「こんな俺で、ごめんね。」
そう言い私を抱きしめた彼からは、煙の香りがした。
「ちょっと、出掛けてくるね。」
そう言った彼は、普段よりも上等な服に身を包み、花束を持っていた。何処に行くのかも、誰と会うのかも知っている。でも、それをいちいち聞く気はない。彼が誰かと会うよりも、面倒くさい女と思われる方が、よっぽど嫌だ。
「いってらっしゃい。気をつけてね。」
だから、笑うだけ。そうすれば、彼との甘い時間は続いていく。なんて幸せなのだろうか。
彼が花束を持っていた出掛けた先は、墓地だ。しかも、彼の元カノの。彼女は、交通事故に遭って他界したらしい。彼にとっては生きがいだった彼女の死後、彼は抜け殻のようだった。そんな時に、私と彼は出会った。話しかけてきたのは彼の方。どうやら、私の容姿が元カノに似ていたらしい。不名誉な出会いだった。しかし、私は次第に彼に惹かれていった。告白をしたのは私の方。私と付き合う事で彼を苦しめるかもしれない、それでも私は彼との時間を諦めきれなかった。優しい彼は、告白を受け入れてくれた。
「君がいるのに、最低だよね。こんな俺で、ごめんね。」
彼はそう言って、私を抱きしめた。彼からは、線香の香りがした。安心する香り、なんて言ったら不躾だろうか。
「君は何処にも行かないでね。」
彼は泣いていた。そんな彼を愛らしいと思ってしまう。
「何処にも行かないよ。君がここにいる限り。」
私のその言葉を聞いて、彼はようやく笑った。
彼と元カノの甘い思い出を塗り潰す私は、どこまでも最悪な悪女なのだろうか。彼を苦しめているのに、彼との甘い時間を求める私は、どこまでも強欲な悪魔なのだろうか。
「…もう朝か。」
いつからだろう。朝を憎むようになったのは。
『これからも一緒だよ。約束ね。』
小さな女の子が、こちらを見て笑いかけた。そのうち、視界は暗くなり、次第に意識が覚める。
「…またこの夢か。」
寝起きの掠れた声が、俺以外誰も居ない部屋に漂う。今日も外は快晴だ。俺は必然的に外を睨んだ。あぁ、世界は今日も回っている。
俺は中学に上がってすぐ、事故に遭ったらしい。そのせいで俺は、全ての記憶を忘れてしまった。所謂、記憶喪失というやつだ。俺の中には、何かが消えたような消失感だけが残っていた。そんな自分を見失った時期だ。俺があの夢を見始めたのは。不思議な夢だ。何も覚えていないのに、懐かしさで涙を流した日もあった。きっと、それだけ大切な記憶なのだろう。…もう俺には何も分からないけど。
朝は嫌いだ。夢から覚めてしまうから。現実を思い出させるから。世界が始まるから。
夜は好きだ。夢を見れるから。現実を忘れられるから。世界が終わるから。
『ごめんね。』
夢が始まる。しかし、今日はいつもと違う。小さな女の子は、中学生くらいに成長していた。そして、泣いていた。
「何で泣いてるの?」
俺は堪らず、彼女に聞いた。
『私のせいで、君は事故に遭ったから。』
「それって、どういう事?」
『数年前の今日、私が通行車両を見ずに道路を渡ったのを、君は庇って車に轢かれたんだよ。』
そうだ。俺は彼女を守ったんだ。
『私のせいなのに、私は君の傍に居る事も出来ずに逃げたんだよ。最低だよね。』
「最低じゃない!俺は君を守れて良かったよ。」
だって、君が好きだったから。あぁ、全て思い出せたよ。君のおかげだね。
『…約束をしたのも私からなのに、守れなかった。』
「一緒にはいられなかった。でも、君は会いに来てくれた。それだけで、良いんだよ。」
彼女は少し頬を赤らませた。そして、嬉しそうに涙を流した。
『私はこれからも、君だけが好き。好きなんです。』
「俺もだよ。記憶が消えても、この思いは忘れない。」
二人で泣いた。しかし、俺達は笑っていた。
「…もう朝だ。」
夜が明ける。世界が回る。現実はそんなに良いものじゃない。でも、君がどこかで俺を見守っている世界なら、ずっと続けば良いと願っしまう。
「君は恋したい?愛したい?」
これは、愛に恋した僕と恋を愛した君の話だ。
「恋と愛の違いって何だと思う?」
もう高校三年生なのに、彼女はまだ少女のような事を言っていた。
「恋とは、愛情を寄せる事。愛とは、大事なものとして慕う事。」
僕は辞書をめくりながら、そう答えた。しかし、彼女は僕の回答が気に食わないようだった。
「そういうのじゃなくて!気持ち面の話だよ!」
