式場の下見まで終えたタイミングで、婚約者に逃げられた。まさか、自分がそんな目に遭うとは思わなかった。
婚約者の逃亡から数年経った今も、精神的なことが何も解決していない。
本当は婚約者と暮らすために建てたこの家も、今では親友の娘と暮らす家になっている。一応、親友が帰宅する場所もここのはずだが、彼は滅多に帰らない。
親友家族が元々住んでいた家もあるわけで、そちらに帰るのが普通だ。俺に気を遣って娘だけをこちらに帰してくれるのだろう。娘も心配しているらしく、俺を一人にしたくないと言った。
苦い記憶を封印しておくための箱を用意した。その中に、自分の名前だけが書かれた婚姻届と、婚約者のために選んだ結婚指輪が入っている。ずっと捨てられずにいる物。
箱の鍵は俺が管理している。いつでも開けられる箱に何の意味があるのか。指輪を眺めては落ち込んでしまう日々を想定していたし、実際にその通りなのだ。
親友も妻に逃げられている。俺の気持ちがわからないわけではない。だからなのか、俺の無意味な行為を止めたりしない。ただ、慰めてもくれない。似通った痛みを語らって傷を舐め合う仲でもない。
親友との関係に不満を抱くことはなくても、寂しさを感じずにはいられないのだ。俺たちは幼い頃から言葉足らずの関係である。
今日も箱を開けようとしたが、どうしてなのか、鍵が見当たらない。鍵の保管場所は決まっている。
箱の中身を知っているのは俺と親友のみだが、箱と鍵の存在なら娘も知っている。
親友が持ち出したとは考えにくい。その理由がないからだ。もちろん、娘が持ち出す理由もないが、持ち出さないと言える根拠もない。失くした事実だけは伝えてみようか。何か知っているかもしれない。
思った矢先、ガチャっと扉が開く音が聞こえた。娘が学校から帰宅したのだろう。もう、そんな時間なのか。
「おかえり」
「ただいま」
娘は普段通りの態度で俺の横を通り過ぎる。根拠なく疑うのは心苦しいが、この娘は空気を読みすぎるところがある。女の勘というやつも鋭い。俺が今、何を考えているかも、読まれている可能性がある。手強い相手だが、俺だって娘の弱点を把握している。
「聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「うん」
「箱の鍵を失くしてしまってね。どこかで見かけなかった?」
「し、知らない!」
娘は慌てた様子で部屋に入っていく。真っ黒だと自白しているようなものだ。俺は箱を手に持ったまま、追うように部屋に入った。娘は何やらベッドの下を漁っている。そこに鍵を隠していたのか?
「何をしているのかな?」
娘の体からビクッと跳ねる。そのまま硬直してしまった。頭隠して尻隠さずとは、まさにこの事。
「オジサンは鍵についてちゃんと話がしたい。君はどうかな?」
娘は声を震わせながら、しかし、ハッキリと言った。
「鍵なんてない方がいいんだよ」
「どうして?」
「箱があるとオジサンが悲しそうな顔をするから。箱が開かなくなれば、見ることもなくなるでしょ」
俺が箱を開くのは、娘が学校に行っている間と、寝静まった真夜中だけだ。大丈夫だと過信して、リビングで箱を開けていたが、真夜中なら見られる可能性は大いにある。
娘が鍵を隠したくなるほど、俺は悲しそうな顔をしていたのか。確かに、中身は決して気分を高めるものではない。
「君の言い分だと、箱を捨てるのが妥当じゃないか?」
純粋な疑問だ。鍵を隠しても、悲しみを絶つことにはならない。箱を壊せば中の物は取り出せる。
「お父さんが言ってた。箱の中にはオジサンの心の傷が入ってるって。でも、それって、ちょっと違うと思う。傷ついた心が入ってるんだよね? オジサンの心を、わたしが勝手に捨てるなんてできないよ」
親友が自ら箱の話をするとは思えない。娘から詮索していたのか。明らかに怪しい箱があれば、気になるだろう。普段は鍵と箱がリビングに揃って置いてあるし、いつでも開けられる。
「中を見たの?」
「見てないよ。でも、大切なものだって、わかる。見たら悲しくなるのに、毎日眺めてるから」
親友とは違って、娘は俺の傷を舐めようとする。それはまるで、動物が本能的に傷口を舐めるかのように。
この子は誰に似たんだろうか。親友でも、俺でもない。もちろん、この子の母親でもない。誰にも似てないのは、環境がそうさせているからだ。俺たちはこの子に、たくさんの気遣いを強いている。
「よかったら、一緒に中の物を見てくれないか」
数分の沈黙のあと、娘がベッドの下から出てきて、鍵を俺に手渡した。受け取って箱を開ける。
娘は婚姻届をじっと見ている。眉間にシワを寄せて。
「結婚したいくらい好きな人がいたんだね」
「好きではなかった」
口に出して改めて実感する。好きではなかったし、嫌いでもなかった。相手にも結婚にも、関心がなかったのだ。親に孫が見たいと言われたから、目標が『孫』に設定されただけ。俺と年が近い相手も、同じく孫をせがまれていたらしい。俺たちの付き合いは愛や恋ではなく、利害の一致でしかなかった。相手は俺じゃ嫌だから、最終的に逃げる選択をしたのだろうけど。
そんな話を娘にする必要はない。だが、これだけは伝えておきたかった。相手を愛していたわけじゃない。
俺が愛しているのは君だけだよ。と、言えたらもっと良かったのだが、親友の娘に手を出すほど愚かでもない。
君が隠した鍵は、本当にない方がよかったのだろうか。傷ついた心の奥で新たに生まれた愛情は、やはり隠しておくべきだろう。
11/24/2025, 9:07:33 PM