イルミネーション。
小説。
鏡が落ちているみたいだった。水たまりが銀色に光っている。
地面は黒だ。昼間に雨が降ったから、夜空よりも深い色をしている。
ほかの客はみんないなくなった平日二十二時のアウトレットモールを歩いている。
ショーウィンドウの明かりで、水たまりが光っている。
その水たまりを飛び越えながら、サガミはトイレを探していた。この前いっしょに遊んでいたときも、こいつはトイレに急いでいた。「走ったら余計尿意が近くなるんだぞ」と俺に怒鳴っていた。今は、「動いてなきゃ、ヤバい!」と言って、無駄に大きく手足を振り上げ、走っている。
俺を置いて建物の角に消えていくから、次第に見失ってしまった。
まあ、トイレを目指して行ったら落ち合えるだろう。
登山用品店、家具屋、靴屋……と店員さえも見えない店の前を歩く。コンコースの中央には芝生があって、謎のオブジェにはイルミネーションが点けられていた。
今年の冬はイルミネーションを数えて歩く活動をしている。帰宅部の俺とサガミの自主的な活動だ。民家のイルミネーションも含む。今年どれだけイルミネーションを見たか確かめている。
数えるといっても、実際に何個あったか覚えているわけではなくて、サガミと街を歩くたびに、あそこ、イルミネーションある、あそこにもあると話題にしているだけの遊びだ。
体感じゃ、今年は十五箇所くらい見たかな。想定していたより少なかった。暇さえあればバイトを入れていたから、見る機会が少なかったのかもしれない。
サガミは姉とイルミネーションスポットに行ったと言っていた。
俺なんかはバイトの帰り道に、電灯の少ない、暗い夜道があって、そこに燦然とかがやく一軒家のイルミネーションに出くわしたことがある。
なんであんなに安心するものなんだろう。
日中の疲れも癒されて、俺はその光を道標みたいにして足を踏み出した。いや、あのイルミネーションを誘蛾灯みたいに、俺は光に引き寄せられる蛾みたいにフラフラと歩いた。
燃やし尽くされてみたいよなあって思った。なんかもう、殺してくれーって思ってた。
そしたらその五百メートルほど先から、チャッチャッチャッ……となにか、音が聞こえてきた。あとから思うに、それは幸運の足音だった。五百メートル先の曲がり角から、ぴかぴかに光る首輪をつけた、犬が現れたのだった。犬がアスファルトを歩く音だった。
サガミの飼い犬だった。
そのあとはサガミとふたりでコロの散歩をして帰った。サガミは毎年壮大なイルミネーションをしていることで有名な隣の地区の住宅街まで連れていってくれた。わざと遠回りをしてくれたのだった。
ぴかぴかに光る通りを歩きながら、ずっと俺の話を聞いてくれた。
「――サガミ、大丈夫か?」
トイレに着いた。一番近くのトイレだからサガミはここにいるはずだった。返事はないが、俺の声が聞こえなかったのかもしれない。
俺はトイレの外の壁に背中をもたれさせた。
あの日――俺がバイトでミスをしたあの日――飼い犬のコロを携えながら、サガミは今週末アウトレットモールで遊ぼうと、別れ際に言った。
週末は普通、俺はバイトを入れていた。
久しぶりだった。サガミも、キザキと遊ぶの久しぶりだなーと言っていた。最近はいっしょに帰ることすらしていなかった。
サガミに冬休み、イルミネーションを見たかと聞くと、この街には、輝きが少ない――とサガミは言っていた。
しばらくすると、中から物音が聞こえてきた。
「サガミ、大丈夫だったか? 漏らさなかったか?」
返事がない。
手を洗う音は聞こえてくる。
「だからおまえ、走ったほうが逆にトイレが近くなるって、俺はあれほど」
サガミは応えない。
ブォーー……と手を乾かす音が聞こえる。
俺が中を覗き込むのと、なにか、俺の胸くらいの高さのものが飛び出してくるのが同時だった。
女の子かと思うくらい髪が長い少年がいた。
あわてて飛び退くと、そんな俺の横をすり抜けるようにして走り去っていく。細く、ちぎれそうな髪をうしろで束ねた少年は、俺を睨みつけながら、ときどき前を向いて走った。アウトレットの端のほうにある、英語塾の中へと走っていた。
