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12/5/2024, 10:41:52 AM

セーター。
何日か前のお題です。二千字くらい。










 家を出ようとしたところで、マフラーを忘れていたことに気がついた。
 そばを通りかかった母親に、マフラーを取ってきて、と頼む。
 洗濯もの持ってるの、見たら分かるでしょ、といって、母さんは家の裏口へ消えていく。
 だれかー! マフラーとってきてー! と母さん以外に向かって叫んだ。
 リビングの扉からひょっこり犬が顔を出した。
 ちがう。おまえじゃない。おまえは呼んでない。俺はピースをしっしっと手で追い払う。
 ピースはよろこんで玄関に駆けてきた。追い払われているのを、手を振られたと勘違いしている。散歩に行けると思っているのだ。
 父さんー! ピース散歩に連れてって! マフラーとってきて! と、ピースが外に出ないよう、ディフェンスしながら俺は叫ぶ。
 つぎに出てきたのが、妹だった。妹はしまむらのパジャマワンピースを着ている。リビングと廊下をつなぐ扉は、真ん中が昭和型版ガラスになっていて、水色のかたまりがその前を行ったり来たりしていた。
 たったったっと妹は玄関に走ってきた。ぺんぎんの着ぐるみのようなパジャマに、俺の目当てのマフラーを巻いてやってきた。

「返して」
「え?」
「マフラー。あめりじゃない。俺が巻くやつだから」

 あめりはえー? と首をかしげている。
 俺はあめりが巻いているマフラーをぐい、と引っ張った。
 あめりがわざとらしく、あーれーといいながら、その場でくるくると回った。鼻にしわを寄せて、はしゃいでいる。仰け反りすぎて、鼻の穴が見える。あめりはあまり可愛くない。着物の帯が剥ぎ取られるみたいに、あめりの首からマフラーが解けた。
 回転を終えたあめりは、両手を上にあげて俺に突進してきた。目が回って、よろけたという体で、俺に抱きついてくる。
 俺はそれを押し返した。少し突き飛ばす勢いだったかもしれない。ピースも、家族の靴も蹴散らすようにして、俺は家を出た。
 扉の内側で妹のおどろく声がする。犬が興奮している声もある。ふたつのなき声を聞きつけたのか、母親の高い声も聞こえる。父親は風呂掃除をしていたのか、不意打ちを食らったような間の抜けた声が、風呂場から聞こえた。

 坂を駆けあがるように、落ち葉が下から上に舞い上がっている。
 俺は風に前髪をかきあげられながら、つんのめるように坂をくだる。
 近道で公園を突っ切る。ぐじゅぐじゅの銀杏を二個踏んむ。俺が近くを通っているのに、カラスがいつまでも逃げ出さない。アホーアホーと泣きわめかれる。
 バイト先に着いてから、マフラーを右手に握りしめたままだと気がついた。
 更衣室の鏡で見た顔は、寒さで赤い。
 マフラーは、あめりがばあちゃんといっしょに編んだと聞いている。とはいっても、きっと半分以上ばあちゃんに編ませたに決まっている。あめりは母さんに似ていて、母さんの一族は総じて不器用だ。マフラーを編んだばあちゃんとは、父方の祖母だ。家のリビングには、ばあちゃんからもらった毛糸がたくさんある。けど、あれが使われているのは見たことがない。
 歩いて振り回したマフラーは冷たくなっていた。
 学校に行って、部活をして、一回家に帰って、学校とは反対側のファミレスに働きに行く。つぎに家に帰るのは二十二時を過ぎるから、俺は先に夕飯を食べている。
 家に帰り着くころには、あめりは部屋に入って寝ているだろう。
 玄関に入ると、夕方俺が散らかしていった父さんのスリッパが、そのまま裏返されていた。
 脱衣所から出てきた母さんが、お風呂湧いてるわよ、といいながら、洗濯ものを抱えてリビングに消えていく。
 あとを追って、リビングに入った。リビングの中はあたたかかった。バッグと、マフラーと、コートを椅子に投げ出して、手を洗って、麦茶を飲む。
 振り向くと、タオルケットを被っているあめりが見えた。あめりはリビングにいた。リビングの中央のソファーで寝ていた。今まで起きていたらしく、そばにタブレットが転がっている。
 ピースはその足元で丸くなっている。俺の方向を目だけで見上げて、鼻だけですぴよと鳴いた。
 母さんは父さんに手伝いなさいよ、といって、洗濯ものを部屋に干している。
 父さんはYouTubeで動画を観ながら、パピコのセーターを編んでいた。













