あお

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11/24/2025, 9:07:33 PM

 式場の下見まで終えたタイミングで、婚約者に逃げられた。まさか、自分がそんな目に遭うとは思わなかった。
 婚約者の逃亡から数年経った今も、精神的なことが何も解決していない。
 本当は婚約者と暮らすために建てたこの家も、今では親友の娘と暮らす家になっている。一応、親友が帰宅する場所もここのはずだが、彼は滅多に帰らない。
 親友家族が元々住んでいた家もあるわけで、そちらに帰るのが普通だ。俺に気を遣って娘だけをこちらに帰してくれるのだろう。娘も心配しているらしく、俺を一人にしたくないと言った。
 苦い記憶を封印しておくための箱を用意した。その中に、自分の名前だけが書かれた婚姻届と、婚約者のために選んだ結婚指輪が入っている。ずっと捨てられずにいる物。
 箱の鍵は俺が管理している。いつでも開けられる箱に何の意味があるのか。指輪を眺めては落ち込んでしまう日々を想定していたし、実際にその通りなのだ。
 親友も妻に逃げられている。俺の気持ちがわからないわけではない。だからなのか、俺の無意味な行為を止めたりしない。ただ、慰めてもくれない。似通った痛みを語らって傷を舐め合う仲でもない。
 親友との関係に不満を抱くことはなくても、寂しさを感じずにはいられないのだ。俺たちは幼い頃から言葉足らずの関係である。

 今日も箱を開けようとしたが、どうしてなのか、鍵が見当たらない。鍵の保管場所は決まっている。
 箱の中身を知っているのは俺と親友のみだが、箱と鍵の存在なら娘も知っている。
 親友が持ち出したとは考えにくい。その理由がないからだ。もちろん、娘が持ち出す理由もないが、持ち出さないと言える根拠もない。失くした事実だけは伝えてみようか。何か知っているかもしれない。
 思った矢先、ガチャっと扉が開く音が聞こえた。娘が学校から帰宅したのだろう。もう、そんな時間なのか。
「おかえり」
「ただいま」
 娘は普段通りの態度で俺の横を通り過ぎる。根拠なく疑うのは心苦しいが、この娘は空気を読みすぎるところがある。女の勘というやつも鋭い。俺が今、何を考えているかも、読まれている可能性がある。手強い相手だが、俺だって娘の弱点を把握している。
「聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「うん」
「箱の鍵を失くしてしまってね。どこかで見かけなかった?」
「し、知らない!」
 娘は慌てた様子で部屋に入っていく。真っ黒だと自白しているようなものだ。俺は箱を手に持ったまま、追うように部屋に入った。娘は何やらベッドの下を漁っている。そこに鍵を隠していたのか?
「何をしているのかな?」
 娘の体からビクッと跳ねる。そのまま硬直してしまった。頭隠して尻隠さずとは、まさにこの事。
「オジサンは鍵についてちゃんと話がしたい。君はどうかな?」
 娘は声を震わせながら、しかし、ハッキリと言った。
「鍵なんてない方がいいんだよ」
「どうして?」
「箱があるとオジサンが悲しそうな顔をするから。箱が開かなくなれば、見ることもなくなるでしょ」
 俺が箱を開くのは、娘が学校に行っている間と、寝静まった真夜中だけだ。大丈夫だと過信して、リビングで箱を開けていたが、真夜中なら見られる可能性は大いにある。
 娘が鍵を隠したくなるほど、俺は悲しそうな顔をしていたのか。確かに、中身は決して気分を高めるものではない。
「君の言い分だと、箱を捨てるのが妥当じゃないか?」
 純粋な疑問だ。鍵を隠しても、悲しみを絶つことにはならない。箱を壊せば中の物は取り出せる。
「お父さんが言ってた。箱の中にはオジサンの心の傷が入ってるって。でも、それって、ちょっと違うと思う。傷ついた心が入ってるんだよね? オジサンの心を、わたしが勝手に捨てるなんてできないよ」
 親友が自ら箱の話をするとは思えない。娘から詮索していたのか。明らかに怪しい箱があれば、気になるだろう。普段は鍵と箱がリビングに揃って置いてあるし、いつでも開けられる。
「中を見たの?」
「見てないよ。でも、大切なものだって、わかる。見たら悲しくなるのに、毎日眺めてるから」
 親友とは違って、娘は俺の傷を舐めようとする。それはまるで、動物が本能的に傷口を舐めるかのように。
 この子は誰に似たんだろうか。親友でも、俺でもない。もちろん、この子の母親でもない。誰にも似てないのは、環境がそうさせているからだ。俺たちはこの子に、たくさんの気遣いを強いている。
「よかったら、一緒に中の物を見てくれないか」
 数分の沈黙のあと、娘がベッドの下から出てきて、鍵を俺に手渡した。受け取って箱を開ける。
 娘は婚姻届をじっと見ている。眉間にシワを寄せて。
「結婚したいくらい好きな人がいたんだね」
「好きではなかった」
 口に出して改めて実感する。好きではなかったし、嫌いでもなかった。相手にも結婚にも、関心がなかったのだ。親に孫が見たいと言われたから、目標が『孫』に設定されただけ。俺と年が近い相手も、同じく孫をせがまれていたらしい。俺たちの付き合いは愛や恋ではなく、利害の一致でしかなかった。相手は俺じゃ嫌だから、最終的に逃げる選択をしたのだろうけど。
 そんな話を娘にする必要はない。だが、これだけは伝えておきたかった。相手を愛していたわけじゃない。
 俺が愛しているのは君だけだよ。と、言えたらもっと良かったのだが、親友の娘に手を出すほど愚かでもない。
 君が隠した鍵は、本当にない方がよかったのだろうか。傷ついた心の奥で新たに生まれた愛情は、やはり隠しておくべきだろう。