トイレの中はもうだれもいない。個室にもだれも入っていない。
サガミ、どこ行ったんだよ。
サガミ、漏らさなかったかな。
俺はサガミとはぐれたことに気がついた。
あの方向音痴が。電話したら出るんだろうな? 漏らさなかったんだろうな。
俺はしばしその場に突っ立っていた。
そこに電話がかかってきた。ちょうどかけようとしていたから、よかった、サガミ、どこにいるんだよ、と思いながら、俺は電話に出た。
電話をかけてきたのはサガミだと、少しも疑っていなかった。
「もしもし?」
「おい、キサキ、おまえなにしてるんだよ!」
俺は息を呑む。
「……は」
「はあじゃねぇよ、はあじゃ! おまえぇ!」
怒号が耳を貫く。
「おまえぇっ! なにしてるんだよマジで」
「はあ」
手が震えて冷たいスマホが耳に触れる。
俺は歩き出す。
「無断欠勤してんじゃねぇよ! おまえ、代わりに入るつっただろが。おまえが俺の代わりに入んなかったから、俺が怒られてんだよ。ふざけんなよおまえ」
闇雲にさまよう。俺はチョコレート屋の角を曲がる。サガミはいない。ここら辺の角を曲がったはずなのに。俺は歩き続ける。
バイトの先輩の怒鳴り声は続いている。
「デートをドタキャンしてバイト出たんだけど。おまえ、イルミのチケット代、弁償できんのかよ」
サガミ、どこいったんだろな。
閉店のアナウンスが流れている。ショーウィンドウのマネキンの影を踏んで歩く。
次の角を曲がる。
サガミ、どこにいるんだよ。
足音も聞こえない。俺は広場に出る。広場にはツリーの形をしたイルミネーションがある。まだ光っている。俺はフラフラと歩み寄る。蛾のように。冬の蛾のように。もうじき消される。
何でもないフリ。
今日電車でさ〜!
松葉杖の子がいて、車内は結構混んでいたんです。
松葉杖の子は座席に座れなくて、壁に寄りかかることもできずにいたんです。吊革に掴まっていたんだけど、友だちらしき子がその子の肩に手を回したり、脇腹をつかんだりして折々支えていて、なんかじーんとしながら帰宅しました。俺に席があったら俺の席を譲っていた。
電車が揺れるたびに友だちがその子に手をやって、人が乗り込んでくればさっと空いてるのスペースに誘導することもしていて、俺は無力にも右に左に揺られながら、ああ……なんて、ああ……って人ごみの間から、二人の白いスニーカーを見てたんです。日記。
しれっとした何でもない顔をしていたけど、その下では背中に手が回されていたし、さらにその下では、四本の足のうち一本が松葉杖の横でずっと揺れていた。
セーター。
何日か前のお題です。二千字くらい。
家を出ようとしたところで、マフラーを忘れていたことに気がついた。
そばを通りかかった母親に、マフラーを取ってきて、と頼む。
洗濯もの持ってるの、見たら分かるでしょ、といって、母さんは家の裏口へ消えていく。
だれかー! マフラーとってきてー! と母さん以外に向かって叫んだ。
リビングの扉からひょっこり犬が顔を出した。
ちがう。おまえじゃない。おまえは呼んでない。俺はピースをしっしっと手で追い払う。
ピースはよろこんで玄関に駆けてきた。追い払われているのを、手を振られたと勘違いしている。散歩に行けると思っているのだ。
父さんー! ピース散歩に連れてって! マフラーとってきて! と、ピースが外に出ないよう、ディフェンスしながら俺は叫ぶ。
つぎに出てきたのが、妹だった。妹はしまむらのパジャマワンピースを着ている。リビングと廊下をつなぐ扉は、真ん中が昭和型版ガラスになっていて、水色のかたまりがその前を行ったり来たりしていた。
たったったっと妹は玄関に走ってきた。ぺんぎんの着ぐるみのようなパジャマに、俺の目当てのマフラーを巻いてやってきた。
「返して」
「え?」
「マフラー。あめりじゃない。俺が巻くやつだから」
あめりはえー? と首をかしげている。
