充電がゼロになるまで。
そう決めて、そうならないとわたしの一日は終わらない。スマホに入ったアプリはぜんぶ、返信がくるまでの暇つぶしだ。今日はあと何回、返信がくるだろうか。
充電残量をカウントダウンする。あと十四パーセント。二十五時十六分。今日のメッセージ総数は三回。あと何回、くるだろうか。
さぁ冒険だ。
小さなころはツツジを秋の花だと思いこんでいた。
春の花だと知ったのは、中学生のころだ。実際に咲いているのを見て春だと思った。なんでこれが秋の花だと思ったのか。見れば見るほど春の花だ。春のちょっと黄金っぽい日差しを浴びて、ピンクの花弁が輝くようになっていた。これが祖母の家の庭でのことだった。
小さなころはこの時間、兄と、姉と、その友だちといっしょに遊んでいた。わたしは大抵、お荷物なので嫌がられていたが、母親が混ぜてあげて、と兄と姉にいって預けるので、厚かましくも着いていった。
わたしは自転車に乗れない。兄、姉の友だちはみんな自転車で来ていた。田舎なので、一番近くの公園までも遠かった。兄、姉が通う小学校まで行くことになった。うちの自転車は一台だったから、兄と姉はいつも交代して乗る。兄と姉のどちらかは、わたしといっしょに歩道を走った。
五歳のころの話で、しかも徒歩だったから、小学校はすごく遠く感じた。
ちょっとした冒険だった。
今この話をしたのは、その小学校にある来賓用駐車場脇の花壇に、ツツジが植えられていたからである。
小学校で遊んでいたべつの子たちとも合流して、兄と、姉と、その友だちは、二、三のグループに分かれて遊びだした。
兄たちは校区内をぐるぐるサイクリングをしに、姉はすぐとなりにある保育園へ遊びにいった。保育園は延長保育をしていて、夕方になっても園内に子どもがいた。
わたしは休んでいるあいだに置いていかれて、姉のバスケクラブ仲間のお姉さんと学校で待った。
夕方五時のチャイムが鳴って、こんな時間に、こんな遠くにいたことがないから、不安になった。
来賓駐車場近くにはまばらに人がいて、一輪車を乗る子が通りかかったり、草を抜いて遊ぶ子がいたりした。
兄や姉はわりとすぐ帰ってきたと思う。
それから帰ろうという話になったけど、わたしは本当に帰れるのかなと思った。まだ学校に残るという人たちもいる。まわりに大人はいないし、怖くないのかなと考えた。行きは姉が走ったため、帰りは兄が走ることになった。兄と並んで走っても、わたしは置いていかれるばかりになる。でも、自分で着いてくるって決めたんだから、なにもいえない。
実際には、小学校は近かったし、春の夕日は思ったより明るかった。なんでもないことだったけど、わたしは不安になって振り返った。
何人かの子が花壇の縁に乗って、綱渡りをするように歩いていた。
日はだんだん暮れていく。
近くの山に夕日がかかって、辺り一帯が影に覆われた。
学校のツツジはみんな濃いピンクで、影にあるとにわかに禍々しく見える。
兄と、姉と、その友だちとに、置いていかれそうになりながら走って帰る。
このときの、不安な気持ちが、もしかしたらツツジを秋の花に思わせていたのかもしれなかった。
何個か前のお題です。
犬のために貧乏をしていることで有名な先輩がいて、それがわたしの好きな人だった。
犬派ですか? 猫派ですか? と分かりきった質問をして甘えていると、先輩が、猫派かな、と言い出して、この人うそみたいな人だなって思った。百瀬さんもそうでしょ、といわれたけど、なにをもってそう思ったのか、わたしはまったくの犬派である。
それから十年経ち、社会人になって、結婚したわたしは犬を飼うことになる。貧乏だったら飼わなかったと思うので、やっぱり犬のために貧乏をしたあのころの十夜先輩はおかしかったと思う。
寝室から起きてきた髪も顔もぐしゃぐしゃのわたしを見て、その十夜さんが、猫みたいだね、といった。
わたしは、十年越しの謎が解けたような、それとも深まったような、たじたじした気持ちになって、その場に立ち尽くした。
だってイバリはそういうことをされていい女の子じゃなかったから、躊躇なく手を振り上げることができた。
軽んじられていい女の子じゃなかったし、ましてや『馬鹿』なんていわれていい女の子じゃなかった。
テルキに笑われた、とわかった途端、カッと顔が熱くなった。
それでそのまま、イートインスペースの端で友だちとしゃべっていたテルキに、手元のお冷をひっかけて、レジにもどってきたのだった。
