あお

Open App

「はぁ」
 親友の娘がため息をついた回数、なんと十三回。思い詰めた表情なのが些か心配である。
 ため息の理由を尋ねるのは簡単だが、相手は女の子だ。相談相手に適した母親は蒸発しているし、聞けば友達はいないと言う。娘の身近にいるのは父親と俺。この環境だからか、自ら打ち明けない選択をしているかもしれない。異性には言えない悩みというやつだろうか?
「はぁ」
 娘はまた深くため息をついた。
「具合悪いの?」
 たまらず聞いてしまった。悩みには直接触れず、端から見て元気がないことを指摘する。多分、上手いやり方だと思う。
「ううん。体は元気だよ」
 つまり、心が不調である、と。単純に捉えればそうなるが、聞いていいのか、これ以上は踏み込むなという合図か。乙女心はいまいちわからない。
「そっか。困ったことがあったら、何でも言ってね」
 子供相手に大人な対応をしたが、これが本当に正解なのか? 子供には子供なりの対応があるはずだ。しかし、それがどんなものか、皆目見当もつかない。
 自分が子供だった頃、俺はどうしていただろう。過去に思いを馳せてみる。
 俺は教室の片隅で絵を描いていた。外で遊ぼうと誘ってくれたのは教員だけ。仲間外れではないが、クラスに馴染めてもいなかった。それでよかったかと言えば、ノーと答える。クラスメイトが楽しそうにサッカーをしている様子を、教室の窓から見下ろしていた。
 羨ましかったのだ。「僕も一緒に遊びたい」と言う勇気はなかったが。
 言いそびれた後悔は大人になった今も残っていて、伝えることを疎かにする恐怖を覚えた。聞かない優しさを、俺はどこかに置き去りにしてきたのかもしれない。
 これは誰にも見せない傷のサンプルのようなもので、謂わば『秘密の標本』とも言える。俺の経験から抽出した一部の教訓。
「……言いたくないなら言わなくてもいいけど、悩んでることある?」
 思いきって娘に問う。
「悩んではない。けど、どうしたらいいかもわからない」
 娘はこちらを見ない。
「解決はしないかもしれないけど、言うだけでも軽くなるかも」
「お母さんがいなくなった日の夢を見るの」
「うん」
「夢の中で、お母さんはいつも楽しそう。お父さんじゃない、知らない男の人と、幸せそうに話してる。だから、わたしは行かないでって言えないの。わたしのわがままが、お母さんの幸せを壊す気がして」
 俺とは真逆の『秘密の標本』を、娘は記憶の中に抱えているようだ。
 娘の母親は、行動の読めない女だった。家を空けると、次にいつ帰るかわからない。子供にとって、それがどれだけ心細いか。あろうことか、周りにいた大人は誰もわかっていなかった。
 もっと娘の気持ちに寄り添いたい。この子の幸せが俺の人生だから。
「夢に見るほどつらかったんだね」
「そうなのかな。自分ではよくわからない」
「防衛反応かもしれないね。考えない方が楽なことってあるし」
「オジサンにはあるの? 考えない方が楽なこと」
「あるよ。たくさん」
「パーっと忘れちゃおうよ。他に楽しいことしてさ」
「楽しいことって?」
「オジサンは外に出た方がいいよ。ずっと家にいるじゃん」
 明るく言う娘は、続けざまにぼそっとこぼす。……お母さんは外に出すぎなんだよ、と。
 やはり、帰ってきてほしいのだろうか。端からは碌でもない女にしか見えないが、それでもこの子の母親だ。
 娘の思いは聞かなかったことにした。その代わりに、聞かない優しさという『秘密の標本』を、俺の心に飾った。

11/2/2025, 4:31:15 PM