだ」
立ち止まった児童は、人波に流され俺たちの前に来て、そうつぶやいた。なんだなんだと首をかしげた俺たちに、前だけを見ていた児童が顔を上げる。病的な青白さの顔が見える。いつの間にか、俺と児童の他に人はいなくなって、閑静な住宅街が広がっているだけになった。不思議と俺は消えた同級生に疑問を持つこともなく、その児童だけを見ていた。
男の子だ。健康面が心配になる顔色ではあるが、子どもらしい幼い顔立ちで、髪も健康的な黒だった。鼻は少し低くて、鼻と口はけっこう離れている。そこらにいるような子どもだ。
通学帽に隠された目が見えた。俺は息を呑んだ。
どこかのハーフだろうか。きれいな目の色をしている。何色と形容すれば良いのだろうか。その時の俺は青と黒以外の瞳を知らなかった。
少年は俺を見ている。きりりとした眉をつりあげて、瞳孔が目立つその瞳を俺にさらしている。蛇に睨まれた蛙のように、俺は動けなくなった。視線に熱があるなら、俺はとっくに燃えているだろうとさえ思った。いいや、実は俺はもうあのときに燃え尽きていたのかもしれない。そのうちその瞳が炎をはらんでいるように見えて、俺は目をそらしたくなった。
「ねえ、さむくないのかな」
少年が言った。倒れてしまいそうだった。今にも体の輪郭があやふやになって、地面と同化してしまいそうだった。
少年は俺を見ている。少年は俺を見つめている。燃える瞳に見つめられた俺が、その後どうやって帰宅したのか、俺は全く覚えていない。
それからというもの、俺は人が変わったように毎日出歩いた。もともとそんなに散歩をするタチではなかったというのに、それでも毎日外に出続けた。あの少年にもう一度会わなければならない、心からそう思っていた。
少年はいなかった。どこを探しても、誰に聞いてもそんな子どもは知らないと言う。だんだん俺の中の記憶もあやふやになってきたので、文が達者でない俺は、覚えておくために絵を描いた。もちろん絵なんて描いたこともないので、それはひどい出来栄えだった。なんとかして少年の記憶をとどめようと試行錯誤し、なにかにアウトプットたびに俺の記憶が変わっていくような感じがしていた。それでも消えるのが嫌だったから、ひたすら残そうと尽力した。
ある日の夜、少年が夢に現れた。
やけに意識がはっきりとした夢だったが、俺は目覚めるまでそれを夢であると知覚することができなかった。少年は熱い手を俺の頬に添えた。
「とかしてあげるよ。ぼくの中にいたなら、ぼくをさがしつづけたなら」
「……溶けたらどうなる?」
「おそらにいくだけ。こおりはとけたら水になるんだよ。それからくもさんになって、またこおりになる」
少年の目が俺を見ている。舌足らずな声が耳に反響する。
「溶けたらお前に会えるのか」
「あえないよ。だってこおりだもん。ぼくはこおりをとかさなきゃ。こおりをとかして、おそらにおくるの」
少年の目が俺を見ている。少年がにいとほほえむ。
「さむいのはくるしいから、ぼくがあつくしてあげる。とけて、とけて、なんにもなくなったら、さむくなくなるでしょ」
少年の目が俺を見ている。
「雨をふらせてよ。とびきりのねつをあげるから、ぼくのほのおのさらに外がわへ、めぐみの雨をふらせて」
少年の目が俺を見ている。
俺は目を覚ました。あの瞳が忘れられなかった。汗だくの俺に残るのは、充足感と、確かな高揚。人生の目的を見つけた気がした。
シーツがぐっしょりと濡れている。体が軽い。
「――ところにより雨と……」
リビングからニュースキャスターの声がする。窓の外で雨音が聞こえる。体の内側が、燃えるように熱い。
燃え上がる炎に囲まれて生きるのだ。
今までの何を捨てたとしても、狂気に取り憑かれたとしても、この炎の輪こそが、俺を溶かす巨大な籠だと知っているから、ただ生きるのだ。
いつか、こうしていればいつか、会うことはできなくても、あの瞳を取り戻せるかもしれない。それまで、俺を取り巻くこの炎を絶やす訳にはいかない。絶やさせる訳にはいかない。
あの瞳にもう一度見つめられたなら、俺は。
俺は、溶けて消えてしまってもいい。
あの瞳に、もう一度見つめられたなら。
夢を見ていた。
暖かい夢だった。
私はただひたすら冷たくない水の中を漂っていて、時折思い出したように揺れる水面を見ては、気まぐれに伸びをしていた。
夢を見ていた。
さみしい夢だった。
シャボン玉の中に私はいた。外には、同じようにシャボン玉に閉じ込められた人たちがいた。誰かが自分のシャボン玉を割ると、他の人々もそれに続いた。私はシャボン玉を割らなかったから、周りの子の顔が歪んで見えた。
夢を見ていた。
にぎやかな夢だった。
青い空の下で、小さな子猫が鳴いていた。その隣には熊がいた。子猫を抱き上げる、私の姿はシャチだった。熊が水たまりを踏んだ。私も子猫も、それを見て馬鹿みたいに笑った。
夢を見ていた。
悲しい夢だった。
川に水が流れていた。私の大切なものが、川の水に流されて広い広い海に出た。海は暗くて、迷うほどに大きくて、恐ろしい。私の大切なものは、海を漂い、波に揉まれて、小さな島へたどり着いて、二度と戻っては来なかった。
夢を見ていた。
なんの夢を見ていた?