11/3/2025, 4:51:10 PM

 行きつけの画材屋で筆と絵の具を新調した。一目見た瞬間に惹かれたターコイズを、一刻も早く帆布に広げたい。
 ターコイズといえば、空の青か、海の青か。想像は膨らむばかりだ。
 三種類のターコイズカラーを買った。まず、メインで使いたいターコイズブルー。思いきって空にも海にも使っちゃおう。ターコイズグリーンは海の差し色にして、ライトターコイズは陸地の植物に使ってみるか。
 色々考えているうちに、海を臨む岬が脳内に浮かんだ。
 ちょうど向かいにカフェがある。お茶を飲みながら、ラフを描いてみるのもありだな。スケッチブックは持ち歩いている。
 実際に海に行くのもいい。だが、一人で行くのは躊躇してしまう。海はあの子が好きな場所だから、連れて行けば喜んでくれる。
 うん。海は明日にして、今日はラフだけ描く日にしよう。そうと決まれば、次の目的地は目の前のカフェだ。
 俺が開けるより先に、カフェの扉が開いた。中から出てきたのは、ゆるくウェーブがかかった、長髪の女性。むせ返るほどの甘い香りが、すれ違いざまに鼻を掠めた。
 この匂いには覚えがある。
「待って」
 長髪の女性を呼び止める。振り向く彼女は「げっ」と言いたげな表情を浮かべた。その苦痛に歪む顔に、何も思わないわけではない。怒りを抑えるように、拳を握った。
「あの子はお前の帰りを待ってる」
 いきなり話の核心をついた。彼女は鼻で笑って、言葉を続ける。
「だから?」
「こんなところでフラフラしてないで、帰ってやったらどうだ?」
「嫌よ」
 そう言うことはわかっていた。しかし、消えない疑問がいつまでも俺の胸を漂う。
 まず、どうして結婚したのか。彼女―親友の妻―は、家族を愛していない。親友のことはもちろん、娘であるあの子にさえ、関心がないのだ。
 そして、これが最もな疑問であるが、離婚せずに遊び歩くのは何故か。親友が離婚を切り出せば、不利になるのは彼女だ。離婚を切り出されない自信があるとでも?
「あの子はもう、何もわからない年齢じゃない」
「だからなんなのよ。あんたって、いつも回りくどいわよね」
 彼女は苛立っている。その証拠に、爪と爪を弾いてカチカチと鳴らしている。それは幼少期から変わらない癖だ。幼馴染みとして一緒にいた時間が長い、俺と親友しか知らないこと。
 綺麗に塗られた真っ赤なネイルは、光沢を帯びている。しかし、彼女が怒りに任せて爪をいじることで、少しずつ傷が付いていく。
 ああ、そうか。あの子が赤を嫌っている理由はこれだ。「赤は傷の色」と、ずっと言っていた。その言葉を聞いてから、俺も赤を避けるようになったんだっけ。
 しかし、家族というものは、避けてはならない瞬間がある。それが今だと直感した。唯一赤の他人である俺は、親友家族の絆を繋ぐ役目なのかもしれない。
「お前が家を空ける度、あの子は『行かないで』と願った」
「ふーん。でも、その願いは叶わない。残念ね」
「叶えてやることだって、できるはずだろ」
「私は神様じゃないの。他人の願いを叶えてやる義理なんてないわ」
 俺が彼女に何かを期待するのもおかしな話だ。しかし、幼い頃から共に育ってきた仲でもある。いつだって三人でいたからこそ、見て見ぬふりが難しい。どうしても、お節介になってしまう。
 いや、今は違う。俺がここまで首を突っ込むのは、あの子の笑顔と幸せのため。
「お前はあの子を他人だと思ってるのか?」
「だって、他人でしょ。誰一人として『同じ』ではないのよ。血の繋がりなんて関係ない。あの子は私じゃないし、私もあの子じゃないわ」
 やはり、彼女に何かを期待するなんて、どうかしてるんだ。実の娘でさえ他人と言いきる彼女が、俺や親友を他人以上に見ているわけがない。
 言うだけ無駄。放っておくべき。それが正解なんだろうけど、このままでいいのか?
「だったら、責任はどうなんだ。あの子の母親としての責任は、お前にしかないだろう?」
「ああ、そういうこと。つまり、あんたは離婚しろって言いたいんだ? 責任の所在をハッキリさせたいわけね。ほんっとうに、回りくどい男」
 俺の返事を聞くより先に、彼女はその場を離れた。
 すらりと伸びた美しい足には、エナメル質の真っ赤なハイヒール。コツコツと足音を鳴らして遠ざかる様子を、ただ見ているほかなかった。数分もしないうちに、彼女は雑踏に紛れて消えた。
 責任の所在をハッキリさせるなら、彼女は尚のこと家に帰るべきだ。無責任に放棄しろと言いたかったわけじゃない。俺はまた、あの子や親友が望む未来へ導けなかった。それだけはわかる。
 親友は円満な家庭に強い憧れを抱いている。物心ついた頃から、家族で食卓を囲んだ記憶がないらしい。外から帰ると、テーブルの上に千円札が二枚ほど置いてあった、と。その話を聞いていたから、親友の気持ちにばかり目が行ってしまった。彼女が家を空けたがる理由は、一度だって聞いたことがない。
 俺は親友の家庭に波風を立てたくなかった。まるで、今日買ったターコイズが表すような静けさを、他でもない俺が望んでしまった。
 彼女が家を空ける度に「行かないで」と願ったのは、あの子ではなく俺だ。
 でも、彼女はまた行方をくらましてしまった。