バイトはクビになった。客に水をかけたから、それだけじゃない。遅刻と無断欠勤が、二回ずつあった。
それに、その日は大雪で、そのくせ仕事が休みにならなかった大人たちが、大勢店にやってきた。店は大忙しだった。
ドリンクを持ったまま転ぶなんて、成人した女の子がやっていいことじゃない。
そのドリンクを浴びた世良先輩や、床を掃除してくれたナミ子さんは、
「疲れたんだよ」
「足は大丈夫?」
といってくれて、悪天候に配達をするのが趣味でその場に偶然居合わせたウーバーさんはおろおろしていたけど、イバリ自身はもう挫けていた。
「テリヤキ。コーラ。あとナゲットでバーベキュー」
とだけいって、スマホを突き出してきた客に、テキヤキバーガーのセットで、サイドメニューがナゲット、ソースがバーベキューソース、お飲み物がコーラですね、といったら、
「は?」
と、怒鳴られたときにはもう、目の前が真っ赤だった。
サイドメニューがポテトで、単品でナゲットと、ソースがバーベキューソースですね、と繰り返してスマホの決済画面のバーコードから会計を終えたとき、あとからポイントカードを出されたときには、責任者に言われずとも今月かぎりで辞めることを、心に決めていた。
発注ミスで仕舞いきれない納品物で、狭い通路はもう一回り狭くなっていた。
重たいダンボールの山に体当たりしながら、「お疲れさまです」「お疲れさまです」「お疲れさまです」と四方八方に挨拶しながら、従業員用扉を開ける。
となりのダイソーとの壁で挟まれた通路から、もうひとつ従業員用扉を開けると、店の駐車場に出ることができた。
イバリが歩くときだけいつも晴れていればいいのに、外に出たタイミングでさらさらと雪が降ってきた。
ダイソーの横につけられた証明写真機の前で、溜まっている老人たちがいた。老人がふたりと、イバリの倍くらいの大人がひとりだ。
イバリの制服を見て、すみませんと声をかけてきた。
イバリは的確に証明写真機の使い方を教えた。
そうしている間に、老人のうちのひとりが、
「この子は障がい者なんです」
と、写真機の中に入った娘を差していった。
言わなくていい、障がいって! と叫んだか、叫ばなかったかわからない。大きく息を吸い込んで、くらっときたときには、うしろにテルキが立っていた。
テルキは、イバリの弟だ。
ぼーっとしている間に、あとはイバリのテルキが入れ替わったみたいだった。
ぜんぶはテルキが言ってくれた。もうちょっと椅子を高くしましょうとか、あと数分待ったら証明写真は出てくるのでとか、僕たちはこれでとか、お礼を言おうとする老人に、言わなくていいので、といって、イバリを連れて去った。
脇の下を掴み、イバリを車に連れていくのを行くのを見て、あの人たちはなにを思っただろうか。
イバリは、ほとんど抱き抱えるようにして、後部座席へ収納された。後部座席にはテルキが乗せてきてくれた歩行補助具があった。それを握りしめながら、イバリは、
「辞める!」
と叫んだ。
「もう辞めるから!」
「叫ばないで、シートベルトして」
「みんな、わたしのことバカにしてる。わたしって、だれにもバカにされていい人間じゃないのに。なんで同情されなきゃいけないわけ? なんで怒鳴られなきゃいけないわけ?」
「だれもバカになんてしないよ。イバリなんか」
シートベルトして、と再度テルキがいう。
「イバリをバカにしてるのは、イバリ自身だよ。……車出さないよ。早くシートベルトして。エンジンを動かさないと、イバリの足が冷えるよ。それで、転んだとき、足は?」
「同情とか!」
「どうでもいいから。早くして。冷えるよ。イバリはがんばってたよ。イバリは平気だよ。普通でそれで大丈夫な人。ちゃんと働けてたよ。見にこれてよかった。自分の姉が働いているところを、見れると思わなかったから」
テルキが淡々というのに、イバリは唇を噛み締めた。
「ほんとにイバリは、飽きさせないね……。唇噛むのやめてね。こうくると思わなかったよ。辞める……辞めるね。そう。ぼくを車で待たせながら、そんな話をしてたんだ? いいよ。好きにしたらいいよ。イバリがこの世で一番大切だからね。バカにされちゃいけないって、僕も思うよ。僕が大切にしてきた人をバカにされたら腹立つからね。傷つくのやめてくれない? やっと店から出てきたと思ったら、制服一枚で人助けしてさ。置いて帰ろうかと思った。他人より自分を大切にしてよ。他人のことは僕を呼べばよかっただろ。これから山まで行って、頂上で降ろして帰ろうか?」