押し花の栞。
SSお題診断メーカーで出たお題です。二千五百字くらい。


 押し花の栞を作りたいということでホームセンターにまで出かけることになった。
 押し花というのは、好きな花をティッシュで挟んで、上に重しを置き、花の水分を取って作るらしい。均等に重さが加わるように、花のガクを取ったり、花弁の重なりをなくしたりする工夫がいる。それでできたものをラミネート加工して、栞にする。
 好きな花がないとイバリがいうので、ホームセンターに行って花を買うことになった。
 好きな花を買い、育て、満開になったところで、その一本を摘んだ。
 さてこれから作るのかと思ったら、重しにする本がないといいだした。適当な教科書や辞書を積んでおけばいいのに、好きな本で作りたいのだと言って、今度は図書館に駆り出される。とびきりロマンチックなフランス文学をイバリは五冊借りてくる。
 帰り道にセリアでラミネートを購入する。二枚入りのラミネートだった。……ひとつしか栞は作らないのに。そう思う気持ちをかろうじて抑え込む。
 花を本で挟んで、一夜明けたところ、そろそろできたかなと思って本を開こうとしたら、イバリに叱られた。押し花ができあがるには数週間かかるらしい。花の水やりでもしてなさい! と、ホームセンターで買ってきたイバリの花を、僕が世話させられる。
 イバリにはなにからなにまで金と労力がかかる。
 晩ご飯を買った帰り道に、ブックオフに寄ろうとしたら、頭を叩かれて違う方向を指さされる。イバリに言われるがまま車を運転すると、TSUTAYAに着いた。
「栞を使う本を買うの!」と言って、店内を連れ回された。

「この前、図書館で借りた本があるじゃないか」
「あれは重し用。今探しているのは栞を使う用よ」
「図書館で借りた本でいいんじゃないの?」
「よくないの」
「僕が持っている本を貸すよ」
「あんたの趣味じゃ、だめよ!」

 イバリは普段本を読まない。
 どんな本がいいと思う? と聞かれ、こんなのがいいんじゃないかな、ほら、えらい賞も取ってる、と僕が気になっている本を勧めてみると、そんなの嫌! と言われる。
 その日はイバリのお気に召すものがなかったらしく、僕は車内に置いた冷凍枝豆と明治エッセルスーパーカップを気にしながら、帰路を急ぐことになる。
 イバリの本選びにはそれからも付き合わされる。
 ある日、明屋書店で一八九〇円のハードカバーの本を選ばれそうになった。僕はイバリの注意を逸らすために必死になった。イバリは本を読まない。読まない人に、本をぱっと買ってあげられない弟でごめんよ、と内心で思ってもない謝罪をする。どうせイバリが読まない本を買うくらいなら、僕が読みたい七七〇円の文庫本がほしい。
 イバリは夜な夜な押し花の様子をのぞき、あとどれくらいでできるかを予測する、僕が見ようとすると追い払う、というのを繰り返した。
 押し花はいい調子らしかった。あと二日ぐらいしたらいい感じになると言っていた。よかったね、としか僕は言えない。
 イバリは、本を読まないし、花を育てられないし、車も運転できない。

「なにがしたかったの?」

 と、聞くと、怒られると思ったのかイバリがそっぽを向いた。はじめに押し花を作りたいといいはじめたときから、この調子だ。
 すっかり固くなってしまったイバリをなぐさめ、布団に収めると、僕はイバリの寝室を出ようとした。
 ふわふわに天日干しして、さっきまでイバリの布団を電気毛布であたためておいたのは僕だ。その布団を跳ね除け、イバリが起き上がった。
 あーあ。僕が乾かしてあげた髪を、イバリは両手でぐしゃぐしゃとかき乱す。
 イバリは足が悪い。車椅子で移動することもある。立ち上がれないイバリの代わりに、僕はイバリに近づいた。
 イバリはむしゃくしゃした様子で唇を噛み締めているので、それやめてと僕はいう。

「だって! 喜ぶかと思ったの!」
「なんの話? 唇噛まないで」
「わたしがあげたら、喜ぶかと思ったの!」

 そこでようやく僕は、イバリが僕に栞をプレゼントしようとしていたことを知る。

「うっそだあ」

 イバリが顔を歪めた。
 この人、たったこれだけで傷ついて、今までどうしてきたのだろうか、と頭の片隅で考える。今までどうにもならなかったから、僕を頼ってきたのか――僕がイバリと暮らしはじめたのは二年前だ。両親の離婚で僕とイバリは子どものころに住むところをべつにしていた――自問自答して僕は満足する。

