曇天である。
分厚く暗い雲の覆う今日の大空は、いつもよりはるかに天井が低いように思える。晴天の天井とはどこなのか、大気圏なのか、正確な距離は測りかねるが、その青空を覆い隠すような曇り空のほうが、きっと僕たちに近いのは、考えなくてもわかることだ。
さて、地獄のようだった戦争も終わり、僕たちは戦の名残をすすりながら生きている。日の本は、その名のごとく、稜線を縁取る日光のように、あるいは瞬きの間に訪れる日の出のように、急速な発展と復興を遂げた。高度経済成長、と称される時代のただ中に生きる、いにしえの大戦を生き抜いた民草の種子。僕たちは、芽吹きの日を目の前にして、日々学業に励み、友と遊び、小さな幸せを謳いながら生きている。
今日の空はくらい。雲に阻まれた陽の光は拡散し、地面に影すらも残さない。全く日光は届いていないのではとすら錯覚しそうになるが、それならば僕はあの曇天もわからないだろう。つまるところ、案外僕らが思っているよりずっと強い太陽は、厚い雲に阻まれようと僕らに降り注いでいるのである。こうなると、僕らは太陽から逃げられない。夜にようやっと暗闇に出会えると思ったら、僕の額に月明かりが差す。太陽は僕らにずっとついて回る。いいや、僕たちが太陽を追いかけているのだ。知らないうちに、無理やりに。へとへとになって倒れそうでも、生まれ落ちた使命だと言わんばかりに、僕らは太陽の影を追う。新月の夜は、太陽はない。ある意味、月に一度、その暗闇の日こそが安息日なのだと言える。
しかし、もはやこの地に生まれて十余年過ぎた僕たちには、そんなことはどうだっていいのだ。大事なのは、草の短い空き地と、どこまでも駆けてゆけそうなこの身体。僕たちは未だ将来のことなんか考えもしなかったし、あるいは僕らの未来より遠いところにある太陽のことなんて、ただ変わらずいつもそこにあるとしか思わなかった。
見上げた空は、曇天である。
隣町の紡績工場の煙突から黒煙が昇り、曇り空にぶつかって、細く広くたなびき、いつしかすべて雲になる。山焼きの白い煙は、まるで降りた雲のようになる。僕たちの営みが、ひたすらに広い空に溶けてゆく。
そして、そんなことは僕たちにはやはりどうだっていいのだ。溶けゆく煙が雲になって、その果てにどこへ向かうのかなど、鬼決めじゃんけんに精を出す僕らには、さして興味も、意義なども、果たしてまったく、無いことである。
5/21/2025, 2:28:11 PM