あー、お腹痛い……。
目を閉じてじっと我慢していると、旦那が声をかけてきた。
「おーい薫ー。ユンケルどこー?」
自分で取れよ。あんたの方が背が高いじゃねーか!
…という言葉をぎりぎり飲み込んで
「救急箱の中に入ってるー!いちばん上の左から二番目の棚ー!」
と声を張り上げた。
私は取りませんよという含みをこめた、最大限の文学的抵抗を試みた。
「おーサンキュー」
どうやら通じたようだった。ガサゴソとあさっているような音がしたので、
ちゃんと元に戻せよ!
…という言葉をぎりぎり飲み込んでいると、背後から「はい」と声が近くなった。
振り返ると、そこにはプリンと、バファリンと、伊右衛門があった。
「薬飲んだのか?」
と旦那が澄ましたような顔で言った。
――あれ、なんで救急箱どこ?じゃなくて、ユンケルどこって聴いたんだろう?
…少しお腹の痛みが和らいだ。
腹が立ったら酒に限る。
腰を下ろした雰囲気のいいバーのカウンターで私は注文した。
「おすすめください!」
「色々揃えてますよ。ブラッディーメアリー、オールドファッションド、モスコミュール…それから」
「モスコミュールで」
カクテルは詳しくないのだ。知っているカクテルを注文した。
「かしこまりました。」
砂時計形をした銀製のメジャーカップに、
赤字で「VODKA」と書かれたお酒を、氷の入った細い円柱型のグラスに注いでいる。
鮮やかな緑色のライムをくし形にカットして絞り、グラスの淵に回転させて滑らせていた。
緑色のビンに入ったウィルキンソンのジンジャエールを、こぼれないように銀製のマドラーの背で伝わせながら注ぎ入れた。スポットライトの真下でジンジャエールがきらきらと輝き、グラスに入っていく。バーテンダーは混ぜたお酒を手の甲につけて味見をした。
「どうぞ」
「わっすご」
光るコースターだ。下から放たれた光でモスコミュールが黄金色から虹色になった。
「カクテル占いをしますか?」
バーテンダーが言った。
「花言葉があるようにカクテルにもカクテル言葉というものがあるんです。ちなみにブラッディーメアリーが『断固として勝つ』オールドファッションドは『我が道を行く』です」
「モ、モスコミュールは?」
「『仲直りをしましょう』」
バーテンダーは眉を上にあげた。
私はポケットからスマートフォンを取り出した。
JR舞浜駅は楽園がもれ出ている。
「あ、充電器忘れた!ねぇ、薫、充電器持ってる?」
顔と同じくらい大きい耳をつけた美希がぐっと近づいて私のかばんをのぞきこんできた。
「も……持ってる、持ってるよ!近いし、声でかいし、しゃべるの早い」
「だってさあ、充電器なかったら最悪じゃん?もう今の時点で60パー」
「近いって!めっちゃテンション高いじゃん。あんたの鼻にプラグ差したら充電できそう」
「何、クールな振りしてるのよ!あなただって内心踊ってるくせに」
確かに美希の言うとおりだった。私だけではない。
赤い車両、黄色い声、軽い足元、
入りきらなかった楽園が、入り口を超えて駅までにじみ出ていた。
風船を持った美希と私の影は耳が全部で六個ある。
「やあ、ボク美っ希ー。よろしくね」
「はいはい、わかった」
さあ、行こう楽園へ―
目には青葉 山ほととぎす 初鰹
(めにはあおば やまほととぎす はつがつお)
山口素堂(やまぐち そどう)
この句は、江戸の人々が
「初夏(五月)に最も価値がある」
と考えていた三つの要素を贅沢に盛り込んでいます。
目には青葉〈視覚〉
目にまぶしい新緑の美しさ。
山ほととぎす〈聴覚〉
風に乗って聞こえてくる、ほととぎすの鋭くも爽やかな鳴き声。
初鰹〈味覚〉
当時の江戸っ子が「女房を質に入れてでも食え」と言ったほどの人気食材。
これら三つを並べることで、
**「五月の爽やかな風が、季節の恵みを一気に運んできた」**
という勢いと喜びを表現しています。
この句に「風」という言葉は使われていませんが、実は五月の風そのものを詠んでいると言われています。
五月の薫風(くんぷう)が、山の瑞々しさと、空の声と、海の幸を同時に連れてきた!