「そんなことしなくていいのに」
「はっ? ひどい! ひっどい。お姉ちゃんに向かって」
「『お姉ちゃん』? イバリになんて、お姉ちゃんなんて呼ばないよ」

 僕は呆れて冷たい声が出た。

「僕、寝たいんだけど」

 帰っていいかな。
 この人は、僕が食事から寝る場所までお世話しているのに、プレゼントなんてなにを言っているんだかわからない。僕がイバリに望むのは、イバリがただ寝て食べて、無害でいてくれることだけだ。

「変な人だね……そんなことしなくていいのに。おかしなことをする。僕の好きな花も、本も知らないのに。いいよ。イバリサンはえらく楽しそうだったね。僕のことをたくさん考えてくれてどうもありがとう。僕のために、何週間も前から、僕に花を育てさせるところからはじめて、僕に車を出させて、本を買わせて……。本当に、こんなに人に命令できるのはイバリだけだよ。ちょっと。唇噛まないで。ほら。目を擦らない。……。本当、変わった人だね……」

 僕はイバリの肩を押して、再度ベッドに横たわらせる。布団をイバリの肩まで引き上げた。
 後部座席で僕に行先を命令していた、イバリのことを思い出した。イバリは滅多に外に出ない僕を休日に連れ回して、楽しそうだった。
 イバリが楽しそうなら、もうそれでいいかと僕は思った。
 ありがとうと、再度いうと、イバリは眉を寄せた。
 イバリを重たい布団の下に閉じ込めて、僕は手でイバリの目元を覆う。ベッドサイドのランプを消す。部屋が真っ暗になる。僕はゆっくりイバリの部屋から出て、カチャンと、扉を静かに閉じる。








12/2/2024, 1:27:29 PM

冬になったら。
小説。
何日か前のテーマです。











 長野県木曽郡木曽町・王滝村と、岐阜県下呂市・高山市――御嶽山はそこにある。東日本火山帯の西端に位置していて、標高は3,067 m。複合成層火山だ。
 弟は御嶽山で働いている。いわゆる山小屋バイトだ。
 大学二年生のころからはじめて、今年で四回目になる。夏休みに二ヶ月、卒業してからは六月から十月の四ヶ月間、働いている。

 朝の四時に起きて、五時半までに清掃と調理を終わらせる。五時半からが宿泊客の食事時間だからだ。自分の食事は皿洗いをすませて、八時ごろ。
 昼食までは少し時間があって、それまで持ち回りで館内のそうじをするらしい。弟はSNS担当だったので、朝十時ごろに山小屋のFacebookを更新していた。
 ランチは十一時から十三時までの二時間営業している。ランチのあとは職員には昼休みがあたえられた。天気がいい日には職場の人と山を登ることもあったそうだ。

 夏前に登って、夏がおわったら帰ってくる。
 父さんも山の仕事をしていた。父さんは山岳警備隊員で、遭難者の救助に出たときに雪崩に巻き込まれて死んでしまった。
「血かしらね」とつぶやくお母さんの頼りない声を、聞いたことがある。
 結婚してもわたしが実家を離れられないのは、こういうところがあるからかもしれない。
「あなたたちだけはせめて、って山から遠ざけていたのが悪かったのかしらねぇ」とお母さんは言った。「お父さんも、山馬鹿だった……」
 年中山に勤めているお父さんと違って、トウヤは夏を過ぎれば帰ってくる。「夏が過ぎれば……」わたしはそう言って励ますしかなかった。

 トウヤはあの山のなにに魅入られているんだろう。
 山のてっぺんのほうが、天国が近いのだろうか。いつか帰ってこなくなるんじゃないかと思うと、トウヤの仕事を心から応援できなくなるのだった。

 その日はうなされて目が覚めた。ああ、寝過ごした、って思いながら起きた。焦りながら起きるなんて、最悪だ。最悪な朝だ。寝過ごしたって自分でわかっていた。早く起きなきゃいけなかったのに。
 仮眠するだけのつもりだったのに、随分深く眠っていた。
 お母さんは、がんばりすぎよ、とか、産後なのよ、とか言ってくれるけど、どう休んだらいいかなんて分からなくなっている。
 マフユは大人しい子で、夜泣きもほとんどしない。けど、そろそろ目覚めるはずだった。
 いつも猫が鳴くようなふにゃふにゃした声で呼んで、こんなにやわらかくて、生きていけるのかしらと思うような肌をしている。なにもかもがちっちゃい……。わたしは少しもこの子に我慢させちゃいけない気持ちになる。すぐ駆けつけて、この子がわたしにしがみついてくるのを見ると、ああ、と涙が出てきそうな新鮮な感動を、今でも持つ。がんばらないなんて、意味がわからない。

