「オジサンに質問」
右腕をピンと挙げて、親友の娘が言う。
「何かな?」
「凍てつく星空って何?」
明確な答えがすぐに出てこず、俺は言葉をつまらせた。
季語に『凍星』がある。解釈が雑でいいなら、凍てつく星空で意味も合ってる。
「冬の星空のことだと思う」
「星空って凍るの?」
真っ直ぐな目で疑問を口にするこの子に、望む答えを与えたい。しかし、あまりにも問いが難しい。結論から言えば、星空は凍らない。
「とりあえず、外に出てみようか」
星は凍らないが、物質は凍る。そんな難しい話をしても仕方がない。物理学の話を始めたら、それこそ『星空は凍るのか』という問いから脱線してしまう。
大気が凍るから、星がより輝いて見えるんだ。と、体験してもらえたら、説明は十分じゃないか。
文学的に話したほうが、きっとわかりやすい。
娘に防寒対策を施す。といっても、もこもこした服を着せただけだが。帽子に耳当て、手袋も忘れてない。裏起毛のズボンも履かせた。準備万端だ。
玄関を開けるなり、娘が身を縮める。
「うー、寒いねー」
「うん」
即答で同意するほど寒い。近所の丘に行こうと考えていたが、庭でもいいだろうか。空が見えれば、どこでもいいよな。
「庭で話をしよう」
「うん」
濡縁に腰かける。
将来に想いを馳せて建てた家だ。しかし、まだ見ぬ妻が世話をする予定の花壇もなければ、いつしか授かるであろう我が子が可愛がるはずの犬もいない。俺の目にしか映らない幻想だけが、この庭に広がっている。
ただ広々としているだけの庭から、空へと視線を移した。
「空を見てごらん。星が凍るように輝いている」
「星さんは寒さで凍っちゃったの?」
「星は凍らないよ。ものすごく温度が高い……と言えばいいのかな?」
子供に説明するって難しい。あまり詳しく言っても伝わらないし、雑な説明は語弊がある。
あくまで文学的に話したいのに、この子の質問がロマンより現実を求めている。
一旦、話題を反らそう。
「夢を見たいのか、現実を見たいのか。君はどっちかな?」
「夢を見るには現実を知ってなきゃ。現実を見るときも、心には夢を抱いている方がいいんだよ。どちらか一つだけを見てると、人の心は迷っちゃうんだって」
「ほう」
この子は本当に小学生か? もしかして、今時の五年生って、友達とこんな話する? 俺が同じ年の頃は、アニメや漫画の話をしたり、ゲームの攻略を話し合っていたけどな。総じて、見たいものしか見ていなかった。
大人になった今も、それは変わらないかもしれない。
参ったな。この子にはいつも現実を見せられる。先の質問も、半端な回答じゃ通用しない気がしてきた。
「凍てつく星空が何かってことだけど、オジサンは上手に答えられない。ごめん」
「どうしてオジサンが謝るの? こうやって星を一緒に見てくれるだけで嬉しいよ」
二人で同じものを見て、感じたことを話す。それだけで、十分なんだ。
目の前の小さな幸せから目を反らし、高すぎる理想を追うなど、贅沢だった。
新たな気付きをくれたこの子への、感謝の言葉を探す。そのうちに、喉の奥から短歌めいた調べが滑り出た。
「現実は 夢の中より 温かく 涙に溶ける 凍りし星よ」
「ん? なに、なに? 今のどういう意味?」
「オジサンも君と星を見れて嬉しい。そう言ったんだよ」
「そうなんだ」
「さて、今夜は冷える。そろそろ家に入ろう」
「また、一緒に星を見ようね」
「うん」
体はすっかり冷えてしまったが、心だけはポカポカしている。
お父さんは夜に仕事をしている。わたしが学校へ行っている間は眠る。学校から帰る頃には、仕事へ行く支度をしている。親子の会話などほとんどない。
それでもどうにかコミュニケーションをとるために、お父さんの親友の提案で、交換日記を用意した。数十冊にまで増えたノートを眺めて、少しだけ悲しい気持ちになる。
お父さんはそんなに字が綺麗じゃない。ギリギリ読める程度。対して、交換日記に書かれた字は達筆。つまり、お父さんではない別の誰かが書き記しているのだ。そんなの一人しかいないけど、気づかないふりをしている。
思い出を振り返るように、昨日のページを開いた。
『十一月三十日。男は仕事から帰宅するなり、交換日記を開く。眠気で重くなる目蓋を懸命に開いた。そこに書かれた文章を脳に焼き付けるように、一文字ずつ大切に目を通す。ノートに書かれている娘の学校生活は、至って平凡なものだ。しかし、男には毎日が輝いているように見える。娘の生きる日々が、男にはかけがえのないものだから。男は娘に思う。お前の紡ぐ人生が、幸せな方へ進むことを祈る、と。』