という、非常にテンポの良い「風の勢い」を感じさせる句なのです。
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へー。調べると面白い解説だった。なるほどと了解したあと、ふと疑問に思った。そどうさんが今生きてたらどんな句を詠むんだろう。
視覚、聴覚、味覚の象徴が、季節の風に乗ってやってくる。
視覚はー、
潮干狩りとかこいのぼり、五月晴れとかいいかも。でも今っぽさも欲しいよな。
目には青葉だからー、手にはスマホとか?
聴覚はー、七音じゃなきゃいけないから
波のさざめき、園児の笑い、花火の遠鳴り、とかもきれい。うわさ話と、とかちょっと意味深い?
しずけさや、みたいに逆いってみる?ノイズキャンセルとか。
味覚はー
初がつお……初がつお……さくらんぼ、ピスタチオ、初ガスト?躍り食い。
とかかなあ。
「ねーあなたー」
「なんだよ」
彼がめんどくさそうに返事する。
「あなたならどう詠む?」
刹那と聞いて最初に浮かんだのは、ある瞬間に周りがスローになるという現象でした。
調べたらこのことをタキサイキア現象と言うそうです。
※
タキサイキア現象(Tachypsychia)は、極限の緊張状態で、周囲の景色がスローモーションのように感じられる心理現象です。
強い情動によって脳の情報処理能力が「ターボモード」のように一時的に高まり、視覚の時間精度が約10%向上することで、脳内で詳細かつスローに処理される仕組みです。
※
だそうです。なので私が実際に体験したタキサイキア現象の話をしたいと思います。
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私が彼と付き合いはじめてから一ヶ月くらい経った頃の話です。
週末の夜、私の運転で彼を助手席に乗せて国道を走らせていました。
私はハンドルの上部をハの字に握り、前を走る車のブレーキランプを眺めていました。
車内には、微かな低音が響くジャズが流れ、少し開いた窓から心地よい夜風が入ってきています。
すると、彼が私の名前を呼んで言いました。
「ねえ、ストップ、ストップ」
何事かと思い、アクセルを離してブレーキを踏んだその瞬間、それは訪れました。
助手席に座っていた彼が急に私に近づいてきたのです。
視界の端に入ってきた彼の顔は、まるで4Kの超高解像度映像のようでした。
スピーカーから流れていた音楽が、引き伸ばされたテープのように不自然に低く歪み、やがて完全な静寂になりました。
左目の視界を覆う輪郭の影、乾燥して少しだけ荒れた表面の質感、そして微かに開いた口元から漏れる熱、すべてを克明に感じました。
次の瞬間、頬に柔らかい感触と、
彼独特のアーモンドの香りが弾けました。
信号待ちでもない、走行中のあまりに唐突なキス。
彼が身を寄せた瞬間、車内の芳香剤の香りを突き抜けて、彼自身の匂いが鼻腔を抜けました。
洗いたてのシャツのかおりと首筋の匂い。そして、唇が触れた瞬間の感触——。
柔らかく、そして生きている熱を持っていました。
私の心は、驚きを通り越して、凪いだ海のように静まり返っていました。
ハンドルを握る指先にはまだ微かな震えが残り、手のひらは、彼の体温を覚えたまま汗ばんでいます。
自分の心臓が「ドクン、ドクン」と、信じられないほどゆっくり、力強く脈打つ音です。
彼のまつ毛の震え、驚かせたことを楽しむように声をかけてきました。
「……びっくりした?」
彼の声が聞こえた瞬間、魔法が解けました。
消えていた走る車の音がゴォッと一気に通り過ぎ、車内のジャズが再び流れました。
世界はスピードを取り戻しました。
実際には一秒にも満たない出来事だったはずなのに、私の中では数分間のドラマが完結したかのような疲労感と高揚感が残っていました。
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以上です。これは実際に私が体験した話ですが、要するになにが言いたかったのかというと、タキサイキア現象は文章と相性がいいということです。
一瞬の出来事を言葉を費やして描写すると、言葉の数だけ解像度があがり、しかも読むのに時間がかかるため、読み味がタキサイキア現象に近くなるような気がするのです。
成功したかどうかは分かりませんが楽しんでくれたことを祈ります。