11/2/2025, 4:31:15 PM

「はぁ」
 親友の娘がため息をついた回数、なんと十三回。思い詰めた表情なのが些か心配である。
 ため息の理由を尋ねるのは簡単だが、相手は女の子だ。相談相手に適した母親は蒸発しているし、聞けば友達はいないと言う。娘の身近にいるのは父親と俺。この環境だからか、自ら打ち明けない選択をしているかもしれない。異性には言えない悩みというやつだろうか?
「はぁ」
 娘はまた深くため息をついた。
「具合悪いの?」
 たまらず聞いてしまった。悩みには直接触れず、端から見て元気がないことを指摘する。多分、上手いやり方だと思う。
「ううん。体は元気だよ」
 つまり、心が不調である、と。単純に捉えればそうなるが、聞いていいのか、これ以上は踏み込むなという合図か。乙女心はいまいちわからない。
「そっか。困ったことがあったら、何でも言ってね」
 子供相手に大人な対応をしたが、これが本当に正解なのか? 子供には子供なりの対応があるはずだ。しかし、それがどんなものか、皆目見当もつかない。
 自分が子供だった頃、俺はどうしていただろう。過去に思いを馳せてみる。
 俺は教室の片隅で絵を描いていた。外で遊ぼうと誘ってくれたのは教員だけ。仲間外れではないが、クラスに馴染めてもいなかった。それでよかったかと言えば、ノーと答える。クラスメイトが楽しそうにサッカーをしている様子を、教室の窓から見下ろしていた。
 羨ましかったのだ。「僕も一緒に遊びたい」と言う勇気はなかったが。
 言いそびれた後悔は大人になった今も残っていて、伝えることを疎かにする恐怖を覚えた。聞かない優しさを、俺はどこかに置き去りにしてきたのかもしれない。
 これは誰にも見せない傷のサンプルのようなもので、謂わば『秘密の標本』とも言える。俺の経験から抽出した一部の教訓。
「……言いたくないなら言わなくてもいいけど、悩んでることある?」
 思いきって娘に問う。
「悩んではない。けど、どうしたらいいかもわからない」
 娘はこちらを見ない。
「解決はしないかもしれないけど、言うだけでも軽くなるかも」
「お母さんがいなくなった日の夢を見るの」
「うん」
「夢の中で、お母さんはいつも楽しそう。お父さんじゃない、知らない男の人と、幸せそうに話してる。だから、わたしは行かないでって言えないの。わたしのわがままが、お母さんの幸せを壊す気がして」
 俺とは真逆の『秘密の標本』を、娘は記憶の中に抱えているようだ。
 娘の母親は、行動の読めない女だった。家を空けると、次にいつ帰るかわからない。子供にとって、それがどれだけ心細いか。あろうことか、周りにいた大人は誰もわかっていなかった。
 もっと娘の気持ちに寄り添いたい。この子の幸せが俺の人生だから。
「夢に見るほどつらかったんだね」
「そうなのかな。自分ではよくわからない」
「防衛反応かもしれないね。考えない方が楽なことってあるし」
「オジサンにはあるの? 考えない方が楽なこと」
「あるよ。たくさん」
「パーっと忘れちゃおうよ。他に楽しいことしてさ」
「楽しいことって?」
「オジサンは外に出た方がいいよ。ずっと家にいるじゃん」
 明るく言う娘は、続けざまにぼそっとこぼす。……お母さんは外に出すぎなんだよ、と。
 やはり、帰ってきてほしいのだろうか。端からは碌でもない女にしか見えないが、それでもこの子の母親だ。
 娘の思いは聞かなかったことにした。その代わりに、聞かない優しさという『秘密の標本』を、俺の心に飾った。