俺はあめりが巻いているマフラーをぐい、と引っ張った。
あめりがわざとらしく、あーれーといいながら、その場でくるくると回った。鼻にしわを寄せて、はしゃいでいる。仰け反りすぎて、鼻の穴が見える。あめりはあまり可愛くない。着物の帯が剥ぎ取られるみたいに、あめりの首からマフラーが解けた。
回転を終えたあめりは、両手を上にあげて俺に突進してきた。目が回って、よろけたという体で、俺に抱きついてくる。
俺はそれを押し返した。少し突き飛ばす勢いだったかもしれない。ピースも、家族の靴も蹴散らすようにして、俺は家を出た。
扉の内側で妹のおどろく声がする。犬が興奮している声もある。ふたつのなき声を聞きつけたのか、母親の高い声も聞こえる。父親は風呂掃除をしていたのか、不意打ちを食らったような間の抜けた声が、風呂場から聞こえた。
坂を駆けあがるように、落ち葉が下から上に舞い上がっている。
俺は風に前髪をかきあげられながら、つんのめるように坂をくだる。
近道で公園を突っ切る。ぐじゅぐじゅの銀杏を二個踏んむ。俺が近くを通っているのに、カラスがいつまでも逃げ出さない。アホーアホーと泣きわめかれる。
バイト先に着いてから、マフラーを右手に握りしめたままだと気がついた。
更衣室の鏡で見た顔は、寒さで赤い。
マフラーは、あめりがばあちゃんといっしょに編んだと聞いている。とはいっても、きっと半分以上ばあちゃんに編ませたに決まっている。あめりは母さんに似ていて、母さんの一族は総じて不器用だ。マフラーを編んだばあちゃんとは、父方の祖母だ。家のリビングには、ばあちゃんからもらった毛糸がたくさんある。けど、あれが使われているのは見たことがない。
歩いて振り回したマフラーは冷たくなっていた。
学校に行って、部活をして、一回家に帰って、学校とは反対側のファミレスに働きに行く。つぎに家に帰るのは二十二時を過ぎるから、俺は先に夕飯を食べている。
家に帰り着くころには、あめりは部屋に入って寝ているだろう。
玄関に入ると、夕方俺が散らかしていった父さんのスリッパが、そのまま裏返されていた。
脱衣所から出てきた母さんが、お風呂湧いてるわよ、といいながら、洗濯ものを抱えてリビングに消えていく。
あとを追って、リビングに入った。リビングの中はあたたかかった。バッグと、マフラーと、コートを椅子に投げ出して、手を洗って、麦茶を飲む。
振り向くと、タオルケットを被っているあめりが見えた。あめりはリビングにいた。リビングの中央のソファーで寝ていた。今まで起きていたらしく、そばにタブレットが転がっている。
ピースはその足元で丸くなっている。俺の方向を目だけで見上げて、鼻だけですぴよと鳴いた。
母さんは父さんに手伝いなさいよ、といって、洗濯ものを部屋に干している。
父さんはYouTubeで動画を観ながら、パピコのセーターを編んでいた。
押し花の栞。
SSお題診断メーカーで出たお題です。二千五百字くらい。
押し花の栞を作りたいということでホームセンターにまで出かけることになった。
押し花というのは、好きな花をティッシュで挟んで、上に重しを置き、花の水分を取って作るらしい。均等に重さが加わるように、花のガクを取ったり、花弁の重なりをなくしたりする工夫がいる。それでできたものをラミネート加工して、栞にする。
好きな花がないとイバリがいうので、ホームセンターに行って花を買うことになった。
好きな花を買い、育て、満開になったところで、その一本を摘んだ。
さてこれから作るのかと思ったら、重しにする本がないといいだした。適当な教科書や辞書を積んでおけばいいのに、好きな本で作りたいのだと言って、今度は図書館に駆り出される。とびきりロマンチックなフランス文学をイバリは五冊借りてくる。
帰り道にセリアでラミネートを購入する。二枚入りのラミネートだった。……ひとつしか栞は作らないのに。そう思う気持ちをかろうじて抑え込む。
