『ねぇ、教えてよ。』
そう言った彼女の目には、絶望が映っていた。
『元気してた?もうすっかり大人だね。』
死んだはずの彼女が、俺の前に現れた。そして、何事も無かったように、笑っていた。
「夢、?」
『違うよ。現実だよ。』
嘘だろ。夢であってくれよ。まぁ、夢であってもこんな悪夢、最悪だけど。
彼女は、高校の秋頃。自室で首を吊って死んだ。理由は、詳しくは分からない。只分かるのは、彼女は生前虐めを受けていた事だけ。あれから数年は経った今、昔と変わらぬ姿の彼女。それは美しくもあり、恐ろしくもあった。そして、確信した。彼女は今、過去に囚われているのだと。
「何でここに?」
『質問しに来たんだよ。大人になった君に。』
彼女は、真剣な表情になった。
『形のないものに、価値ってあるの?』
「どういう事?」
『学校とかってさ、思いやりの心を大事にしろって言うじゃん。でもさ、目に見えない、形のないそれをどうしたら良いのかなって。』
数年ぶりに会ったと思ったら、そんな事か。でもきっとこれは、彼女が受けた虐めと関わっているのだろう。
『ねぇ、教えてよ。』
「価値なんてない。0が何をしても0のように、ないものは何しても変わらない。」
『じゃあ、学校はそんな綺麗事ばっか教えてくるの?』
「それはないとしても、価値を見出して欲しいからだ。」
彼女の目に、少しの光が宿る。
『そんなの時間の無駄じゃん。』
「でも人生は無駄を生きるために存在しているから。」
彼女は泣いていた。そこには、開放されたような笑顔が見えた。
『そういうの、生きている私に言って欲しかったよ。』
「僕は、弱かったんだ。」
彼はそう泣いたまま、私の前から消えた。
「静かだな…。」
私だけしか居ないリビング。数日前まではここに、おしゃべりな彼の言葉が響いていたのに。今はそんなものはなく、虚空が住み着いている。
彼は映画監督だった。たくさんの作品を、たくさんの人に観てもらう事を、誰よりも望んでいた。しかし、彼は称えられる度に、プレッシャーを抱え続けた。そして、とうとう耐え切れずに自殺した。彼は最後まで、自分を責め続けていた。
「助けられなくて、ごめんね。」
私はいつも、彼の写真に手を合わせた。でもきっと、こんな行動も私のエゴでしかないんだ。少しでも心を軽くしたいだけの、薄っぺらいものなんだ。
【僕は君のお陰で、夢を掴めた。君は僕の太陽で、僕は月だ。月はいつだって、太陽を追いかけ回す存在。それでも、君は僕に振り向いてくれた。ありがとう。
ずっと傍に居れなくて、ごめんね。】
彼からの手紙を見つけた時は、驚いた。そして涙を流した。私は、彼の為に生きれたんだって。彼に愛されていたんだって。只泣いたんだ。
『大丈夫だよ。見守ってるからね。』
そう彼の声が聞こえた気がした。
「宝物、か。」
今の俺は、何が大事なのだろう。
「貴方は本当に、泣き虫ね。」
昔から母は呆れながら、俺に言った。事あるごとに泣き出す俺は、母を困らせてばかりだったと思う。今でも泣く事はある。でもそれは、家族の居ない所でだけだ。だって、家族の前で泣いてしまうと、自分の無能さを痛感してしまうから。
「君は本当に、真面目で良い子だね。」
昔から学校では、良い子を演じた。教師に歯向かわず、只静かに話を聞く。そんな都合の良い子をだ。しかし、よく考えてしまう。こんな偽りだらけの自分は、醜悪だと。それでも演じる。だって、自分の本心を曝け出して、否定されたら立ち直れなくなるから。
宝物、大事にしたいもの、大事にしないといけないもの。そんなの今の俺には、ない。でも、少しだけ思ってしまう。泣き虫な自分、弱虫な自分、嘘つきな自分。そんな人間の悪い所を集めた様な俺を、誰でもいいから大事にして欲しい。愛して欲しい。でも、そんな都合の良い話がある訳もなく。只、いつものように、大丈夫なように、見栄を張る。
きっと大事なものなんて、この世にない。それでも良い。虚像に侵っても良いだろ。それは俺が俺自身を、大事にするのに必要ならば、俺は虚像を大事にしたい。
「大丈夫だよ。」
彼が言う。私は只、残酷なまでに笑っていた。
「大丈夫だよ。」
私の幼馴染の彼は、昔から私に言い聞かせるように言った。私が転けて泣いている時も、先生に怒られた時も、優しくそう言った。その言葉はまるで、魔法のようだった。彼が言うと、全部どうって事のない気がしたんだ。
「魔法使いみたいだね!」
私が興奮混じりで言うと、彼は少し悲しそうな顔をした。しかし、すぐに笑顔に戻った。そしていつも通り言った。