イバリがシートベルトをしたあとにテルキが車を発進させた。
家までは車で五分もかからない。
バイトのシフトが入るたび、テルキが送迎してくれていた。徒歩では二十分の距離を、土日は朝と昼過ぎ、平日はテルキの仕事終わりから、閉店まで。
「だって……」
イバリの声は震えた。
「だって、もう辞めたい。仕事したくない。雪の日に外出たくない。変なおじさんに怒鳴られたくない。それに、テルキだって、わたしに『バカ』って言った」
テルキがバックミラー越しにイバリを見た。
「言ってないよ」
「言った!」
「イバリに嘘なんてつかないよ」
そう、話しているうちにどっと疲労が増すような顔になっていく。
イバリはみるみる顔を歪めていく。
唇を噛まない、といってテルキが注意する。
「ほんとう、ありえない人だよね」
「『バカ』とか、『バーカ』って、二回くらい……言った。口パクで」
「言ってないよ」
だんだんとイバリは自分でも言ってない気がしてきた。
イバリがフロアで転んで、掃除をしていた
思考。
テルキが口元に手を当てた。
「『がんばれ』って言ったんだよ」
「え?」
だから、一瞬どういう意味かわからなかった。
テルキは記憶を掘り出すような顔でつづける。
「だから、ひとつめが『がんばれ』で、ふたつめの部分は、『また』って言ったんだよ。またねって。ねぇ? イバリは、僕をおどろかす遊びをしてる? いつも楽しいことするね。ほんとむかつく」
消えてしまいそうにイバリは肩を丸めた。
「友だちの前で恥をかかされた」
とテルキはいう。
イバリだって、バイトで失敗しているところを弟の友だちに見られたくなかった。でも、言っても、テルキに勝てないのは目に見えていた。
「ごめん」
「いいよ。僕は。イバリのすることだから」
「ごめんなさい」
言わなくていい、というテルキの言葉にも、イバリは胸を塞がれた気持ちになって切なかった。
そのあと、LINEでシフトマネージャーと話して、二月二十八日まで、イバリはシフトに入ることを決めた。
バイトを完全に辞めると、テルキは送迎で車を出すことがなくなった。
三月いっぱいはゆっくりして、四月からまたバイトを探すというのは、テルキからの提案だった。
あるとき、家でテルキを待っているときに、雨が降り出した。
イバリは車を運転できないから、徒歩で駅まで向かいに行くことにした。その日テルキは電車通勤だった。三十分かかってようやく駅に着いた。
LINEもしたし、GPSも入れたままにしておいたし、しっかり着込んでから行ったので、注意されることはないと思っていた。
そのうえ、テルキのためにカイロまで用意していったから、褒められると思った。
「ありがとう。でも僕より自分を大切にしなよ」
といって、カイロはイバリの首に当て返された。
テルキは先を歩いた。
イバリはマフラーを巻いていてすでに暖かかったけど、カイロのせいでさらに暖かくなった。
テルキはしばらく前を向いていたけど、途中でなにかに気づいて、イバリを振り返った。言い忘れていたことがあった、みたいな顔で、イバリに、
「自分を大切にできて、偉いね」
といった。
ココロ。
まず、仰向けになって、体を一番リラックスできる姿勢に整える。手のひらは上向きでもいいし、下向きでも横向きでもいい。とにかく途中で気になって動かさずに済む程度、無意識へ肉体を持っていく。つま先、膝、太もも、手、腹、胸、肩、頭の順で無意識へ持っていく。
これはボディスキャン瞑想といって、つま先からCTスキャンされているようにありのままの肉体を感じ、ありのままで意識を眠りに手放すという入眠法だ。米軍式入眠法ともいわれている。そっちは、逆に頭からつま先へと力を抜いていく。軍で実際に使われているのだ。
通常なら、つま先から頭へ、と意識を移動していくうちに寝落ちするという人がほとんどらしい。わたしは今夜で七回繰り返している。
やり方が悪いのだろうか? ほかにもアリス式入眠法や、478呼吸法、ネットで調べられるかぎりはすべてやり尽くしている。一時間前に入浴するだとか、カフェイン量だとか、アロマ、ヨガ、ホットミルク、ツボ押し、さまざまに気をつけて過ごしている。
薬に頼るのが、もっとも賢いのだろうか?