9/29/2025, 6:54:43 PM

「こっちにおいで」
 海がそう言っているみたい。寄せては返す波の音に誘われる。
 バシャバシャと音を立てて進む足が重い。海水を蹴る度に靴の中は濡れた。
 その一歩後ろをついて来るオジサンは、お父さんの親友。
 いつも一緒にいる二人が羨ましかった。
 お母さんに捨てられても、お父さんはちっとも寂しくなさそうで、どうしてなのかと頭の中で繰り返し問い質した。
 家族と言えど血の繋りはないから、お父さんは笑っていられるんだ。少しだけ視点をずらして納得したふりをした。
 ある日、ひとつの仮説が浮かんだ。
 お父さんがオジサンと毎日顔を合わせていた理由は、寂しさを誤魔化すためだったんじゃないか、と。
 わたしにはそんな友達がいないけど、お父さんには深い絆で結ばれた親友がいる。
 だから、わたしはいつも一人で膝を抱えていた。部屋の隅で気配を殺して、そこにいない者のように振る舞った。
 だけど、このオジサンは、いつもわたしを見つけた。
 今だって、家出したわたしを、たったの三十分で見つけた。
 海水はもう膝の高さになっている。確認するために歩みを止めた。
「これ以上進むと、オジサンも帰れなくなるよ」
「かまわないさ」
 迷いのない即答に驚かされた。振り返りオジサンを見ると、冷めた表情を浮かべている。
 漆黒の瞳には光が反射しているけど、輝いているのは表面だけで、その目の奥には何も映していないのだろう。
 見覚えのある瞳。お父さんとお母さんも、同じ色を宿していた。あえて名付けるなら諦観がピッタリだと思う。
「オジサンが戻らなかったら、お父さんが泣くよ」
「そうだね。泣くかもね。君はどう?」
「わたし?」
「俺が戻らなかったら、君は泣いてくれる?」
「……うん」
「よかった。俺もね、君が戻らなかったら泣いちゃう」
 そんなこと言われたら、これ以上進めなくなる。
 いつからか色を失った世界には、光と影しかない。隣の芝生は青いのに、わたしの芝生は真っ黒で。そんな世界は必要ないと思った。
 薔薇色の人生を、わたしも夢見ていた。好きな人と一緒に過ごして、想いが通じて恋人になり、貴方しかいないと確信して結婚する。そんな妄想を抱いていた。だけど、現実は甘くなかった。わたしが愛した人は、お父さんの親友で、お母さんが密かに想いを寄せる人。年は親と子の差がある。
 最初から叶わない恋を、諦めきれないまま寿命を迎えるんだ。そう思ったら、一気に世界が暗くなった。こんなはずじゃなかった、と何度も後悔する。
 お母さんが家を出て行ってから、お父さんは夜の仕事に転職した。孤独で押し潰されそうなわたしに寄り添ってくれたのがオジサンだった。
 両親がオジサンとわたしを巡り合わせた。そう思えば聞こえはいい。しかし、お母さんが家を出なければ、わたしがオジサンの優しさに依存することもなかった。
 オジサンは沼のようだった。子供ながらに甘やかされていると知っていた。高校生の頃には、オジサンがわたしに向ける感情が、他の誰とも違う特別なものだと気づいていた。でも、知らないふりをしなければならなかった。