 マフユは……。
 マフユを探して、うすら目を開けると、わたしのお腹の上で猫が寝ていた。ぷーっといびきをかいて寝ている。わたしがうなされた原因はこれらしい。
 猫に体を封じられながら、首だけを動かしてベビーベッドを見る。
 マフユは、泣いていないみたいだけど、どうしてるだろう。マサヒロさんが見ててくれたのかな……それとも、お母さん?
 冬の遅い朝日が部屋に差し込んでいる。
 カーテンに切り取られた黄色い光の中に、だれかがいた。男の人だ。男の人が、ベビーベッドをのぞきこんでいる。丸まった、広い背中……。
 お父さん――。
 わたしは泣きそうなのをこらえて、べつの言葉を口にした。

「おかえり……」

 わたしの赤ちゃんをこっそり覗きこんでいたトウヤは、わたしを振り向くと、雪も溶けそうにはにかんだ。








たくさんの想い出。

 アルバムというものに縁がない。
 十二歳の夏に両親の離婚で、田舎に引っ越して、卒業のときにもらったアルバムにほとんど俺は写っていなかった。中学のころは不登校で、高校からは通信制の学校にした。学校行事はほぼ参加しなかったし、参加しなきゃいけないときでも、写真に写りたくなかったら、避けてていいよ〜と言われた。アルバムを作るのは作りたい人だけでよかった。
 そもそも実家にもそういう文化がない。みんな根暗で、インドアだったし、俺は四人兄弟の末っ子で七五三もしなかった。
 だから、「写真整理をしてて懐かしくなってさ」なんて理由で連絡してくる奴なんて、信用ならないのだ。

「ほら、オレオレ。覚えてない? 小学校のころいっしょだっただろ。中学もいっしょだった。クラスは違ったけどな。当ててみろよ。俺の名前。言える? ヒロセマサタカ〜? 言える〜?」

 俺は電話を切るべきか迷った。迷って、切らなかった。
 なんで俺の名前を知っているんだろう。
 電話の向こうの男は、ミナミ小の同窓会の主催をしていて、それで俺に誘いをかけてきたのだそうだ。ミナミ小は俺が親の離婚後に通っていた小学校で、男が語る数々の思い出――当時の担任の名前や、卒業式で歌った曲に矛盾はなかった。

「……詐欺かなって思ってさ」

 一昨日あった電話についてそういうと、二つ年上の兄は首を傾げた。

「えー? なんで? 担任の名前合ってたんだろ?」
「うん」
「旅立ちの日に歌ったんだろ?」
「うん。けどさ、そんなことって、調べれば分かるだろ? 俺みたいに同窓生を騙して聞き出すとか」
「調べてなんの意味があるんだよ!」
「だから、詐欺とか」
「はーっ!? おまえみたいなフリーター、わざわざ狙うかよ!」

 それをいわれたらなにも言えない。

「で、同窓会は断ったんだな、マサタカ。まあ、それがいいよ、大体、昔の知り合いって奴らはな……」
「いや、行くことにしたよ」
「はーっ!?」

 おまえと話すの、めんどくせー! といって、アキは電話を切ってしまった。
 俺はため息をついて店内にもどる。
 同窓会前に、個人的に会わないかと誘われ、俺は今電話の男と待ち合わせをしている。俺が喫茶店に入ったのは午後四時ちょっと前。サガミケンゴは、アキの電話より少し前に、遅れると連絡してきた。
 これからなにが起こるんだろう……。
 サガミが来るまで気晴らししたかったが、兄以外に電話をかける友だちもいない。適当なスマホゲームをして、コーヒーをすすった。

 サガミケンゴというのは、たしかに小学校からの同級生の名前だった。
 サガミケンゴは中学三年の夏に事故死したはずだ。
 詐欺だとしたって、わざわざ死んだ奴の名前を騙ってくるか?
 いっそ会わないほうが気味が悪くて、人目のあるところで会う約束をしたけど、土壇場になって怖くなってきた。
「積もる話もあるしさ!」といって、サガミは誘ったが、積もる話なんてこっちにはない。あるはずがない。
 生きていたサガミとは、クラスが同じ以上の接点はなかった。サガミは中三で死んだ。ありふれた交通事故だった。サガミが飛び出した。サガミとその日遊ぶ予定だったという、同級生の友だちの、友だちと、同じ美術部員から教えてもらった。サガミは、待ち合わせに遅れていたそうだ。

