窓から差し込む光が眩しい。夏は特にそう思う。遮光カーテンを買うべきか、脳内で検討を繰り返す。しかし、買わないまま半年が過ぎた。
「おはよう、陽向」
俺の挨拶に返事はない。それもそのはず。この部屋に陽向はいないから。
陽の光のように明るくて、一緒にいると心がぽかぽかと温まる存在。陽向の眩しい笑顔なら、脳裏に焼き付いている。
朝の光を甘んじて受け入れているのは、陽向を想うから。
今日は昼までバイトして、それから図書館で勉強する。なんてことのない、学生の休日だ。
陽向が一緒だったら、うるさくて勉強にならない。それどころか、図書館を追い出されそうだ。
隣にいない友達を思って、クスっと笑った。
「いってきます」
癖のような挨拶をして、家を後にした。
「ねぇねぇ青司くん。今日空いてる?」
「すみません。これからバイトです」
隣の部屋に住むお姉さんに声をかけられて、誘いを断る。これも、今では生活のルーティンだ。何度断ってもめげない姿勢は尊敬するが、こちらの迷惑も少しは考えてほしい。
「えー、残念。青司くんと予定合わなくて寂しいなぁ。次の休みがいつか、そろそろ教えてよぉ」
「急ぐんで、もう行きますね」
綺麗なお姉さんからのアプローチは、健全な男子なら嬉しいのだろう。フィクションにもよくあるシチュエーションだ。そのまま良い関係になって、絆が深まっていく。そういうことに興味がない訳じゃない。ただ、俺が選ぶ相手が決まっているだけの話。
陽向との将来のために、安定した職に就きたい。その一心で進学を決めた。だけど俺たちは、いまだに友達のままだ。それどころか、都会に出てきて以降は連絡もしてない。
なんとなく、陽向のほうから連絡を寄越すと思っていた。
――そろそろ、遮光カーテンを買うか。
ふと、そんな考えが過る。
朝の光に飛び込めば、いつだって会える気がしていた。眩しくて暖かい光の、その黄色の中で陽向を思い出していたのだ。
告白はおろか、連絡する勇気もないなら、明日からは朝の光を遮断した方がいいのかもしれない。
青を司ると書いてセイジ。いつ聞いても落ち着く名前だと思う。本人は気に入ってないみたいだけど。
「どうせ司るなら星とかの方がカッコイイだろ」って、頬をかきながら、照れくさそうに言っていた。自分の中にある“カッコイイ像”を語るのが恥ずかしいのか、私から目を逸らした。
どんな青司だって、私にはカッコイイ。田舎の緑の中に、一際映える青を感じさせる人だ。
ずっと隣にいた青司は、都会の大学に進学した。私は地元のコンビニでアルバイトをしている。
青司と違って勉強は苦手だし、夢も抱かなかった。それだけ、青司の隣がしっくりきてたとも言う。疑うことさえしなかった。私の隣に青司がいない景色なんて。
青司が進学する前に告白しておけばよかった。
青司なら絶対にオーケーしてくれるって自信があった。だけど、チャンスを逃した今は、断られる未来しか見えない。
青司が都会に出てから、一度も連絡がとれていない。忙しいかもしれないし、勉強の邪魔もしたくない。建前の理由はそんな感じだけど、本当のところは今の青司を知るのが怖いだけ。
恋人ができた。その一言を告げられたら、私はこの先を生きていけるの?
アパートの前に青司が立っている。二度見してしまった。
少し髪が伸びたような気がする。別れる前は短髪だったのに、今は前髪が目にかかるくらい。それと、かなり痩せたように見える。
「青司、だよね。久しぶり」
「うん。久しぶり」
「痩せたね」
「お前のために痩せた。って言ったらどうする?」
「……頼んでないよ」
「そうだな」
頬をかきながら目を逸らす。別れる前と変わらない仕草に、思わず笑みがこぼれた。
「何しに来たの?」
「呼びに来た」
「えっ」
――それって、都会に? 青司が住む街に、私も行っていいの?
