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刹那と聞いて最初に浮かんだのは、ある瞬間に周りがスローになるという現象でした。
 調べたらこのことをタキサイキア現象と言うそうです。

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タキサイキア現象(Tachypsychia)は、極限の緊張状態で、周囲の景色がスローモーションのように感じられる心理現象です。
強い情動によって脳の情報処理能力が「ターボモード」のように一時的に高まり、視覚の時間精度が約10%向上することで、脳内で詳細かつスローに処理される仕組みです。
        
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 だそうです。なので私が実際に体験したタキサイキア現象の話をしたいと思います。 



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私が彼と付き合いはじめてから一ヶ月くらい経った頃の話です。

 週末の夜、私の運転で彼を助手席に乗せて国道を走らせていました。
​私はハンドルの上部をハの字に握り、前を走る車のブレーキランプを眺めていました。
 車内には、微かな低音が響くジャズが流れ、少し開いた窓から心地よい夜風が入ってきています。
 すると、彼が私の名前を呼んで言いました。

​「ねえ、ストップ、ストップ」

​何事かと思い、アクセルを離してブレーキを踏んだその瞬間、それは訪れました。

 助手席に座っていた彼が急に私に近づいてきたのです。
視界の端に入ってきた彼の顔は、まるで4Kの超高解像度映像のようでした。
​スピーカーから流れていた音楽が、引き伸ばされたテープのように不自然に低く歪み、やがて完全な静寂になりました。

​左目の視界を覆う輪郭の影、乾燥して少しだけ荒れた表面の質感、そして微かに開いた口元から漏れる熱、すべてを克明に感じました。

 次の瞬間、頬に柔らかい感触と、
彼独特のアーモンドの香りが弾けました。
信号待ちでもない、走行中のあまりに唐突なキス。
​彼が身を寄せた瞬間、車内の芳香剤の香りを突き抜けて、彼自身の匂いが鼻腔を抜けました。
洗いたてのシャツのかおりと首筋の匂い。そして、唇が触れた瞬間の感触——。

柔らかく、そして生きている熱を持っていました。
​私の心は、驚きを通り越して、凪いだ海のように静まり返っていました。
ハンドルを握る指先にはまだ微かな震えが残り、手のひらは、彼の体温を覚えたまま汗ばんでいます。
​自分の心臓が「ドクン、ドクン」と、信じられないほどゆっくり、力強く脈打つ音です。
彼のまつ毛の震え、驚かせたことを楽しむように声をかけてきました。

​「……びっくりした?」


​彼の声が聞こえた瞬間、魔法が解けました。
消えていた走る車の音がゴォッと一気に通り過ぎ、車内のジャズが再び流れました。
 世界はスピードを取り戻しました。
実際には一秒にも満たない出来事だったはずなのに、私の中では数分間のドラマが完結したかのような疲労感と高揚感が残っていました。

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 以上です。これは実際に私が体験した話ですが、要するになにが言いたかったのかというと、タキサイキア現象は文章と相性がいいということです。
一瞬の出来事を言葉を費やして描写すると、言葉の数だけ解像度があがり、しかも読むのに時間がかかるため、読み味がタキサイキア現象に近くなるような気がするのです。

成功したかどうかは分かりませんが楽しんでくれたことを祈ります。

 

4/28/2026, 2:35:54 PM