「君が笑ってくれて、良かったよ。」
その笑顔に、心臓が高鳴る。私は彼に恋をしているから。
高校三年生の夏夜。彼から呼び出しのメールが来た。私はすぐに、目的地に向かった。そこは私達が住んでいるマンションの屋上だった。
「急に呼び出してごめんね。」
「別に良いよ。起きてたし。」
夜だからだろうか。彼が何だか弱々しく見えた。しかし、暗くて表情は見えなかった。
「見て。綺麗な夜景じゃない?」
彼は屋上の端へと私を誘う。私は足元に注意しながら、彼の横に行った。
「綺麗…。」
言葉が漏れる程に、綺麗な夜景が目に映った。
「でしょ。最近のお気に入りなんだ。」
彼が嬉しそうに言う。しかし、やはり弱々しく感じた。
「ねぇ、何かあったの?」
私がそう聞いた瞬間。世界が少しだけ明るくなった。そして私の目には、涙を浮かべた彼が映った。
「何でだろうね。君にはバレちゃうんだろう。」
彼は、震えていた。そして、徐ろに、フェンスの先へと向かった。その時、悟った。彼は自ら命を絶つのだと。しかし私は止める事が出来なかった。なぜだか、止めたら駄目な気がした。
「僕の世界は真っ暗だ。僕はそれが怖かったんだ。」
そう言う彼の目には、もう涙は無かった。彼はゆっくりと、飛び降りた。
彼が死んだ日から、私は後悔に埋もれていた。あの時、止めれば良かった。もっと早く、気づいていれば良かった。色んな感情に押し潰された。でも、心の底ではこれで良かったんだって思ってしまっている。
「君の〝大丈夫〟は、自分に向けてだったの?」
答えは分からない。でもきっと、そうなんだ。そうならさ、私にも〝大丈夫〟って言わせて欲しかったよ。
「私にとって君は、光だったよ。でも君にとって私は、君を苦しめる世界の一部だったんでしょ?」
あぁ、傍に居たくなかったんなら、さっさと離れてよ。期待しちゃうじゃん。
「お前は、何がしたいんだよ。」
したい事、か。僕は只ーー。
「お前は、不要な人間なんだよ。」
幼い頃から言われ続けた言葉。この言葉を初めて言われた時、僕は只泣いていた。悲しくてではなく、嬉しくて泣いたんだ。死ぬ理由ができたって。頑張らなくたって良いんだって。でも、そんな僕に全力で、生きろって叫んだ人が居た。
彼との出会いは、学校の屋上での事だった。立入禁止のその場所は、僕のお気に入りだった。そこから見える景色は、世界を美しく加工してくれた。
「おい、お前。鍵を職員室から盗んだだろ。」
いつも通り、屋上から景色を見ていると、僕に向かって乱暴に言葉が放たれた。振り向くと、そこには無愛想な顔が見えた。僕は彼を知っている。
「やぁ、委員長。今日も正義の鉄拳を振り回してるの?」
彼は僕のクラスの学級委員長だ。言葉遣いは荒いが、正義感が強い。どうせ、鍵を勝手に持ち出した事を説教されるんだろうなー。僕は少し嫌気が差した。
「危ねぇだろうが。」
しかし、彼が放った言葉は、僕の想像の斜め上をいった。
「相変わらず、委員長は面白いね。」
「は?どういう意味だよ。」
彼は少し呆れながら、溜め息をついた。
「普通は鍵を返せって、言うんじゃないの?」
「んな事言わねぇよ。ここはお前のお気に入りだろ。」
「優しいね。」
「だがな。危ねぇようなら、ぶん殴るからな。」
彼は拳の骨を軽く鳴らした。よくこんな凶暴な人が、学級委員長やってるよな一。
「もう、暗くなるから帰れよ。」
彼はそう言って、屋上から姿を消した。
「おい、何してんだよ!死ぬぞ!」
「うん。知ってるよ。死のうとしてるんだから。」
「なんで、んな事。」
「死にたいからに決まってんじゃん。」
「なんでだよ。お前は、何がしたいんだよ。」
「何もしたくない。只、生きていたくはないんだ。」
「ふざけんな!」
「ふざけてない。でもまぁ、委員長には分からないよ。」
「あぁ、分かんねぇよ。でも、生きてくれよ!」
「そんな無責任な事、簡単に言うな!」
「言うに決まってる。俺は、お前に生きて欲しいから。」
「僕は只、命が燃え尽きる時まで、生に抗いたい。」
「なら俺は、お前が生を受け入れるまで、死を拒む。」
「なんで、そこまでするの?」
「俺は、お前の友達だから。」
あの日、僕は死ぬ事は出来なかった。でも、彼に一回止められたからって自殺を辞めるぐらいだ。きっと僕は何回やっても死ねなかった。それでも、生きていたくない。この気持ちは変わらない。僕は命が燃え尽きるまで、生に抗う。それだけが、僕を形作ってるから。