お父さんはこんな書き方をしないと思う。それ以前に、面倒臭がって文字を書かない。きっと、親切な誰かさんが、お父さんの様子を書き記している。そうだと思いたい。
わたしは続きにこう書いた。
『男は交換日記を読み、娘の幸せを思う。しかし、何故だろう。決して娘と会話しようとしないのだ。娘はずっと不安に思っていた。お父さんはわたしのことが嫌いなのか、と。そして、いつしかこう考えるようになった。お父さんが勤めるお店に行って、ちゃんとお金を払ったら、わたしともお話ししてくれる?』
ちょっとだけ本音を交えた。この続きがどうなるのか、少しばかり不安だ。ページを捲るのが怖い。
震える手でページを捲ると、既に続きが書き記されていた。今日の分だ。
『十二月一日。男は娘の本心を知る。しかし、娘が父と会話するために金銭を支払うのはおかしい。店に行かずとも、家で話せばよいのだ。私が娘に寂しい思いをさせたのだと、男は悔い改める。娘に挨拶をする。それだけでも、コミュニケーションはとれるはず。男は自分に言い聞かせるように呟いた。大丈夫。ちゃんと愛情は伝わる。』
お父さんの懺悔と共に、店には行くなと書かれている。それはそうだ。ホストクラブは、未成年が入れる場所じゃない。仮に入れる年齢になっても、お父さんから『父親』を差し引いた『男』の姿を見たくない。
今、お父さんは仕事へ行く支度をしている。鏡の前で「今日も世界一かっこいいな」と、自画自賛。毎日のルーティンのようだ。
わたしの視線に気づいたお父さんが、ゆっくりと近づいてくる。
「帰ってたのか」
「うん。ただいま」
「おかえり。父さんは今から仕事に行くけど」
「いってらっしゃい」
わたしの頭をくしゃっと撫でて、お父さんは家をあとにした。撫でられたところが少しあたたかい。
交換日記で少しずつ紡いだ物語が、現実になろうとしている。今日はどんな続きを書こうかな?
式場の下見まで終えたタイミングで、婚約者に逃げられた。まさか、自分がそんな目に遭うとは思わなかった。
婚約者の逃亡から数年経った今も、精神的なことが何も解決していない。
本当は婚約者と暮らすために建てたこの家も、今では親友の娘と暮らす家になっている。一応、親友が帰宅する場所もここのはずだが、彼は滅多に帰らない。
親友家族が元々住んでいた家もあるわけで、そちらに帰るのが普通だ。俺に気を遣って娘だけをこちらに帰してくれるのだろう。娘も心配しているらしく、俺を一人にしたくないと言った。
苦い記憶を封印しておくための箱を用意した。その中に、自分の名前だけが書かれた婚姻届と、婚約者のために選んだ結婚指輪が入っている。ずっと捨てられずにいる物。
箱の鍵は俺が管理している。いつでも開けられる箱に何の意味があるのか。指輪を眺めては落ち込んでしまう日々を想定していたし、実際にその通りなのだ。
親友も妻に逃げられている。俺の気持ちがわからないわけではない。だからなのか、俺の無意味な行為を止めたりしない。ただ、慰めてもくれない。似通った痛みを語らって傷を舐め合う仲でもない。
親友との関係に不満を抱くことはなくても、寂しさを感じずにはいられないのだ。俺たちは幼い頃から言葉足らずの関係である。
今日も箱を開けようとしたが、どうしてなのか、鍵が見当たらない。鍵の保管場所は決まっている。
箱の中身を知っているのは俺と親友のみだが、箱と鍵の存在なら娘も知っている。
親友が持ち出したとは考えにくい。その理由がないからだ。もちろん、娘が持ち出す理由もないが、持ち出さないと言える根拠もない。失くした事実だけは伝えてみようか。何か知っているかもしれない。
思った矢先、ガチャっと扉が開く音が聞こえた。娘が学校から帰宅したのだろう。もう、そんな時間なのか。
「おかえり」
「ただいま」
娘は普段通りの態度で俺の横を通り過ぎる。根拠なく疑うのは心苦しいが、この娘は空気を読みすぎるところがある。女の勘というやつも鋭い。俺が今、何を考えているかも、読まれている可能性がある。手強い相手だが、俺だって娘の弱点を把握している。
「聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「うん」
「箱の鍵を失くしてしまってね。どこかで見かけなかった?」
「し、知らない!」
娘は慌てた様子で部屋に入っていく。真っ黒だと自白しているようなものだ。俺は箱を手に持ったまま、追うように部屋に入った。娘は何やらベッドの下を漁っている。そこに鍵を隠していたのか?
