狭い屋根裏部屋が、僕の安らげる唯一の居場所だ。
天井の隅には蜘蛛の巣が我が物顔で張っており、床は木くずと埃にまみれ、墓のように暗いのに、熱気と湿気をはらんだ部屋は、とても居心地が良いとは言えない。
猫が入り込む扉のような、小さい窓。そこから一筋の光が差し込み、床を丸く照らす。
この部屋には、照明が備わっていない。それどころか、ろくな家具もない。あるのは、錆びたバケツに割れた木材、ぼろになった灰色の布切れと、干からびたネズミや虫の死体だ。
本当に――僕のような生き物に似合いの場所である。
少し歩くだけで、腐って垂れ下がった皮膚が、べちゃりと音をたてる。なんという醜い音だろう。
ゾンビと人間の間に産まれた僕は、父親であるゾンビの血を濃く受け継いだ。だから僕は、人間の姿をした――しかし全身が腐ってしまっているゾンビの身体を持って生きている。
太陽の光が得意ではないこの身体は、常に暗い場所を好む。明るいうちに外に出ると、尋常ではない疲れを覚えて、酷い時には気絶してしまう。一方、暗い場所に居ると活力が漲ってくるのだ。
「普通の、男の子だったら良かったのにな」
壁に手を当てて、そっと窓際の向こうを見る。
よく整えられた庭で、犬と遊んでいる女の子。
僕の、妹。
ゾンビよりも人間の血を濃く受け継いだ子。
笑顔が可愛らしく、無邪気で、幼くて――僕の苦しみなど決して理解することの出来ない頭を持った、能天気で馬鹿な子。本を読むことも、計算も、絵も、歌も、何もかも僕より不出来な癖に。
両親に愛されている、女の子。
ぐっと下唇を噛み、部屋の隅に座る。
もし、願いが叶うのなら。だれか。
僕を普通の男の子にしてくれないだろうか。
いつも、そう願っている。僕の目の前に素敵な女神が現れて、僕の願いが聞き届けられる――そんなメルヘンを求めている。
そんな日は永遠に来ないことを、知っている。
雨が絶え間なく降ってくる季節がやってきた。
じめじめとした空気を全身で感じながら、僕はお気に入りの場所――あじさいの葉の上に身を寄せる。
ほのかに甘い香りを漂わせるあじさいの香りを嗅ぎながら、僕はぼんやりと空を見上げた。
すると僕の隣にやって来た子供のアマガエルが、喉を鳴らしながら「よぉ」と声をかけてきた。
「おいっす。今日もご機嫌だね、カエルくん」
「まぁね。カタツムリくんは、相変わらずボンヤリしてるようで」
僕らは黙って灰色の空を見上げた。
どれほど見上げ続けていたのか――気がつくと、土砂降りの雨が降ってきた。カエルは嬉しそうに声を上げて鳴いている。
そういや僕が昔、カタツムリに転生する前――人間だった頃は、大雨の日にわざと外に出て濡れる遊びをしたなぁ……と思いにふける。
しかし、僕はなぜ人間だった時、死んだのだったっけ。よく覚えていない。ただ、首をきつく締められたような……人間の手が食い込む感覚は覚えている。
「カタツムリ。お前、またボンヤリしてる。まっ、ボンヤリするのも大事だけどな。俺もボンヤリする時があるし」
ふぅん、と返すと、カエルくんは丸々とした目を細めた。
「変な夢……というか、残像が頭の中に浮かぶのさ。俺が人間になっていて、とある男を追い詰めて首を絞めるのさ」
「何それ、怖い」
「なっ。怖いよな」
再び僕らは空を見上げる。
後に判明する僕らの関係。
転生した、殺人者と被害者。そして彼が並々ならぬ執着心を抱いて、僕を骨の髄まで愛していることを。
手をもじもじとさせながら、塚原陽一は、薄らと頬を赤らめて、時折ちらりと彼女の横顔を盗み見た。
窓側の席で頬杖をついている坂木結衣。
陽一がずっと想いを寄せている少女だ。
小学校も中学校も、そして今に至る高校までも一緒のクラスだと言うのに、一度も彼女と言葉を交わしたことがない。
「……好き」
陽一は結衣に近づいて、耳元で囁く。
しかし結衣は眉間の一つ動かさず、黙ってグラウンドを見たままだった。
ぎゅっと陽一は拳を握りしめ、下唇を噛む。
「こんな僕は……嫌いだ」
半透明に透けている自分の身体。
この身体になってから何年経っただろうか。
いや、数えるのが馬鹿らしい。誰にも認知してもらえない、この忌まわしい身体。
好きな相手に『好き』の一言すら伝えられない、呪わしく憎々しい身体 。
彼は両目から涙を零し、俯いた。
その涙が床に落ち、僅かに跳ねる。
結衣は不思議そうに顔を上げ、床を見た。
「……濡れてる?」
紫蘇ジュースのような赤紫色の蔦が、生気を失った高層ビルに絡みついている。アスファルト舗装されていた道路には、まるでモグラが通ったかのように地面が歪に盛り上がり、亀裂が入り、陥没している箇所もあり、コンクリートの瓦礫が散乱していた。
仰向けになった車の後部座席は、あかあかと燃え上がる炎が立ち上り、どこからか鳥が金切り声を上げて叫び、からからと乾いた風がこの死んだ街を吹き抜けていく。
彼は空を見上げた。
黄土色に染まった空。かつては青空が広がっていたはずの、醜く汚らしい空。
顔を覆っているガスマスクに触れながら、彼は笑う。
「侵略、完了」
正直な所、病に陥ってから、本を読むことも書くことも出来なくなってしまった。
初めて長編小説を書いた時、三次選考まで通過したまでは良かったのだけれど、問題はそこから先である。
双極性障害という実に厄介な病……まるで呪いのような精神を蝕む憎々しい敵が再発したせいで、一文字も書けなくなるどころか、本を読むことや勉強さえも出来なくなったのだ。
三年を経て、ようやく少しずつ回復してきたものの、本を読むこと……昔はあれだけ本の虫だった僕が、非常に苦労している。一ページ読むのだって酷く疲れる。
もういっそ小説を書くことや、小説家を目指すことを諦めようかと何度も思ったけれど、やっぱり諦められないし、何十年かかってもいいから、創作と向き合っていきたいと思う。
もしかしたら、この厄介な病に負けて自殺を選ぶ可能性だってある。実際、何度もそう考えて行動しようとした。
だから、また僕が気が狂う前に。
正気であるうちは、最善を尽くして小説と向き合っていたいと思うのが、正直な気持ちだ。