 こんなことなら、アルバムなんて捨てなきゃよかった。
 俺はサガミの顔を覚えていない。死んだのが本当にサガミだったかも今じゃ疑わしい。俺の記憶違いってことはないだろうか? 学生時代の記憶は封印していた。実家を出てから、俺は一度も地元に帰っていない。
 待ち合わせから一時間以上経っていた。
 緊張感がつづかなくなって、俺は席を立った。トイレに行くと人が入っていた。待つか、もう店を出るかで迷った。
 そのうちに俺のうしろに人が並びはじめた。男ひとりだ。
「すみません……」
 と、いって、俺は横を通り抜け、立ち去ろうとした。

「――ヒロセマサタカ?」
「え?」
「ヒロセマサタカじゃね?」

 息が止まるかと思った。
 俺は相手の顔もよく見ずに、「人違いです!」と叫んで、その場を飛び出した。モスグリーンのコートだけ目に入った。
 席にもどり、鞄をひっつかむと、慌てて会計をして外に出た。
 心臓がバクバクいっている。
 はじめは早足だったのが、速度を上げ、いつの間にか俺は走っていた。散歩中の犬に吠えられたり、人に怯えられたりしながら、家路を急ぐ。ここまでくれば、あいつは追いついて来られないだろうと思った。振り向いてもいないし、追いついてくるはずがない。

 俺のうしろから車が駆け抜けて行ったのはそのときだった。
 ものすごいスピードの車を振り返ると、すぐそこの横断歩道で大きな音がした。ドッ! というような、ボッ! というような。
 視線の先でさっきの車がひとり人を轢き逃げ、その向こうのコンビニに頭から突っ込んでいるところだった。
 すぐ近くで起こった事故で、轢かれた人の服装まで分かる位置にいた。轢かれた人の服はモスグリーンなんかじゃなかった。呆然と俺が立ち尽くしていると、人が駆けつけてきて、轢かれた人の知り合いだったのか、その人の名前を叫んだ。「ケンゴ! ケンゴ! ケンゴ! ケンゴ! ケンゴ! ケンゴ!」

 俺は声にならない悲鳴をあげると、またもや駆け出した。
 アキの番号を呼び出して、アキが出てくれるのを待った。アキは出ない。ハッハッ息を荒らげながら、俺は呼び出し音を聞きつづける。
 冬の日暮れは早い。
 アキへの呼び出しをやめて、すぐ俺に電話がかかってきた。折り返し電話だと思った。アキからの。

「アっ、アキ!」

 俺はすぐに電話に出た。

「あ、もしもし? ヒロセマサタカ〜? 遅刻してごめん。ちょっと外せない用事あってさ。ちょっと言えないんだけど。本当反省してる。飯奢るし、いくらでも飲んでいいから。俺、車持ってるから。俺、車好きなんだよね〜。今から行くわ。今、家なんだ。十五分で着くから。ごめんな〜めちゃくちゃ待たせて。今、行くから、ヒロセマサタカ」












宝物。

 大事なものはみんなベッドの下に落ちていく法則があって、探し物があるときは大抵ここを覗き込めばいい。
 お気に入りのブランケットとか、貰い物の万年筆だとか、高かったイヤホンとか。思うに、寝る前に抱きしめたり、眺めたりしているから落ちてしまうんだと思う。
 ベッドと壁の隙間から転がりでてきた結婚指輪を握りしめて、わたしはほっと息をもらす。

「ごめん、見つかったよ」と声をあげて夫に知らせた。
 ……返事がない。
 わたしが「指輪なくしちゃった」と言ったとき、夫はすかさず「またプレゼントしてあげる」と言ってくれた。「ありがとう! 見つかったよ」と、わたしは叫ぶけど、夫の返事はない。

「ねぇ、本当にごめんなさい。あんなに騒いで……指輪、見つかったからさ……」
 夫の部屋を覗きこむと、夫は、ベッドの上で物を探していたような体勢で、ベッドと壁の隙間に嵌りこみもがいていた。



11/17/2024, 9:52:52 AM

はなればなれ。
小説。













 駅に着くまでの信号の移り変わりを分単位で記憶している。
 朝七時三十二分に家を出ると、三十七分に最初の信号に着く。土日だとこれがちょっと変わって、三十七か三十八分のどちらかになるが、平日なら、かならず三十七分だ。
 ここでスムーズにひとつめの信号を通過する。

 ふたつめの信号はうまく渡れれる日と渡れない日がある。
 駅から家に行くときは、うまくいく。信号がつぎつぎに青になって現れるけど、家から駅に、逆に向かうときは無理だ。今とか。一度信号にひっかかって待つか、早足で渡りきるしかない。
 俺は青信号のタイムリミットを見越して、余裕で横断する。

 三つ目の信号のむこうはパチンコだ。ニシ駅の前にはパチンコがある。ここで群がるおじさんや、おばさんや、路上喫煙している人たちを避けたいときは、遠回りして裏道から行くべきだ。
 ただ、今日は時間がない。俺は三つ目の信号を走り抜け、パチンコの前に乗り出す。
 あとは全力疾走して駅に駆け込むだけだ。