「何をしているのかな?」
娘の体からビクッと跳ねる。そのまま硬直してしまった。頭隠して尻隠さずとは、まさにこの事。
「オジサンは鍵についてちゃんと話がしたい。君はどうかな?」
娘は声を震わせながら、しかし、ハッキリと言った。
「鍵なんてない方がいいんだよ」
「どうして?」
「箱があるとオジサンが悲しそうな顔をするから。箱が開かなくなれば、見ることもなくなるでしょ」
俺が箱を開くのは、娘が学校に行っている間と、寝静まった真夜中だけだ。大丈夫だと過信して、リビングで箱を開けていたが、真夜中なら見られる可能性は大いにある。
娘が鍵を隠したくなるほど、俺は悲しそうな顔をしていたのか。確かに、中身は決して気分を高めるものではない。
「君の言い分だと、箱を捨てるのが妥当じゃないか?」
純粋な疑問だ。鍵を隠しても、悲しみを絶つことにはならない。箱を壊せば中の物は取り出せる。
「お父さんが言ってた。箱の中にはオジサンの心の傷が入ってるって。でも、それって、ちょっと違うと思う。傷ついた心が入ってるんだよね? オジサンの心を、わたしが勝手に捨てるなんてできないよ」
親友が自ら箱の話をするとは思えない。娘から詮索していたのか。明らかに怪しい箱があれば、気になるだろう。普段は鍵と箱がリビングに揃って置いてあるし、いつでも開けられる。
「中を見たの?」
「見てないよ。でも、大切なものだって、わかる。見たら悲しくなるのに、毎日眺めてるから」
親友とは違って、娘は俺の傷を舐めようとする。それはまるで、動物が本能的に傷口を舐めるかのように。
この子は誰に似たんだろうか。親友でも、俺でもない。もちろん、この子の母親でもない。誰にも似てないのは、環境がそうさせているからだ。俺たちはこの子に、たくさんの気遣いを強いている。
「よかったら、一緒に中の物を見てくれないか」
数分の沈黙のあと、娘がベッドの下から出てきて、鍵を俺に手渡した。受け取って箱を開ける。
娘は婚姻届をじっと見ている。眉間にシワを寄せて。
「結婚したいくらい好きな人がいたんだね」
「好きではなかった」
口に出して改めて実感する。好きではなかったし、嫌いでもなかった。相手にも結婚にも、関心がなかったのだ。親に孫が見たいと言われたから、目標が『孫』に設定されただけ。俺と年が近い相手も、同じく孫をせがまれていたらしい。俺たちの付き合いは愛や恋ではなく、利害の一致でしかなかった。相手は俺じゃ嫌だから、最終的に逃げる選択をしたのだろうけど。
そんな話を娘にする必要はない。だが、これだけは伝えておきたかった。相手を愛していたわけじゃない。
俺が愛しているのは君だけだよ。と、言えたらもっと良かったのだが、親友の娘に手を出すほど愚かでもない。
君が隠した鍵は、本当にない方がよかったのだろうか。傷ついた心の奥で新たに生まれた愛情は、やはり隠しておくべきだろう。
行きつけの画材屋で筆と絵の具を新調した。一目見た瞬間に惹かれたターコイズを、一刻も早く帆布に広げたい。
ターコイズといえば、空の青か、海の青か。想像は膨らむばかりだ。
三種類のターコイズカラーを買った。まず、メインで使いたいターコイズブルー。思いきって空にも海にも使っちゃおう。ターコイズグリーンは海の差し色にして、ライトターコイズは陸地の植物に使ってみるか。