本当に少女だ。気持ちなんて目に見えないものに夢焦がれているのだろうか。
「じゃあさ。君は恋したい?愛したい?」
「どちらかなら、恋したいかな。君は?」
「私は愛したいなぁ。だって、愛情を寄せるよりも、慕う方がロマンチックだもん。」
彼女は笑った。それだけで僕の心は掻き乱される。
「…君は愛みたいだね。皆を慕って、皆から慕われて。」
「何それ。じゃあ君は、恋だね。好きな事だけに愛情を注いでさ。」
悪戯っぽく言う彼女。だから僕もからかうように言ってやったんだ。
「君に恋をしたって言ったら、〝こっちに恋〟って言ったら、どうする?」
「私が愛した君のままで〝愛にきて〟、って言うよ。」
あぁ、本当に僕は君が好きなんだね。
これは、愛に恋した僕と恋を愛した君が恋愛をする話だ。
『待ってるよ。』
毎晩聴こえるささやきに、私は堕ちていく。
「本当に鈍い子。皆に置いていかれるわよ。」
幼い頃から散々聞いていた言葉。私は頭の回転も、行動するのも、字を書くのでさえも遅かった。どんなに頑張っても、どんなに先回りしようとしても、空回りして終わった。余計な事を増やすくらいなら、何もしないほうが良い。でも、何もしなければ怠惰だと叱られる。
「…疲れた。」
気付けば、そう呟く日々になっていた。
最近、変な声が聴こえる。夜な夜な宿題に取り掛かっている時の事だった。
『まだ起きてるの?』
初めて聴こえたものはそんな言葉だった。初めの頃は無視していたが、近頃は会話をするようになっていた。
『今日も夜遅くまで偉いね。』
「夜中までやらないと、皆に置いていかれるからね。」
『そっか。』
少し言葉を交わすだけの会話の終わりに、彼を決まって『無理しないでね。』と告げた。
『あれ?今日は勉強してないね。』
「うん。もう必要ないから。」
『そっか。とうとう限界が来ちゃったんだね。』
「限界は元々来てたんだと思うよ。」
『無理しないでって言ったのに。』
「…ねぇ、何で君は私に優しくしてくれたの?」
『君が僕の生前に似てたからかな。』
「君も同じ様に悩んでいたんだね。気付かなかったよ。」
『まぁ、僕はもう終わった事だから。』
「…私が死んでも、君と会えるかな?」
言葉が止まる、終わりを告げるように。でも寂しくはなかった。
『待ってるよ。君と話すために。』
彼の言葉に私は身を委ねた。不思議だね。死ぬ瞬間って宇宙空間に似てる気がする。
「残念ながら、ドナーが見つかりませんでした。」
その言葉は、私の余生を決めるものだった。
「じゃあ、君はドナーが居ないと死んじゃうんだ。」
彼はそっかそっか、と呟いた。せっかく初恋の彼と付き合えたのに、癌が見つかるなんて。
「最悪だよね。」
思わず、そう口にしていた。そんな私を、彼は微笑みながら見つめていた。
「君は悪くないよ。」
「でも、私には臓器が必要で、それは誰かの不幸を願う事なんだよ。そんなの、残酷だよ。」
「…僕なら、君に臓器を使って貰えるなら幸せだよ。」
「そんな、悲しい事言わないでよ。」
彼は不敵な笑みを溢した。
「そうだ。僕、旅行に行く予定が入ってね。少しの間、病室に顔を出せないと思う。」
「そっか。楽しんで来てね。」
「うん。お土産待っててね。」
数日後、急遽手術の予定が入った。どうやら、ドナーが見つかったらしい。私はすぐに彼に連絡をしたが、彼から返信は来なかった。数日後の手術は、成功した。
「貴方宛の手紙です。」
看護師から渡された一通の手紙。私は嫌な予感がしたまま、手紙を読み始めた。
【拝啓、愛しの君へ。これを読んでいるという事は、手術は成功したようだね。君に癌が見つかった時、僕は心に決めました。僕の臓器は君だけに捧げると。しかし、只捧げるだけでは、君がこの事を知った時病んでしまう。なので、君には僕の記憶と共に生きて欲しい。そして、僕の分まで笑って欲しい。それが、僕の臓器との交換条件です。
これからも、君を愛しているよ。】
涙が止まらなかった。私はもっと彼を知るべきだった。彼は私に隠れて、臓器の適応検査をしていたなんて、自分事しか頭になかった私には思いもよらなかった。
「こんなお土産、待ってないよ。」
暫くして、私は退院した。横に彼は居ない。でも、もう泣くのは止めた。今日からは、彼の記憶と生きよう。
「まずは、私達の出会いの場所に行こうか。」