あお

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「こっちにおいで」
 海がそう言っているみたい。寄せては返す波の音に誘われる。
 バシャバシャと音を立てて進む足が重い。海水を蹴る度に靴の中は濡れた。
 その一歩後ろをついて来るオジサンは、お父さんの親友。
 いつも一緒にいる二人が羨ましかった。
 お母さんに捨てられても、お父さんはちっとも寂しくなさそうで、どうしてなのかと頭の中で繰り返し問い質した。
 家族と言えど血の繋りはないから、お父さんは笑っていられるんだ。少しだけ視点をずらして納得したふりをした。
 ある日、ひとつの仮説が浮かんだ。
 お父さんがオジサンと毎日顔を合わせていた理由は、寂しさを誤魔化すためだったんじゃないか、と。
 わたしにはそんな友達がいないけど、お父さんには深い絆で結ばれた親友がいる。
 だから、わたしはいつも一人で膝を抱えていた。部屋の隅で気配を殺して、そこにいない者のように振る舞った。
 だけど、このオジサンは、いつもわたしを見つけた。
 今だって、家出したわたしを、たったの三十分で見つけた。
 海水はもう膝の高さになっている。確認するために歩みを止めた。
「これ以上進むと、オジサンも帰れなくなるよ」
「かまわないさ」
 迷いのない即答に驚かされた。振り返りオジサンを見ると、冷めた表情を浮かべている。
 漆黒の瞳には光が反射しているけど、輝いているのは表面だけで、その目の奥には何も映していないのだろう。
 見覚えのある瞳。お父さんとお母さんも、同じ色を宿していた。あえて名付けるなら諦観がピッタリだと思う。
「オジサンが戻らなかったら、お父さんが泣くよ」
「そうだね。泣くかもね。君はどう?」
「わたし?」
「俺が戻らなかったら、君は泣いてくれる?」
「……うん」
「よかった。俺もね、君が戻らなかったら泣いちゃう」
 そんなこと言われたら、これ以上進めなくなる。
 いつからか色を失った世界には、光と影しかない。隣の芝生は青いのに、わたしの芝生は真っ黒で。そんな世界は必要ないと思った。
 薔薇色の人生を、わたしも夢見ていた。好きな人と一緒に過ごして、想いが通じて恋人になり、貴方しかいないと確信して結婚する。そんな妄想を抱いていた。だけど、現実は甘くなかった。わたしが愛した人は、お父さんの親友で、お母さんが密かに想いを寄せる人。年は親と子の差がある。
 最初から叶わない恋を、諦めきれないまま寿命を迎えるんだ。そう思ったら、一気に世界が暗くなった。こんなはずじゃなかった、と何度も後悔する。
 お母さんが家を出て行ってから、お父さんは夜の仕事に転職した。孤独で押し潰されそうなわたしに寄り添ってくれたのがオジサンだった。
 両親がオジサンとわたしを巡り合わせた。そう思えば聞こえはいい。しかし、お母さんが家を出なければ、わたしがオジサンの優しさに依存することもなかった。
 オジサンは沼のようだった。子供ながらに甘やかされていると知っていた。高校生の頃には、オジサンがわたしに向ける感情が、他の誰とも違う特別なものだと気づいていた。でも、知らないふりをしなければならなかった。
 オジサンにどっぷり浸かったわたしは、彼に影響されて絵を描くようになったけど、世界は白と黒の階調でしか表現できなかった。綺麗と汚いが綯い交じるモノクロの世界を、オジサン以外は誰も理解しようとしなかった。
 君には世界がこう見えているんだね。オジサンはわたしの絵を見てそう言った。その言葉には色があった。暖色だと思う。わたしの世界で唯一の色を持つ人はオジサンだけ。
「わたしが見てる世界は、モノクロなんだよ」
「うん」
「でもね、オジサンが差し色になるの」
「そっか。じゃあ、俺が差し色であるうちは、君の傍にいさせてくれないか」
「うん」
 それ以上は何も言わず、手を繋いで家路を辿った。
 背中を照らす夕陽が、二人の真っ黒な影を長く伸ばす。それも間違いなく色なのだ。わたしの世界はまだ色を失ったわけじゃない。

9/29/2025, 6:54:43 PM