花を本で挟んで、一夜明けたところ、そろそろできたかなと思って本を開こうとしたら、イバリに叱られた。押し花ができあがるには数週間かかるらしい。花の水やりでもしてなさい! と、ホームセンターで買ってきたイバリの花を、僕が世話させられる。
イバリにはなにからなにまで金と労力がかかる。
晩ご飯を買った帰り道に、ブックオフに寄ろうとしたら、頭を叩かれて違う方向を指さされる。イバリに言われるがまま車を運転すると、TSUTAYAに着いた。
「栞を使う本を買うの!」と言って、店内を連れ回された。
「この前、図書館で借りた本があるじゃないか」
「あれは重し用。今探しているのは栞を使う用よ」
「図書館で借りた本でいいんじゃないの?」
「よくないの」
「僕が持っている本を貸すよ」
「あんたの趣味じゃ、だめよ!」
イバリは普段本を読まない。
どんな本がいいと思う? と聞かれ、こんなのがいいんじゃないかな、ほら、えらい賞も取ってる、と僕が気になっている本を勧めてみると、そんなの嫌! と言われる。
その日はイバリのお気に召すものがなかったらしく、僕は車内に置いた冷凍枝豆と明治エッセルスーパーカップを気にしながら、帰路を急ぐことになる。
イバリの本選びにはそれからも付き合わされる。
ある日、明屋書店で一八九〇円のハードカバーの本を選ばれそうになった。僕はイバリの注意を逸らすために必死になった。イバリは本を読まない。読まない人に、本をぱっと買ってあげられない弟でごめんよ、と内心で思ってもない謝罪をする。どうせイバリが読まない本を買うくらいなら、僕が読みたい七七〇円の文庫本がほしい。
イバリは夜な夜な押し花の様子をのぞき、あとどれくらいでできるかを予測する、僕が見ようとすると追い払う、というのを繰り返した。
押し花はいい調子らしかった。あと二日ぐらいしたらいい感じになると言っていた。よかったね、としか僕は言えない。
イバリは、本を読まないし、花を育てられないし、車も運転できない。
「なにがしたかったの?」
と、聞くと、怒られると思ったのかイバリがそっぽを向いた。はじめに押し花を作りたいといいはじめたときから、この調子だ。
すっかり固くなってしまったイバリをなぐさめ、布団に収めると、僕はイバリの寝室を出ようとした。
ふわふわに天日干しして、さっきまでイバリの布団を電気毛布であたためておいたのは僕だ。その布団を跳ね除け、イバリが起き上がった。
あーあ。僕が乾かしてあげた髪を、イバリは両手でぐしゃぐしゃとかき乱す。
イバリは足が悪い。車椅子で移動することもある。立ち上がれないイバリの代わりに、僕はイバリに近づいた。
イバリはむしゃくしゃした様子で唇を噛み締めているので、それやめてと僕はいう。
「だって! 喜ぶかと思ったの!」
「なんの話? 唇噛まないで」
「わたしがあげたら、喜ぶかと思ったの!」
そこでようやく僕は、イバリが僕に栞をプレゼントしようとしていたことを知る。
「うっそだあ」
イバリが顔を歪めた。
この人、たったこれだけで傷ついて、今までどうしてきたのだろうか、と頭の片隅で考える。今までどうにもならなかったから、僕を頼ってきたのか――僕がイバリと暮らしはじめたのは二年前だ。両親の離婚で僕とイバリは子どものころに住むところをべつにしていた――自問自答して僕は満足する。
「そんなことしなくていいのに」
「はっ? ひどい! ひっどい。お姉ちゃんに向かって」
「『お姉ちゃん』? イバリになんて、お姉ちゃんなんて呼ばないよ」
僕は呆れて冷たい声が出た。
「僕、寝たいんだけど」
帰っていいかな。
この人は、僕が食事から寝る場所までお世話しているのに、プレゼントなんてなにを言っているんだかわからない。僕がイバリに望むのは、イバリがただ寝て食べて、無害でいてくれることだけだ。
「変な人だね……そんなことしなくていいのに。おかしなことをする。僕の好きな花も、本も知らないのに。いいよ。イバリサンはえらく楽しそうだったね。僕のことをたくさん考えてくれてどうもありがとう。僕のために、何週間も前から、僕に花を育てさせるところからはじめて、僕に車を出させて、本を買わせて……。本当に、こんなに人に命令できるのはイバリだけだよ。ちょっと。唇噛まないで。ほら。目を擦らない。……。本当、変わった人だね……」