 オジサンにどっぷり浸かったわたしは、彼に影響されて絵を描くようになったけど、世界は白と黒の階調でしか表現できなかった。綺麗と汚いが綯い交じるモノクロの世界を、オジサン以外は誰も理解しようとしなかった。
 君には世界がこう見えているんだね。オジサンはわたしの絵を見てそう言った。その言葉には色があった。暖色だと思う。わたしの世界で唯一の色を持つ人はオジサンだけ。
「わたしが見てる世界は、モノクロなんだよ」
「うん」
「でもね、オジサンが差し色になるの」
「そっか。じゃあ、俺が差し色であるうちは、君の傍にいさせてくれないか」
「うん」
 それ以上は何も言わず、手を繋いで家路を辿った。
 背中を照らす夕陽が、二人の真っ黒な影を長く伸ばす。それも間違いなく色なのだ。わたしの世界はまだ色を失ったわけじゃない。

8/30/2025, 8:15:39 AM

※この物語の登場人物は1990年代に生まれた設定なので、成年年齢は二十歳です。

 ◆◇◆
 
 光が反射してキラキラと輝く海のように、俺の記憶は色褪せないままでいる。
 俺より二つ年上の相沢さんは、自由奔放という言葉が似合うと思う。子供の頃から協調性が皆無だったから、俺が振り回され続けた。相手をするのは面倒だし疲れるけど、相沢さんのストッパー役が俺以外にいないのもわかってる。
 兄弟みたいに育った俺たちは、友達を越えた絆で結ばれていると信じていた。ずっと一緒だと疑ってなかった。

 俺と相沢さんはいつも通りニートを謳歌している。
 社長の息子ってやつは、欲しいものを意のままに出来る。と、まるで王様にでもなったかのように、相沢さんは得意気に話すのだ。それが事実かはさておき、相沢さんの部屋には新作ゲームや漫画といった、インドア派に優しい娯楽が揃っている。それらのお供にお菓子とジュースを持ち寄れば、俺たちの楽園に早変わりだ。
 夢のような部屋で好きに過ごしていたら、急に稔さんが現れてこう言った。
「お前たち、仕事を探す気がないならウチの工場で働け」
 断る余地はなかった。だって、俺はお金がほしい。俺の趣味のひとつにはコスプレがある。その衣裳の材料は安くない。相沢さんの部屋がどれだけ天国みたいだとしても、それはぬるま湯でしかないのだ。
 コネにあやかろうとする俺の横で、相沢さんが声を荒くして言った。
「嫌だね。金持ちの家に生まれたんだ。親の脛をかじるのが最高だぜ」
 親不孝の最低発言に思わずドン引きしたが、相沢さんがそう言う理由を知らない訳じゃない。
 相沢さんの父親こと稔さんは、仕事が多忙で家を空けやすい人だった。相沢さんは子供時代に子供らしいことをせず、母親を精神的に支えながら、弟と妹の面倒もみていた。少なからず俺には決して弱音を吐かなかったが、その心は泣いているようにも思えた。
 大人の烙印を押されて一年しか経ってない相沢さんは、稔さんから見ればまだまだ尻の青い子供でしかない。最低発言は当然のように流され、俺たちは明日から工場勤務を命じられた。