わたしはまた一、二……と数えはじめる。深呼吸をしながら、つま先、膝……と力を抜いていく。
カラスが鳴きはじめたから、もう朝の四時になるんじゃないだろうか。
肩まで、すっかり力を抜く。もう首から下はわたしのものじゃなくって横たわるまだ腐っていないだけの死体になる。顎からじわじわと蝕んでくる死のスピードはここで一度ゆるやかになる。頬を包まれ、死を耳の表面を混ぜられる。耳が聞こえなくなる。目隠しをされて、目が見えなくなる。このときには、鼻もきかなくなっている。死には匂いがない。だからゆっくりに感じるのだ。気がついたときには窒息している。
そうして呼吸すら不明になった肉体から切り離され、わたしは生きている。つま先から頭のてっぺんまでの意識を吸い取り、魂の一歩手前の存在になってわたしはいる。後頭部あたりから抜け出るイメージだ。わたしは枕元でうずくまっている。
わたしはまだ起きている。わたしはまだ眠れていない。ふしぎに思考は冴え渡っていて、明瞭とした意識を持っている。肉体はわたしのものではなく、もはやだれでもない生きている物そのものになった気がする。
やがて朝がくる。わたしは機械的に起床する。三つかけたアラームの二つ目に起き、不要になった三つ目のアラームを解除する。寒い廊下から洗面所へ行き、歯磨きをする。磨いている間にキッチンへ行き、ポットで湯を沸かす。暖房をつける。カーテンを開ける。湯が湧くのを待っているうちに、手早く洗顔する。コーヒーを淹れ、スキンケアをしながら、ニュースとメールをチェックをする。シリアルを胃に流し込む。服を着替える。メイクをする。ヘアセットをする。トイレに行く。いつもと同じ流れ。鞄の中身と、今日一日のタスクを確認。気温からアウターを選び、全身鏡でチェックしてから、靴を選ぶ。わたしは出勤する。おどろくほどいつも通りに、靴を履き、鍵を開ける。出勤してしまう。ドアノブを握り、そのとき、わたしの後ろ向きな意識は、後頭部から抜け出そうに怖気付いていた。玄関の扉が開く。どうしても行きたくなかった。
北側の扉から朝の光が玄関に満ち、その扉が閉まる前に、わたしの意識は、ブツン、と途切れていた。
つぎに目覚めたときは、玄関は闇で満ちていた。
わたしは扉のほうを見つめたまま、つまり、朝出る直前と同じ感覚のまま、そこに突っ立っていた。突っ立っていた、というのはもちろんイメージで、わたしは単にそこに取り残されていた――残留思念のようになっていただけだったんだろう。
扉が開き、かつてわたしだった肉体が帰ってきた。
扉の向こうはすっかり夜で、わたしだった手が玄関の電気がつけて、現在のことがよくわかるようになった。
帰宅してきたわたしは疲労していた。髪は乱れ、メイクも崩れ、背中が丸まって、丸一日労働してきたOLそのものだった。
わたしだった肉体は機械的に生活をつづけていく。
鞄を部屋に置き、アウターを脱ぎ、手を洗い、買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込む。部屋に暖房をつけ、髪を解き、毛先からブラシで梳き、洗面所でメイクを落とす。服を脱ぎ、服を洗濯機にかけ、風呂に入る。髪を乾かす。スキンケアをする。ご飯の用意をする。ご飯を食べる。食器を洗う。洗濯物を干す。ふしぎなことに、動作ひとつひとつに一切の躊躇がなく、疲れとは切り離されて動けるよう、訓練されているのだった。
疲れと切り離されているんじゃないか。
わたしと切り離されているんだ。
ぼんやりとYouTubeを眺めると、わたしは泥に沈みこむように眠ってしまった。ボディスキャンとか、アリスとか、呼吸法なんて関係ない。肉体は、肉体を回復させるためだけに健やかに眠り、肉体を回復させるためだけに健やかに食べる。基本的で効果的な生存方法。わたしは、わたしだった者のそばで頬杖をつく。肉体が一日切り離していた精神的疲労を、今もわたしは、背負っているんだろうか。押しつぶされそうな負荷が、その瞬間どっと押し寄せ、わたしは悲しみに浸された。わたしは、今日一日なにもしていないのに。なにも見ていない。聞いていない。だれにも意地悪されていない。わたしはわたしとして息をしていない。なのに、いるだけで苦しいのはなんで?