僕はイバリの肩を押して、再度ベッドに横たわらせる。布団をイバリの肩まで引き上げた。
後部座席で僕に行先を命令していた、イバリのことを思い出した。イバリは滅多に外に出ない僕を休日に連れ回して、楽しそうだった。
イバリが楽しそうなら、もうそれでいいかと僕は思った。
ありがとうと、再度いうと、イバリは眉を寄せた。
イバリを重たい布団の下に閉じ込めて、僕は手でイバリの目元を覆う。ベッドサイドのランプを消す。部屋が真っ暗になる。僕はゆっくりイバリの部屋から出て、カチャンと、扉を静かに閉じる。
冬になったら。
小説。
何日か前のテーマです。
長野県木曽郡木曽町・王滝村と、岐阜県下呂市・高山市――御嶽山はそこにある。東日本火山帯の西端に位置していて、標高は3,067 m。複合成層火山だ。
弟は御嶽山で働いている。いわゆる山小屋バイトだ。
大学二年生のころからはじめて、今年で四回目になる。夏休みに二ヶ月、卒業してからは六月から十月の四ヶ月間、働いている。
朝の四時に起きて、五時半までに清掃と調理を終わらせる。五時半からが宿泊客の食事時間だからだ。自分の食事は皿洗いをすませて、八時ごろ。
昼食までは少し時間があって、それまで持ち回りで館内のそうじをするらしい。弟はSNS担当だったので、朝十時ごろに山小屋のFacebookを更新していた。
ランチは十一時から十三時までの二時間営業している。ランチのあとは職員には昼休みがあたえられた。天気がいい日には職場の人と山を登ることもあったそうだ。
夏前に登って、夏がおわったら帰ってくる。
父さんも山の仕事をしていた。父さんは山岳警備隊員で、遭難者の救助に出たときに雪崩に巻き込まれて死んでしまった。
「血かしらね」とつぶやくお母さんの頼りない声を、聞いたことがある。
結婚してもわたしが実家を離れられないのは、こういうところがあるからかもしれない。
「あなたたちだけはせめて、って山から遠ざけていたのが悪かったのかしらねぇ」とお母さんは言った。「お父さんも、山馬鹿だった……」
年中山に勤めているお父さんと違って、トウヤは夏を過ぎれば帰ってくる。「夏が過ぎれば……」わたしはそう言って励ますしかなかった。
トウヤはあの山のなにに魅入られているんだろう。
山のてっぺんのほうが、天国が近いのだろうか。いつか帰ってこなくなるんじゃないかと思うと、トウヤの仕事を心から応援できなくなるのだった。
その日はうなされて目が覚めた。ああ、寝過ごした、って思いながら起きた。焦りながら起きるなんて、最悪だ。最悪な朝だ。寝過ごしたって自分でわかっていた。早く起きなきゃいけなかったのに。
仮眠するだけのつもりだったのに、随分深く眠っていた。
お母さんは、がんばりすぎよ、とか、産後なのよ、とか言ってくれるけど、どう休んだらいいかなんて分からなくなっている。
マフユは大人しい子で、夜泣きもほとんどしない。けど、そろそろ目覚めるはずだった。
いつも猫が鳴くようなふにゃふにゃした声で呼んで、こんなにやわらかくて、生きていけるのかしらと思うような肌をしている。なにもかもがちっちゃい……。わたしは少しもこの子に我慢させちゃいけない気持ちになる。すぐ駆けつけて、この子がわたしにしがみついてくるのを見ると、ああ、と涙が出てきそうな新鮮な感動を、今でも持つ。がんばらないなんて、意味がわからない。
マフユは……。
マフユを探して、うすら目を開けると、わたしのお腹の上で猫が寝ていた。ぷーっといびきをかいて寝ている。わたしがうなされた原因はこれらしい。
猫に体を封じられながら、首だけを動かしてベビーベッドを見る。
マフユは、泣いていないみたいだけど、どうしてるだろう。マサヒロさんが見ててくれたのかな……それとも、お母さん?