 今日は電車に乗って大学……ではなく、電鉄に乗ってツノガヤの家に行かなければならない。
 ツノガヤん家のペットのカブトムシが死んだそうだ。
 あと、彼女に振られたっていってた。ツノガヤは今、泣きながらカブトムシの死骸を埋めているらしい。
 俺はうしろを振り向いて、サガミが俺に着いてきていないことに気がついた。

「おい! サガミ」

 サガミはいっこ前の信号で止まっていた。両膝に手を置いて、ぜいぜい息をしている。
 ツノガヤん家に行こう! といったのはこいつなのに。
 サガミがスマホを取り出した。
 それから俺のスマホに着信がくる。俺に電話をかけてきたらしい。
 直接叫ぶなりすればいいのに。この距離だぞ。
 横断歩道ひとつの距離で、俺はサガミからの電話をとった。

「もしもし?」
「キザキ……俺のことは置いていっていいから……ンゲホッごほごほ」
「体力カスすぎだろおまえ」

 電話のむこうでサガミの荒い息遣いが聞こえる。

「置いていっていいからとか……たかだか失恋だろ。ツノガヤの。ツノガヤの失恋とか、俺はどうでもいいんだよ。おまえがからかいに行きたい! っていうから付き合ってんのに」
「いいからっ。行け」

 行ったって意味ないし……。
 俺は駅までの信号の青になる時間を秒単位で把握している。あと十数秒でここの信号が青になることが分かっていた。

「サガミが行かないなら、俺も行かないから。焦らなくていいから。サガミ。ゆっくり学校行こうぜ」

 慰めてやってるというのに、サガミは顔をあげると、キッと俺を睨みつけた。
 サガミは叫んだ。

「たかだか失恋? 失恋だけじゃない! ツノガヤは、ペットのカブトムシが死んで悲しんでるんだ。友だちが悲しんでいるときに駆けつけなくて、なにが友だち……ンゲホゴホッ……だから早く、カヤマさんといっしょに、ツノガヤのもとへ……アハハハ」

 いいながら笑ってんじゃん。
 サガミがむこうでゲラゲラ笑っている。自分で言って、自分でツボってるらしい。世話ないな。電話の必要がないくらいの大きな声をあげている。

「カヤマさんが、おまえが行かないと、カヤマさんがひとりで参列することになんじゃん、カブトムシの葬式! アハハ」

 ふと右を向くと、うわさのカヤマさんが車道を挟んでむこう側の歩道にいた。
 カヤマさんも今朝、グループチャットでサガミに駆り出されていた。
 カヤマさんと俺はおなじアパートのとなりの部屋に住んでいる。今の時間にこんな場所にいて、カヤマさんは俺らと同様、カブトムシの埋葬に間に合わないだろう。
 ゲラゲラ笑っているサガミや、俺に気づくことなく、カヤマさんはもう三秒で青になる赤信号を、全力で駆け抜けていく。









11/16/2024, 9:17:22 AM

子猫。
小説。










 俺に唯一懐いてくれた猫がかわいくって、スーパーでちくわを買ってきては、食べさせるということをしていた。

 となりの家のわるばばは「ちくわなんて辛いもんやるな!」とか「放し飼いにするな!」とかガミガミ怒るけど、俺はいつも聞き流している。

 俺から逃げなかった猫なんて、はじめてだ。
 俺はあばれる猫の腹に顔を押し付ける。どくどくどくどく、人間よりずっと早い心臓の音がした。
 うすいお腹。
 あっという間に死んじゃうんじゃないだろうか。
 わるばばに相談すると、「……動物病院で定期検診を受けさせるんだよ」といわれる。金ない……とメソメソしていうと、また怒られた。

 俺が地元に帰ったときは、わるばばがちくわの面倒をみていてくれたらしかった。
 人類はびっくりするほど猫にやさしい。
 俺と顔を合わせるたび「へっ!」とガンをつけてくるわるばばが、ちくわにはめろめろで、猫なで声を出している。

「ちーちゃん、そこにいるのよ。お兄ちゃん帰ってくるからね」

 と、わるばばの声がしてから、扉が開いた。
 俺の顔を見て、わるばばが「へんっ!」と唇を歪めた。

「これ、おみやげ」

 ちくわを世話してくれたお礼を兼ねて渡すと、わるばばはじっと警戒の目で俺を見てから、俺から紙袋を受け取った。目の前にあっても、おみやげを買ってきてもらえたとは信じきれていないようだった。
 実家に帰れ、っていったのはわるばばなのに。
 中を覗き込んでから、「こんな量ひとりで食べきれるわけなきゃろーが……」といった。