長い長い夢だった。
視界が歪み、周りの音も遠ざかる。私が夢から覚めなければならない日が来たのだ。
老眼鏡越しに、シミの付いた天井が見える。小鳥が鳴いている。視界が揺れている。椅子をゆらゆらと揺らしながら、垂れ下がった頬を撫でる。いつしか棒のようになった私の足に力を込めた。黒く反射する仏壇に、愛した人の遺影があった。白い紙に、垂れた頬。夢とは大違いの姿を見て、私は愛おしいと思った。
冷えないようにと孫がくれたブランケットが膝から落ちた。途端に暖かさが消えていく。とっさに拾い上げたそれの端に施された刺繍を見た。途端にさみしさか消えていく。窓の外の小鳥が鳴くのをやめた。途端ににぎやかさが消えていく。いないはずの娘たちの声がする。途端に悲しさが消えていく。
「お母さん、来たよ。今日は孫も連れてきたの」
玄関先から声がする。娘たちの声がする。
もう暖かくないし、さみしくない。にぎやかでもないし、悲しくない。本当はきっと、そのどれもまだ私の心に巣食っているのだけれども、そんなことよりも表したい感情があった。
この夢がもう少しだけ続けば良い。この心をもう少しだけ持っていたい。終わりなんて来なければ良い。
夢から覚めたあと、私はどうなるのだろう。きっとあの人の元へ行く。そうしてただあの子達を待つのだ。
どれだけ生きてもわからなかった、最後に残るこの心の名前を知りたい。あの人はきっとそれを知っている。
きっと、もう時間なんてないから。せめて、とびきり楽しく目覚められるように、私は愛の名を呼んだ。
こんな日には、滴る無数の水音なんて耳を澄ましても聞こえないほどに、大きなロックを流し、カーテンを閉め切って、布団に潜り込んでしまうのだ。そうしたならもう、僕の世界を邪魔するものはいなくなる。
僕は雨が嫌いだ。
まとわりつく雨音の騒がしさが嫌いだ。雨の匂いも臭くて嫌だ。それだけならまだいいが、加えて、僕の精神の深い深い水底にある心が、とにかく雨を嫌っているのだ。僕にはそれが我慢ならない。もしも僕にとって雨音がすごく心地の良いもので、雨の匂いが僕の精神を安らげるものであったとしても、心が雨を嫌う限りは、僕は雨を厭い続けるだろう。見るのも嫌だ。聞くのも嫌だ。僕は雨が嫌いだ。
「――地方では、ところにより雨と……」午前7時、ニュースキャスターのその平坦な声を聞いた僕は、もう今日が嫌になった。
雨の日は1日中家にいると決めている。外出なんて以ての外だ。五感の全てから雨を遮断し、空を覆う分厚い雲から目をそらさなければ、とても1日を生きられない。
左手に握りしめたスマートフォンが震えた。メッセージの通知だ。隣の街に住んでいる、昔同じ習い事をしていただけの、ただの知り合いからだった。隣町とはいえ、かなり家が近かったからか、なんとなく連絡先を交換して、なんとなくよく話すようになった。最近はよくあちこち巡ってはその風景を写真に取っている。あいつも雨が嫌いだ。僕ほどではないようだが、とにかくいつも雨が嫌いだと周りに言ってはばからなかった。
『今日は家の周り。アイスみてえw』
地平線に向かうほど深みを増す青い空の中で、白いふわふわした雲が一つ浮かんでいる。ソフトクリームのように巻いた形のそれは、雨なんて知らない初々しい白だった。下部には電線と茶色い屋根が写り込んでいる。
僕は返事をしないままスマホの電源を落とした。
「ところにより雨と――」
ニュースキャスターの声が耳の中でこだまする。
聞こえないはずの雨音が聞こえる。
これ以上は余計なことを考えたくないから、ロックを流すスピーカーの音量を上げて、僕は目を閉じた。