 早起きして重い足取りで工場へ向かう。バックレるかと思っていた相沢さんも、ちゃんと来ていた。それに驚きつつ、先を行く相沢さんの背中を追う。
 進むにつれて廊下の明かりがどんどん減り、窓からの光だけが頼りとなってきた。相沢さんが躊躇なく開く扉には、雑務だとか倉庫だとか、そんな文字が書かれたプレートがついていた。
「おはよーございまーす。今日からの相沢と来須でーす」
 怠そうに挨拶をする相沢さんの横で、俺はペコリと頭を下げた。
「あらぁ、生意気そうなのと大人しそうなのが来たわねぇ」
 いたずらっぽい笑みでくつくつと笑う女性。金髪というか、まっ黄色の髪が一番に目を引く。ブロンドとは程遠い、目が痛くなる色をしている。その髪を頭頂部でまとめた、いわゆるお団子ヘアの彼女は、スタスタと早歩きで俺たちの方に寄ってくる。名札にはリーダーとしか書かれていない。
「結ちゃん、俺たちは何したらいい?」
 相沢さんがリーダーさんに軽口を叩く。知り合いなのだろうか。まあ、社長の息子なら面識があってもおかしくないか。
「その辺の空いてる席について、ダンボールに詰められた備品をチェックしてほしいのよね」
「はーい」
 従順な相沢さんに違和感を覚えた。昨日まで親の脛をかじりたがっていた男とは思えない。
 相沢さんが座る横に腰を下ろして、気になっていたことを聞く。
「あの人、知り合いなの?」
「それマジで言ってる?」
「うん」
「影が薄い女で有名な新橋結子。知らないとは言わせないぞ」
「えっ! あの人が結ちゃん!?」
 相沢さんの言う通り、結ちゃんは影が薄かった。すっごく真面目な優等生で、成績も優秀だったと記憶している。髪だって真っ黒だった。
 俺より五つ年上の結ちゃんと、共に学園生活を過ごしたことはないが、閉鎖的な田舎町では筒抜けの情報というものがある。
 結ちゃんが近所の空き地でいじめられていたのを何度も見かけた。俺や相沢さんが助けに入ろうとすると、いつも先約がいて、出る幕はなかった。結ちゃんにも属しているグループがあるのだと、少しばかり安心していたのだが。まさか髪を黄色に染めているなんて、思わないじゃないか。
 結ちゃんのいるところに奴の姿有り。そんな噂が流れるほどピッタリくっついていた男――坂本がここにいるような気がした。
 辺りを見渡すと、ハンドリフトを怠そうに動かす男が視界に留まる。茶髪の天パに加えて、背中に可愛らしいブルドックの絵柄が印刷されたジャージを着ている。それは坂本が常に愛用していたブランドのものだ。
「あのハンドリフト動かしてる人、坂本さんだよね?」
 思わず相沢さんに確認をとるが、首を縦に振るだけだった。幼い頃は坂本を見ただけで嫌そうな顔をしていたのに。
 チラリと坂本に視線を向けると、目と目があった。しかし、すぐに逸らされてしまう。
 色んなことが変化していると、外に出て初めて気づいた。
 ご近所さんの情報は母親の口から絶えず入ってくる。それに耳を塞ぐ術を、この町の子供なら習得しているはず。斯く言う俺は、耳どころか心を塞いできたのだが。

 記憶の中でキラキラと色褪せずに輝いていた思い出が、次々と目に映し出されていく情景に塗り替えられていく。心の中の風景はあっという間に現実にフォーカスしてしまった。

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