 たまに顔も見せんなんて、親不孝モンや! と、わるばばにいわれたことがある。
 ほかにも、ごみを分別しないだの、夜遅くにうるさいスポーツカーで帰ってくるだので、俺はわるばばに嫌われている。

「|子乃《ねの》さん、明日は買い物は? 車を出してあげる」
「いらね、んなもん」

 わるばばめ。
 子乃さんはそっぽを向く。
 俺はボロボロで古びた子乃さんの家に、この夏、エアコンを設置してあげた実績がある。

「こたつは出した? 俺がまたやってあげるよ」
「あんたがこたつに入りたいだけで、しょっ」

 といって、子乃さんはおみやげも受け取らず、扉も閉めず、部屋の奥へもどってしまう。

「子乃さん、ぽっくり逝っちゃいそうなんだもんー。ねー。交通事故とか、餅つまらせるとか、凍死とか」
「うるさいわねっ」

 子乃さんは黙ってやかんを沸かしはじめた。
 俺はまごまごと靴を脱ぎ、家に上がる。子乃さんのお茶の準備を手伝った。
 ちらっと見えた部屋の奥は、こたつが出ていた。
 きっと、あの中に猫がいるんたろう。





11/14/2024, 5:17:55 PM

また会いましょう。
小説。
昨日(2024/11/13)のテーマです。
今日のテーマ秋風は、下にあります。











 わたしは図書館でダンセイニを探していた。一度、利用者用資料検索機で調べ、分類番号と著者記号を覚えておいた。
 なのに書架の前に行くと、ふしぎと見つからない。
 貸出中なのかと思って、もう一度検索機で調べに行ってみる。貸出可になっている。
 なんでなんだろう。もう一度書架の前にもどってみると、今度はあんなに見つけられなかったのが嘘のように目の前にある。

 喜んで本を引き抜いた。すると隙間から書架の向こう側が見えた。向こう側にも人がいたようだった。わたしより背が高くて、はじめにその人の顔の下半分が見えた。目線をあげると目があった。
 これがオリベ先輩だった。

 これまでどこでなにをしていたか知らない。かわいがってくれた教授の誘いを蹴って、北極のレンジャー教育施設へ短期留学生してしまった……とは、友だちから聞いた話だ。わたしは知らなかった。そもそも、教えてもらえるような関係でもなかった。
 こんなところでばったりと出会うなんて。思ってもみない幸運にわたしの頭は茹だりそうだった。

 オリベ先輩は踵を返し、歩いていってしまう。
 図書館では大声を出すことも、走ることもしてはいけない。
 わたしはできる限りの早足でオリベ先輩を追いかけた。書架をひとつ挟んだ向こうをオリベ先輩が歩いている。
 並行になって追いかけていると、先輩が角を曲がった。先輩は専門書の並ぶ奥のほうへ消えていった。
 わたしはぐるぐるとそこを回ったけど、書架にはどんなマジックがかかっているのか、先輩の行方はわからなかった。

 外に出てはいないはず……。
 今日は大雨だった。朝はそんなにひどくなかったんだけど、図書館に入ったところで大荒れになった。ものすごい量の雨が窓を伝っている。
 図書館には雨やどりに来て、出るに出られなくなった人たちで息を殺している。
 外で大きな雷が鳴った。

 料理本から、建築、教育、自然科学、と棚を覗いていくと、向こうの通路からおなじようにこちらを覗き込んでいる人が見えた。
 書架をひとつ挟んで向こうの通路から、男の人が棚を覗き込んでいる。あの人もだれかを探しているんだろうか。
 ぴったりわたしとおなじ歩幅なので、覗くたびにわたしと顔を合わせる羽目になった。

 三回合わせてから、おかしなことをしてしまった、とわたしは立ち止まった。向こうも立ち止まり、わたしのほうを向いて会釈した。
 わたしは通路から通路に向かって声をかけた。

「背の高い眼鏡の男の人を見ませんでしたか」

 向こうの男の人は眉を上げた。

「だれかお探しですか」
「ええ。あなたもですか」
「はい。はじめは本を探していたんですけど……」
「わたしもです」

 わたしたちは歩み寄って話した。

「外は雷雨ですから」
「ええ。中にいると思います」
「はい。健闘を祈ります」
「それは悪魔に」

 男性はふらっと立ち去ってしまった。
 わたしも気まずくなって、彼とは反対方向に踵を返した。
 すると、いた。先輩が、閲覧席にすわっていた。
 わたしは近くの棚からチョコレートの歴史という本を取り出し、先輩のとなりに座った。