喉まで出かかる本音を飲み込む。沈黙を選択したのは、言ってはいけない気がしたから。
私の腕を強い力で引く青司の背中が、何故だか怖くて、手を振りほどきたい。
「ねぇ青司。どこに行くの?」
「ついて来ればわかる」
「そうかもしれないけど、先に目的地を知りたいよ」
「俺を疑うのか?」
青司はこちらに振り向かず、ただ歩き続ける。恐怖が場の空気を支配した。私は青司の力に逆らえず、どうすることもできない。でも、言わなければいけない。
「離して。私は行かない」
「そっか」
するりと抜ける青司の手は、泣きそうになるほど冷たくて、寂しさを帯びていた。
青司の背中が少しずつ小さくなる。一度も振り返ることのない体が、私の視界を滲ませる。こうしてまた、私に青を刻み込むのだ。悲しみの青を。
頬にあたたかいものが伝う。触ると指先が濡れた。これは……涙か。
青司と会う夢を見ていたようだ。その証拠に、私は自室のベッドで仰向けに寝ている。視界に映る天井の白は、青司の濃さとは違う。だけど、記憶の海に飛び込めば、いつだって会える。青く深く、青司を思い出せるのだ。
「お母さん、出掛けちゃった」
少女は今にも泣き出しそうな顔をしている。スカートの裾をキュッと握りしめる様が、悲しみを物語るようだ。
この子が俺を頼るのはいつものことで、詳しい事情は聞かなくてもわかる。
十にも満たない年頃の子を放って、母親は遊び呆ける。父親は夜の町へ稼ぎに出掛けている時間だ。
静まり返る部屋に一人きり。それは想像を絶する孤独なのだろう。大人にもなれば平気なことでも、子供には耐え難い苦痛になることもある。特にこの少女は、独りが苦手なタイプと見える。
「オレンジジュースでいい?」
「うん」
少女の目の前にマグカップを置いた。トポポと音を立てて注がれるジュースを、少女は真ん丸な目で見つめる。
「どうぞ」
「ありがとう」
少女がマグカップを持つ。小さな手で包むように持つ仕草が、小動物のように愛らしい。
オレンジジュースは、可愛らしい口へどんどん流れ行く。一気飲みとは、見かけによらず豪快な一面もあるんだな。
コトリと置かれた空のマグカップに、継ぎ足すことは可能だ。しかし、頼まれていないのにそうするのは、接待のようで気が引ける。
「いつもこのマグカップだね。おじさんが大切にしているものなの?」
「君のために買ったものだよ」
「わたしの?」
「そう。おじさんのと色違いは嫌だった?」
「ううん。嬉しい。仲良しのお友達みたい」
「仲良しのお友達だから、おじさんもオレンジジュースを飲んじゃおうかな」
「お揃いだね!」
頬を真っ赤に染めて笑う少女は、とても嬉しそうにしている。
いつか「おじさんが友達なんて嫌」と離れていく日が訪れても、今日の幸せが色褪せることはない。
色違いのマグカップで飲んだ、とても甘いオレンジジュース。それが記憶と結び付いて、掛け替えのないひとときを、度々俺に思い出させてくれるだろう。
もし君が、一途だったら。なんて、意味のない考えが過る。
「ねぇ。私たちって、どんな関係だと思う?」
「チョコレート」
「は?」
意味がわからないと言いたげな幼馴染み。しかし、俺から詳しく説明する気もない。
彼女から発せられる声も、ベビーフェイスであることも、フリルをあしらったその服も。少なからず俺にとって、甘い存在である。
一定の間隔で街灯がぽつりと灯る田舎道で、幼馴染みと二人きりになる。決まって夜中の三時に呼び出されるが、何をしようというのか。
互いの近況を報告するでもなく、世間話もしない。無難と称される天気の話が、幼馴染みの口から出てくる筈もない。俺たちの間にあるのは、むせ返るほど甘ったるい、香水の匂いだけ。
幼馴染みとの時間は、その日のうちに溶けて消える。明日には何も残ってない。その場のノリを楽しみたい幼馴染みは、誰とも深く関わらない。本音を語ることもせず、欲求だけを満たそうとする。
愛されたいという飢えを凌ぐように、飽きることなく男を食い漁る。それが幼馴染みの生き方だ。俺には理解できない。
「呼び出す相手を間違えてないか?」
「そう思うくせに毎回応じるわよね」
事実なので否定はできない。
幼馴染みは親友の彼女で、俺は親友が大切で。でも、今こうして、裏切るようなことをしている。肉体関係を持たなかったらセーフなのか? 夜中の逢瀬を親友に話したことはない。やはり、アウトな気がする。
幼馴染みとの関係がチョコレートのように感じるのは、俺がこの逢瀬を明日に持ち越したくないからだ。親友への後ろめたい気持ちも、何も成さない無意味な時間も、毎回誘いに応じる自分の下心も、捨て去りたい。
どうして俺たちは一途にいられないのだろうか。
帰ろうと思うのだ。静かなる森へ。
都会にいた時間が長すぎたのかもしれない。
雑踏の中は疲れるが、きらびやかな魅力も備わっている。離れようとも簡単にはいかない場所。
私は疲れたのだ。何度声をあげても、人の声で消えてしまう私の思いは、風に吹かれて飛んで行くゴミのように軽く、都会の雑音に溶けて消えた。
静かな森で今一度、自分の鼓動を聞き返さないと、都会ではもう、なにも聞こえない。