色々考えているうちに、海を臨む岬が脳内に浮かんだ。
ちょうど向かいにカフェがある。お茶を飲みながら、ラフを描いてみるのもありだな。スケッチブックは持ち歩いている。
実際に海に行くのもいい。だが、一人で行くのは躊躇してしまう。海はあの子が好きな場所だから、連れて行けば喜んでくれる。
うん。海は明日にして、今日はラフだけ描く日にしよう。そうと決まれば、次の目的地は目の前のカフェだ。
俺が開けるより先に、カフェの扉が開いた。中から出てきたのは、ゆるくウェーブがかかった、長髪の女性。むせ返るほどの甘い香りが、すれ違いざまに鼻を掠めた。
この匂いには覚えがある。
「待って」
長髪の女性を呼び止める。振り向く彼女は「げっ」と言いたげな表情を浮かべた。その苦痛に歪む顔に、何も思わないわけではない。怒りを抑えるように、拳を握った。
「あの子はお前の帰りを待ってる」
いきなり話の核心をついた。彼女は鼻で笑って、言葉を続ける。
「だから?」
「こんなところでフラフラしてないで、帰ってやったらどうだ?」
「嫌よ」
そう言うことはわかっていた。しかし、消えない疑問がいつまでも俺の胸を漂う。
まず、どうして結婚したのか。彼女―親友の妻―は、家族を愛していない。親友のことはもちろん、娘であるあの子にさえ、関心がないのだ。
そして、これが最もな疑問であるが、離婚せずに遊び歩くのは何故か。親友が離婚を切り出せば、不利になるのは彼女だ。離婚を切り出されない自信があるとでも?
「あの子はもう、何もわからない年齢じゃない」
「だからなんなのよ。あんたって、いつも回りくどいわよね」
彼女は苛立っている。その証拠に、爪と爪を弾いてカチカチと鳴らしている。それは幼少期から変わらない癖だ。幼馴染みとして一緒にいた時間が長い、俺と親友しか知らないこと。
綺麗に塗られた真っ赤なネイルは、光沢を帯びている。しかし、彼女が怒りに任せて爪をいじることで、少しずつ傷が付いていく。
ああ、そうか。あの子が赤を嫌っている理由はこれだ。「赤は傷の色」と、ずっと言っていた。その言葉を聞いてから、俺も赤を避けるようになったんだっけ。
しかし、家族というものは、避けてはならない瞬間がある。それが今だと直感した。唯一赤の他人である俺は、親友家族の絆を繋ぐ役目なのかもしれない。
「お前が家を空ける度、あの子は『行かないで』と願った」
「ふーん。でも、その願いは叶わない。残念ね」
「叶えてやることだって、できるはずだろ」
「私は神様じゃないの。他人の願いを叶えてやる義理なんてないわ」
俺が彼女に何かを期待するのもおかしな話だ。しかし、幼い頃から共に育ってきた仲でもある。いつだって三人でいたからこそ、見て見ぬふりが難しい。どうしても、お節介になってしまう。
いや、今は違う。俺がここまで首を突っ込むのは、あの子の笑顔と幸せのため。
「お前はあの子を他人だと思ってるのか?」
「だって、他人でしょ。誰一人として『同じ』ではないのよ。血の繋がりなんて関係ない。あの子は私じゃないし、私もあの子じゃないわ」
やはり、彼女に何かを期待するなんて、どうかしてるんだ。実の娘でさえ他人と言いきる彼女が、俺や親友を他人以上に見ているわけがない。
言うだけ無駄。放っておくべき。それが正解なんだろうけど、このままでいいのか?