「オリベ先輩ですよね」

 と、いうと、先輩は「私語禁止ですよね」とつめたく言った。なによちょっとくらい。先輩は目線ひとつくれなかった。
 なにを読んでいるのか気になったけど、詮索するのはマナー違反かとおもって黙った。
 先輩は本から栞を抜き出すと、ポケットからはボールペンを取り出した。文春文庫の栞になにかを書きつけると、わたしに渡した。
 それから席を立つと、つかつかとカウンターに歩いていってしまう。

「外は雨ですよっ!」

 と声をかけると、人差し指を唇に当てて振り向いた。

「瞬間移動で帰れます」
「そんなことできるわけない」
「冬には魔法が起きるんです」
「この栞、どういうことですか」
「願いを口にすると悪魔に邪魔されるから、魔法を使うときも魔法使いは一言もしゃべっちゃいけないんです」

 適当なことをいって、先輩は出ていく。

















秋風。


 家に帰りたくなくてベンチでうずくまっていると、小学校低学年くらいの子どもたちが、落ち葉シャワーで歓声をあげていた。
 両手いっぱいにかかえて「せーの!」と舞いあげて遊んでいる。

 呆然として眺めていると、中学年くらいの女の子たちがそばにやってきた。
「おねいさんどうしたの?」
 落ち込んでるみたいだったから……といって、名前のわからない花をくれた。

 感動して涙ぐんでいるわたしの脇に、三人はしゃがみこむ。わたしを慰めてくれる――というわけではなく、わたしの足元にいるコロを「よしよし」と撫でている。
 わたしみたいなのに話しかけてくれたのは、コロがいたからだろう。

「ありがとう。ありがとうねえ」
 鼻を鳴らしていうと女の子たちはぽかんとして、怯えた様子になって、べつに、といった。
 仲間どうしで顔を見合わせると、逃げていった。
 コロ、ありがとね、と、飼い犬の背中を撫でているわたしを、三人のうちのひとりが振り向いた。
 けど、わたしのうしろを見て目を見開いた。それからはもう振り返らず、たーっと急いでクヌギの木の裏に隠れてしまった。

 うしろには、わたしの弟が立っていた。
 いつの間に来たのだろう。
 わたしが目をこすつているのに気づいたみたいだった。「なんで泣いてんのん」といわれた。わたしは「泣いてなんかない」と答えた。
 リクは一度、キッと林のほうをにらみつけたけど、次にはわたしの前に回って泣き顔を確認しに来た。

「泣いてるやん!」

 わたしが花をもっているのに気がついて、それを奪い取った。

「あっ」
「こんなもの」
「ちがう。もらったんだよ。さっきの子たちに」
「ふん。フジモリの妹たちじゃん。あの団地の」

 リクはくんとピンクの花のにおいを嗅いだ。それからわたしに差し向けた。
 返してくれるのかとおもったら、ぴっ! とわたしの目の前で花弁を引き抜いてしまう。

「ああっ!」

 わたしは堪らず悲鳴を上げた。
 リクは静かな声でいった。

「大丈夫」
「大丈夫って、なにが……っ」

 リクはひらりと花を落とした。

「明日はいいことが起きる……」「お母さんに怒られない。大丈夫……」「テストでいい点取れる……」「ピアノの先生に褒められる……」「晴れる……」「おいしいもの食べれる……」「ユカワの馬鹿が転校する……」

 ぴっ、ぴっと引き抜いて、花びらは全部取れてしまった。
 ガクや、葉っぱまで引き抜いて、リクは茎だけになるまでそれをつづけた。ひとしきり済むと、リクはお終いとばかりにうしろに放り投げた。

「帰るぞコロ!」

 大きな声を出して、わたしからコロのリードを奪うと、身を翻して、公園の外に駆け出してしまう。
「ええーっ!」林のほうから女の子たちの悲鳴が聞こえた。花びらをちぎり捨てるリクの行動に、「ええーっ!」とか、「はぁーっ!?」とか、声をあげている。
 それも耳に入らないかのように、リクは坂を駆け上がっていく。
 リクは足が速かった。六年生のなかで一番らしい。
 びゅんびゅんと走って、コロにもさらに走らされて、坂の上の住宅街に消えていった。

 あっという間に見えなくなった。サアと風が吹く。わたしの傍を吹き抜けて、落ち葉がわたしの足元にすべりこんだ。わたしはそれを踏みつける。乾いた音が立つ。当たりばっかりの夢みたいな花占いの残骸を踏みしめ、立ち上がると、わたしは坂の上を見あげて、一歩一歩と追いかけていった。








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