わたしがいなければ、肉体は健康そのものとして社会で働いている。感情さえなければ。わたしは、わたしはだれなのだろう?
わたしだった肉を見つめる。どこに注目していいかわからず、焦点の定まらない捉えどころのない顔の造形は、いや、どこからどこまでが顔と言ったらいいのかも判別がつかない肉だが、ともかく常識的な面積を顔として考えて、でもこれは、とても人間のように見えないのだった。
わたしは後ろ、後ろへ後ずさり、窓からベランダに出る。もちろん、わたしは霊体のようなものだから、実際に出ているのではない。イメージだ。わたしはベランダの手すりに抱きつき、おいおい泣きながら、鉄棒でもするように上半身を乗り出す。勢いをつけて、前に後ろにと体を乗り出し、ひっこめをする。
ところで、今気がついたことだが、幽体離脱をしたわたしの背中の中央には、なんだか管のようなものがついている。これはわたしだったなにかに繋がり、重要な生命維持としての役割を果たしているらしい。つまり、命綱だ。
わたしが、なんど身を投げようとしても、これが命綱になって、止まっていた。
わたしは干された布団のように上半身を乗り出しながら、びしゃびしゃと泣く。
この世に安寧はない。
おもらしかってくらい涙が溢れ、わたしを悲しみで浸していく。
わたしは一生、眠れない。肉体が眠っても、なにも感じなくても、社会で生きていけても、わたしは、わたしひとりだけはこの世で一生眠れないのだ。
そのとき、だれかが、わたしを押した。
もちろん、わたしに実体はないので、これはわたしのイメージに過ぎない。わたしは宙に放り出されて、でも命綱がついているから、どうせ死にっこないと思っていた。
つまりわたしは、比較的落ち着いてそのショッキングな光景をまざまざと目撃することができた。何ヶ月も切っていない髪が風でなびき、顕になった顔の中心で二粒の雫が光った。朝の四時にわたしのベランダに出てこれるなんて、わたし自身以外ありえない。かつてわたしだった、今もどこかわたしと繋がっているわたしは、わたしの背を押すと、自分もそのまま身を投げ出した。
一切の躊躇がない、機械的で、なにを考えているかわからない――なにも考えていなかったんでしょう。だって、やっぱり、わたしはわたしなんだから……――動きで、空を飛んだ。
わたしたちは宙でいっしょになった。
わたしたちは宙でいっしょに安らかになった。
六階から落ちた死体というのは、布団の中で冷たくしているのと違って、無惨に汚れたものだった。
顔面はつぶれて、どこからどこまでが顔かわからない。人間であったのかも定かではない。
でも、これでも、わたしはたしかに、人間として生きてきたんだ。
わたしは事故現場から立ち去る。
わたしは正真正銘、魂の存在になった。
つかの間でつながって、一瞬でぐちゃぐちゃになってしまった死体は、もうわたしとは交わらない。わたしは目頭を擦る。
わたしはがんばった。
人間として疲れ果てて、わたしは、やりきった死体になりたかったのかもしれない。
そんなわたしの背を、だれかが撫でる。もちろん、イメージだ。
わたしは振り返る。わたしは駆けた。一瞬で、かつてわたしだった死体の元に行き、抱きしめた。
死体は、なにを考えているかわからない顔している。
六時半に近所の草むらで起き、七時四十五分に外に出て、活動して、十九時に帰宅する。機械的で、死体に優しい健やかな生活を、勝手に送っている。
わたしはそれに着いていく。
あれから死体は回収された。燃やされて、骨になって、どこかにいった。死体の、家族のもとにいったんだと思う。
けれど、死体はわたしの表面にコピーされたまま、まだここにいる。
つまり、わたしは怪異だけど、実際に存在していて、そういう観点でいえばまったくの怪異というわけではなかった。死体を表面的にコピーしているから、だれからも見えるし、足はあるし、顔はないけど、話したり、聞いたりもできる。
本体はわたしだから、ここにないといえばないけど、在るといえば在る。死体に置いていかれたり、死体に放ったらかしで背を向けて眠られたりするのも、もうおわり。
わたしは今日も死んでいる。
わたしは、心。
そして、大好きな死体となって、ありのままでここにいる。