あお

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 行きつけの画材屋で筆と絵の具を新調した。一目見た瞬間に惹かれたターコイズを、一刻も早く帆布に広げたい。
 ターコイズといえば、空の青か、海の青か。想像は膨らむばかりだ。
 三種類のターコイズカラーを買った。まず、メインで使いたいターコイズブルー。思いきって空にも海にも使っちゃおう。ターコイズグリーンは海の差し色にして、ライトターコイズは陸地の植物に使ってみるか。
 色々考えているうちに、海を臨む岬が脳内に浮かんだ。
 ちょうど向かいにカフェがある。お茶を飲みながら、ラフを描いてみるのもありだな。スケッチブックは持ち歩いている。
 実際に海に行くのもいい。だが、一人で行くのは躊躇してしまう。海はあの子が好きな場所だから、連れて行けば喜んでくれる。
 うん。海は明日にして、今日はラフだけ描く日にしよう。そうと決まれば、次の目的地は目の前のカフェだ。
 俺が開けるより先に、カフェの扉が開いた。中から出てきたのは、ゆるくウェーブがかかった、長髪の女性。むせ返るほどの甘い香りが、すれ違いざまに鼻を掠めた。
 この匂いには覚えがある。
「待って」
 長髪の女性を呼び止める。振り向く彼女は「げっ」と言いたげな表情を浮かべた。その苦痛に歪む顔に、何も思わないわけではない。怒りを抑えるように、拳を握った。
「あの子はお前の帰りを待ってる」
 いきなり話の核心をついた。彼女は鼻で笑って、言葉を続ける。
「だから?」
「こんなところでフラフラしてないで、帰ってやったらどうだ?」
「嫌よ」
 そう言うことはわかっていた。しかし、消えない疑問がいつまでも俺の胸を漂う。
 まず、どうして結婚したのか。彼女―親友の妻―は、家族を愛していない。親友のことはもちろん、娘であるあの子にさえ、関心がないのだ。
 そして、これが最もな疑問であるが、離婚せずに遊び歩くのは何故か。親友が離婚を切り出せば、不利になるのは彼女だ。離婚を切り出されない自信があるとでも?
「あの子はもう、何もわからない年齢じゃない」
「だからなんなのよ。あんたって、いつも回りくどいわよね」
 彼女は苛立っている。その証拠に、爪と爪を弾いてカチカチと鳴らしている。それは幼少期から変わらない癖だ。幼馴染みとして一緒にいた時間が長い、俺と親友しか知らないこと。
 綺麗に塗られた真っ赤なネイルは、光沢を帯びている。しかし、彼女が怒りに任せて爪をいじることで、少しずつ傷が付いていく。
 ああ、そうか。あの子が赤を嫌っている理由はこれだ。「赤は傷の色」と、ずっと言っていた。その言葉を聞いてから、俺も赤を避けるようになったんだっけ。
 しかし、家族というものは、避けてはならない瞬間がある。それが今だと直感した。唯一赤の他人である俺は、親友家族の絆を繋ぐ役目なのかもしれない。
「お前が家を空ける度、あの子は『行かないで』と願った」
「ふーん。でも、その願いは叶わない。残念ね」
「叶えてやることだって、できるはずだろ」
「私は神様じゃないの。他人の願いを叶えてやる義理なんてないわ」
 俺が彼女に何かを期待するのもおかしな話だ。しかし、幼い頃から共に育ってきた仲でもある。いつだって三人でいたからこそ、見て見ぬふりが難しい。どうしても、お節介になってしまう。
 いや、今は違う。俺がここまで首を突っ込むのは、あの子の笑顔と幸せのため。
「お前はあの子を他人だと思ってるのか?」
「だって、他人でしょ。誰一人として『同じ』ではないのよ。血の繋がりなんて関係ない。あの子は私じゃないし、私もあの子じゃないわ」
 やはり、彼女に何かを期待するなんて、どうかしてるんだ。実の娘でさえ他人と言いきる彼女が、俺や親友を他人以上に見ているわけがない。
 言うだけ無駄。放っておくべき。それが正解なんだろうけど、このままでいいのか?
「だったら、責任はどうなんだ。あの子の母親としての責任は、お前にしかないだろう?」
「ああ、そういうこと。つまり、あんたは離婚しろって言いたいんだ? 責任の所在をハッキリさせたいわけね。ほんっとうに、回りくどい男」
 俺の返事を聞くより先に、彼女はその場を離れた。
 すらりと伸びた美しい足には、エナメル質の真っ赤なハイヒール。コツコツと足音を鳴らして遠ざかる様子を、ただ見ているほかなかった。数分もしないうちに、彼女は雑踏に紛れて消えた。
 責任の所在をハッキリさせるなら、彼女は尚のこと家に帰るべきだ。無責任に放棄しろと言いたかったわけじゃない。俺はまた、あの子や親友が望む未来へ導けなかった。それだけはわかる。
 親友は円満な家庭に強い憧れを抱いている。物心ついた頃から、家族で食卓を囲んだ記憶がないらしい。外から帰ると、テーブルの上に千円札が二枚ほど置いてあった、と。その話を聞いていたから、親友の気持ちにばかり目が行ってしまった。彼女が家を空けたがる理由は、一度だって聞いたことがない。
 俺は親友の家庭に波風を立てたくなかった。まるで、今日買ったターコイズが表すような静けさを、他でもない俺が望んでしまった。
 彼女が家を空ける度に「行かないで」と願ったのは、あの子ではなく俺だ。
 でも、彼女はまた行方をくらましてしまった。

11/3/2025, 4:51:10 PM