燃え上がる炎に囲まれて生きるのだ。
黒い煙雲、上がる呼吸、この場の何に苛まれても、この炎を絶やさずに、ただ生きるのだ。
雪のちらつく午前4時、俺は手汗まみれの筆を置いた。筋肉質な俺の上半身すべてをすっかり覆ってしまえるほど大きなキャンバスには、一人のか弱そうな少年がいる。この年頃の子どものような活発的な雰囲気は見せず、雨上がりのグラウンドで野球をするより、窓辺で本を読んでいる方が似合いそうな、儚げな少年だ。何より目を引くのは、薄いヘーゼルのその瞳。その黄緑とも茶ともつかぬ不安定で褪せた色彩が、キャンバスを通して俺のことをまっすぐに見つめている。
この目だ。この目に俺は変えられた。もう戻れなくなってしまったのだ、あの頃には。
燃え上がる炎に囲まれて生きるのだ。
この場の何に苛まれても、この炎の輪の先に、平和な世界があるのだと知っているから、ただ生きるのだ。
中学を卒業する頃のことだった。創立記念の日、友だちと遠出をした帰り、小学校の近くを通ったときに、集まって下校しようとしている児童たちを見かけた。いつもの光景だった。季節外れのひまわりのような通学帽が群がっている。
下校の集団がこちらに来た。しまった、通学路だったと俺たちは慌てて細い路地に飛び込んだ。目の前を横切っていく列をぼんやり眺めていると、一人の児童が立ち止まった。児童が列を離れたと言うのに、先生も、班長らしき児童も、誰も気に留めていなかった。
「こおりみたいだ」
立ち止まった児童は、人波に流され俺たちの前に来て、そうつぶやいた。なんだなんだと首をかしげた俺たちに、前だけを見ていた児童が顔を上げる。病的な青白さの顔が見える。いつの間にか、俺と児童の他に人はいなくなって、閑静な住宅街が広がっているだけになった。不思議と俺は消えた同級生に疑問を持つこともなく、その児童だけを見ていた。
男の子だ。健康面が心配になる顔色ではあるが、子どもらしい幼い顔立ちで、髪も健康的な黒だった。鼻は少し低くて、鼻と口はけっこう離れている。そこらにいるような子どもだ。
通学帽に隠された目が見えた。俺は息を呑んだ。
どこかのハーフだろうか。きれいな目の色をしている。何色と形容すれば良いのだろうか。その時の俺は青と黒以外の瞳を知らなかった。
少年は俺を見ている。きりりとした眉をつりあげて、瞳孔が目立つその瞳を俺にさらしている。蛇に睨まれた蛙のように、俺は動けなくなった。視線に熱があるなら、俺はとっくに燃えているだろうとさえ思った。いいや、実は俺はもうあのときに燃え尽きていたのかもしれない。そのうちその瞳が炎をはらんでいるように見えて、俺は目をそらしたくなった。
「ねえ、さむくないのかな」
少年が言った。倒れてしまいそうだった。今にも体の輪郭があやふやになって、地面と同化してしまいそうだった。
少年は俺を見ている。少年は俺を見つめている。燃える瞳に見つめられた俺が、その後どうやって帰宅したのか、俺は全く覚えていない。
それからというもの、俺は人が変わったように毎日出歩いた。もともとそんなに散歩をするタチではなかったというのに、それでも毎日外に出続けた。あの少年にもう一度会わなければならない、心からそう思っていた。
少年はいなかった。どこを探しても、誰に聞いてもそんな子どもは知らないと言う。だんだん俺の中の記憶もあやふやになってきたので、文が達者でない俺は、覚えておくために絵を描いた。もちろん絵なんて描いたこともないので、それはひどい出来栄えだった。なんとかして少年の記憶をとどめようと試行錯誤し、なにかにアウトプットたびに俺の記憶が変わっていくような感じがしていた。それでも消えるのが嫌だったから、ひたすら残そうと尽力した。
ある日の夜、少年が夢に現れた。
やけに意識がはっきりとした夢だったが、俺は目覚めるまでそれを夢であると知覚することができなかった。少年は熱い手を俺の頬に添えた。
「とかしてあげるよ。ぼくの中にいたなら、ぼくをさがしつづけたなら」
「……溶けたらどうなる?」
「おそらにいくだけ。こおりはとけたら水になるんだよ。それからくもさんになって、またこおりになる」
少年の目が俺を見ている。舌足らずな声が耳に反響する。
「溶けたらお前に会えるのか」
「あえないよ。だってこおりだもん。ぼくはこおりをとかさなきゃ。こおりをとかして、おそらにおくるの」
少年の目が俺を見ている。少年がにいとほほえむ。
「さむいのはくるしいから、ぼくがあつくしてあげる。とけて、とけて、なんにもなくなったら、さむくなくなるでしょ」
少年の目が俺を見ている。
「雨をふらせてよ。とびきりのねつをあげるから、ぼくのほのおのさらに外がわへ、めぐみの雨をふらせて」
少年の目が俺を見ている。
俺は目を覚ました。あの瞳が忘れられなかった。汗だくの俺に残るのは、充足感と、確かな高揚。人生の目的を見つけた気がした。
シーツがぐっしょりと濡れている。体が軽い。
「――ところにより雨と……」
リビングからニュースキャスターの声がする。窓の外で雨音が聞こえる。体の内側が、燃えるように熱い。
燃え上がる炎に囲まれて生きるのだ。
今までの何を捨てたとしても、狂気に取り憑かれたとしても、この炎の輪こそが、俺を溶かす巨大な籠だと知っているから、ただ生きるのだ。
いつか、こうしていればいつか、会うことはできなくても、あの瞳を取り戻せるかもしれない。それまで、俺を取り巻くこの炎を絶やす訳にはいかない。絶やさせる訳にはいかない。
あの瞳にもう一度見つめられたなら、俺は。
俺は、溶けて消えてしまってもいい。
あの瞳に、もう一度見つめられたなら。
3/28/2024, 4:11:27 PM