「だったら、責任はどうなんだ。あの子の母親としての責任は、お前にしかないだろう?」
「ああ、そういうこと。つまり、あんたは離婚しろって言いたいんだ? 責任の所在をハッキリさせたいわけね。ほんっとうに、回りくどい男」
俺の返事を聞くより先に、彼女はその場を離れた。
すらりと伸びた美しい足には、エナメル質の真っ赤なハイヒール。コツコツと足音を鳴らして遠ざかる様子を、ただ見ているほかなかった。数分もしないうちに、彼女は雑踏に紛れて消えた。
責任の所在をハッキリさせるなら、彼女は尚のこと家に帰るべきだ。無責任に放棄しろと言いたかったわけじゃない。俺はまた、あの子や親友が望む未来へ導けなかった。それだけはわかる。
親友は円満な家庭に強い憧れを抱いている。物心ついた頃から、家族で食卓を囲んだ記憶がないらしい。外から帰ると、テーブルの上に千円札が二枚ほど置いてあった、と。その話を聞いていたから、親友の気持ちにばかり目が行ってしまった。彼女が家を空けたがる理由は、一度だって聞いたことがない。
俺は親友の家庭に波風を立てたくなかった。まるで、今日買ったターコイズが表すような静けさを、他でもない俺が望んでしまった。
彼女が家を空ける度に「行かないで」と願ったのは、あの子ではなく俺だ。
でも、彼女はまた行方をくらましてしまった。
「はぁ」
親友の娘がため息をついた回数、なんと十三回。思い詰めた表情なのが些か心配である。
ため息の理由を尋ねるのは簡単だが、相手は女の子だ。相談相手に適した母親は蒸発しているし、聞けば友達はいないと言う。娘の身近にいるのは父親と俺。この環境だからか、自ら打ち明けない選択をしているかもしれない。異性には言えない悩みというやつだろうか?
「はぁ」
娘はまた深くため息をついた。
「具合悪いの?」
たまらず聞いてしまった。悩みには直接触れず、端から見て元気がないことを指摘する。多分、上手いやり方だと思う。
「ううん。体は元気だよ」
つまり、心が不調である、と。単純に捉えればそうなるが、聞いていいのか、これ以上は踏み込むなという合図か。乙女心はいまいちわからない。
「そっか。困ったことがあったら、何でも言ってね」
子供相手に大人な対応をしたが、これが本当に正解なのか? 子供には子供なりの対応があるはずだ。しかし、それがどんなものか、皆目見当もつかない。
自分が子供だった頃、俺はどうしていただろう。過去に思いを馳せてみる。
俺は教室の片隅で絵を描いていた。外で遊ぼうと誘ってくれたのは教員だけ。仲間外れではないが、クラスに馴染めてもいなかった。それでよかったかと言えば、ノーと答える。クラスメイトが楽しそうにサッカーをしている様子を、教室の窓から見下ろしていた。
羨ましかったのだ。「僕も一緒に遊びたい」と言う勇気はなかったが。
言いそびれた後悔は大人になった今も残っていて、伝えることを疎かにする恐怖を覚えた。聞かない優しさを、俺はどこかに置き去りにしてきたのかもしれない。
これは誰にも見せない傷のサンプルのようなもので、謂わば『秘密の標本』とも言える。俺の経験から抽出した一部の教訓。
「……言いたくないなら言わなくてもいいけど、悩んでることある?」
思いきって娘に問う。
「悩んではない。けど、どうしたらいいかもわからない」
娘はこちらを見ない。
「解決はしないかもしれないけど、言うだけでも軽くなるかも」
「お母さんがいなくなった日の夢を見るの」
「うん」
「夢の中で、お母さんはいつも楽しそう。お父さんじゃない、知らない男の人と、幸せそうに話してる。だから、わたしは行かないでって言えないの。わたしのわがままが、お母さんの幸せを壊す気がして」
俺とは真逆の『秘密の標本』を、娘は記憶の中に抱えているようだ。
娘の母親は、行動の読めない女だった。家を空けると、次にいつ帰るかわからない。子供にとって、それがどれだけ心細いか。あろうことか、周りにいた大人は誰もわかっていなかった。
もっと娘の気持ちに寄り添いたい。この子の幸せが俺の人生だから。
「夢に見るほどつらかったんだね」
「そうなのかな。自分ではよくわからない」
「防衛反応かもしれないね。考えない方が楽なことってあるし」
「オジサンにはあるの? 考えない方が楽なこと」
「あるよ。たくさん」
「パーっと忘れちゃおうよ。他に楽しいことしてさ」
「楽しいことって?」
「オジサンは外に出た方がいいよ。ずっと家にいるじゃん」
明るく言う娘は、続けざまにぼそっとこぼす。……お母さんは外に出すぎなんだよ、と。
やはり、帰ってきてほしいのだろうか。端からは碌でもない女にしか見えないが、それでもこの子の母親だ。
娘の思いは聞かなかったことにした。その代わりに、聞かない優しさという『秘密の標本』を、俺の心に飾った。