あいまいな空
今日の天気は曇り。
事務所の窓の向こうには、出荷前の真新しい車、お仕事中のカラーコーン、風になびかれた雑草がいつもと変わらずそこにいる。
配属されたとき、迷わず窓辺の席を選んだ。
自分自身に期待と足枷の意味を込めて。
外に出なけりゃ、霧雨が降っていることも気づけない。眼鏡をかけてなきゃ、水滴で視界が不良になることにも気づけない。
右耳からはラジオ、左耳にはパソコンの音声をのせて、1日は過ぎていく。
仕事をしているのかと言われれば、うーんと唸り、サボっているのかと言われれば、それもうーんと唸らざるを得ない。
とてもあいまいな1日だ。
そして明日は海に行く。
清掃だろうが、死ぬためだろうが、海に帰りたいとさえ思う。
海から出てきたわけでもないのに。
-バタン。
母さんが怒って家を出ていった。
いつものことだ。姉ちゃんと言い争いになり、賢い姉ちゃんに言いくるめられ、母さんの立場がなくなり、家を出ていく。
出ていくと言っても、朝になったら普通に仕事へ行くし、気が向いたら帰ってくる。
僕は知っている、数年前から父さんが2駅先にアパートを借り、秘密基地を作っていることを。
だから、今日もそこへ行き、父さんと2人で過ごしているのだろう。
夫婦のあり方として素敵だとは思うが、子どもの僕からしたら仲間に入れてくれとも思う。
静かになったリビングへ行くと、ケロッとした姉ちゃんがクッキーを頬張っていた。
「あんたも食べぇ。」
姉ちゃんがクッキーを差し出してくれる。
差し出してくれるどころか、顎に手を添え、咀嚼まで促してくれる。やりすぎではなかろうか。
「もうちょい母さんに優しくしてあげてよ。」
「なんでよぉ、子どもが永遠に子どもで入れる相手は親しかいないのに。」
「姉ちゃん、変わったよ。」
「変わらずにいられるもんですか。」
「そうじゃなくて、幼くなったよ。」
「そりゃあ、進化も退化もできるように備わってるんだろうよ、人間には。」
そういうものなのかと、僕は考えるのをやめた。
姉ちゃんは、すくっと僕の前まで立ち上がり、額を指で押す。
「これでは立ち上がれるまい。」
僕は立とうとするが、その通り、立ち上がることはできない。
姉ちゃんは、僕に抱きつくように座り、背中をさすってきた。
「希望の国のエクソダス、私は憧れるよ。」
そうだね、僕もいつか自分の居場所がほしいもんだ。
何をしても怒られない、自分だけが知っている世界。
いつか姉ちゃんと、子どものように、バカみたい、純粋に生きてみたいとさえ思う。
なにか足りないわけではなく、いつも満足しないということは、これほどまでに辛いことなのかと思い、グッと姉ちゃんを抱きしめてみる。
いつも心が枯渇していると表現できるのは、もう少し後になってからだった。
「不条理」だと感じることがある。
「なんで姉ちゃんが。」
「どうしてこんな思いをしてまで。」
僕は知らないフリをする。
そうしていれば、姉ちゃんはずっと笑っていてくれるもんだと思って。
そう願って。
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姉ちゃんと弟シリーズ、大変にお久しぶりです。
卒業、就職を控えた者でございます。
自由な姉ちゃん、それを思う弟を描けたらと思っています。
男の子は学校で怒られる、ヤンチャな子が多いですが、女の子は大人になってから慎ましくヤンチャな子が多いのかもしれないと考えたことがあります。
ふと、弟には姉ちゃんがどう映っているのだろうと考えます。
不定期で作品を作りますが、見てくださると嬉しい限りです。
僕は今、数学の問題と戦っている。
受験に数学は必須。だけれど、びっくりするほどできない数学。
姉ちゃんは昔、中学入ってからコツコツやらないとできなくなってしまうと言っていた。だから、今からコツコツ、と。
うんうん唸っていると、姉ちゃんが僕の背中にもたれかかり、ハグをしてきた。
「困ってしまった弟を見て、あねさんは何を思うだろうか。」
「…なんだよう。」
「いい?想像してみんしゃい。いま私が服を着ていないとして、生のおっぱいがあんたの背中に当たっているとする。」
「生のおっぱいって、やめてくれ。」
「それどころじゃなかろう。」
言わずもがな、かまってほしいのである。
「服は着ているんだね?」
「自分で確認してみてござれ。」
「着てないとかやめてよね。」
「どうでしょうなぁ。」
姉ちゃんは、僕の目元を手で隠す。
なんだか、変なことをされている気分だ。
抵抗せずにボーっとしていると、姉ちゃんはつまらなそうに僕の頭をはたく。
明るくなって姉ちゃんを見ると、よかった、服を着ている。
僕の深緑色のTシャツをダボダボにして着ている。
いや、服に着せられているのだ。
「…姉ちゃんは、どうして医学部を選んだの?」
「人間の中身に興味を持ったから。」
順調に大学へ通っていたと思っていた。
将来は医者になると思っていた。
両親も、娘が国立大学医学部へ進学して、鼻高々だったであろう。
しかし、5年生の途中で中退し、実家へ舞い戻ってきた。
なんで、どうして、聞きたいことはたくさんある。
布団の中で、僕の胸を求めてまで、毎晩泣いているのはどうして。
「お菓子でも食べましょうよ。」
僕の顔をベタベタと触り始める。
「…あぁい!もう!わかったよ!」
僕の手を引き、意気揚々とリビングへ歩き出す姉ちゃん。
ダボダボのシャツの隙間から見えた姉ちゃんの身体は、赤く痛々しい切り裂き傷でいっぱいだった。
明け方。空がちょっと明るくなっていた。
隣にはコテンと眠っている姉ちゃん。
僕の掛布団を剥ぎ取って、鼻までおおって眠っている。
寝る間際、トントンしてほしいという姉ちゃんを子どものようにあやし、気づいたら僕も寝ている。
進学して、退学して、帰ってくるまでの4年間で姉ちゃんは、えらく幼くなった気がした。
10歳年下の僕に子どものように甘える姿は、愛おしくも、どこか不安を感じさせる。
寝返りを打って、僕の背中に手を回し、抱きついてくる。ギョッとする僕は恐る恐る、
「起きてる…?」
声をかける。
一瞬、怪訝そうな表情をしていたが、起きはしない。
もうすぐ朝が来る。
起きたらきっと姉ちゃんは、いつものように明るく振る舞う。
僕はなんて声をかけようか。