冬の遅い朝日が部屋に差し込んでいる。
カーテンに切り取られた黄色い光の中に、だれかがいた。男の人だ。男の人が、ベビーベッドをのぞきこんでいる。丸まった、広い背中……。
お父さん――。
わたしは泣きそうなのをこらえて、べつの言葉を口にした。
「おかえり……」
わたしの赤ちゃんをこっそり覗きこんでいたトウヤは、わたしを振り向くと、雪も溶けそうにはにかんだ。
たくさんの想い出。
アルバムというものに縁がない。
十二歳の夏に両親の離婚で、田舎に引っ越して、卒業のときにもらったアルバムにほとんど俺は写っていなかった。中学のころは不登校で、高校からは通信制の学校にした。学校行事はほぼ参加しなかったし、参加しなきゃいけないときでも、写真に写りたくなかったら、避けてていいよ〜と言われた。アルバムを作るのは作りたい人だけでよかった。
そもそも実家にもそういう文化がない。みんな根暗で、インドアだったし、俺は四人兄弟の末っ子で七五三もしなかった。
だから、「写真整理をしてて懐かしくなってさ」なんて理由で連絡してくる奴なんて、信用ならないのだ。
「ほら、オレオレ。覚えてない? 小学校のころいっしょだっただろ。中学もいっしょだった。クラスは違ったけどな。当ててみろよ。俺の名前。言える? ヒロセマサタカ〜? 言える〜?」
俺は電話を切るべきか迷った。迷って、切らなかった。
なんで俺の名前を知っているんだろう。
電話の向こうの男は、ミナミ小の同窓会の主催をしていて、それで俺に誘いをかけてきたのだそうだ。ミナミ小は俺が親の離婚後に通っていた小学校で、男が語る数々の思い出――当時の担任の名前や、卒業式で歌った曲に矛盾はなかった。
「……詐欺かなって思ってさ」
一昨日あった電話についてそういうと、二つ年上の兄は首を傾げた。
「えー? なんで? 担任の名前合ってたんだろ?」
「うん」
「旅立ちの日に歌ったんだろ?」
「うん。けどさ、そんなことって、調べれば分かるだろ? 俺みたいに同窓生を騙して聞き出すとか」
「調べてなんの意味があるんだよ!」
「だから、詐欺とか」
「はーっ!? おまえみたいなフリーター、わざわざ狙うかよ!」
それをいわれたらなにも言えない。
「で、同窓会は断ったんだな、マサタカ。まあ、それがいいよ、大体、昔の知り合いって奴らはな……」
「いや、行くことにしたよ」
「はーっ!?」
おまえと話すの、めんどくせー! といって、アキは電話を切ってしまった。
俺はため息をついて店内にもどる。
同窓会前に、個人的に会わないかと誘われ、俺は今電話の男と待ち合わせをしている。俺が喫茶店に入ったのは午後四時ちょっと前。サガミケンゴは、アキの電話より少し前に、遅れると連絡してきた。
これからなにが起こるんだろう……。
サガミが来るまで気晴らししたかったが、兄以外に電話をかける友だちもいない。適当なスマホゲームをして、コーヒーをすすった。
サガミケンゴというのは、たしかに小学校からの同級生の名前だった。
サガミケンゴは中学三年の夏に事故死したはずだ。
詐欺だとしたって、わざわざ死んだ奴の名前を騙ってくるか?
いっそ会わないほうが気味が悪くて、人目のあるところで会う約束をしたけど、土壇場になって怖くなってきた。
「積もる話もあるしさ!」といって、サガミは誘ったが、積もる話なんてこっちにはない。あるはずがない。
生きていたサガミとは、クラスが同じ以上の接点はなかった。サガミは中三で死んだ。ありふれた交通事故だった。サガミが飛び出した。サガミとその日遊ぶ予定だったという、同級生の友だちの、友だちと、同じ美術部員から教えてもらった。サガミは、待ち合わせに遅れていたそうだ。
こんなことなら、アルバムなんて捨てなきゃよかった。
俺はサガミの顔を覚えていない。死んだのが本当にサガミだったかも今じゃ疑わしい。俺の記憶違いってことはないだろうか? 学生時代の記憶は封印していた。実家を出てから、俺は一度も地元に帰っていない。
待ち合わせから一時間以上経っていた。
緊張感がつづかなくなって、俺は席を立った。トイレに行くと人が入っていた。待つか、もう店を出るかで迷った。
そのうちに俺のうしろに人が並びはじめた。男ひとりだ。
「すみません……」
と、いって、俺は横を通り抜け、立ち去ろうとした。
「――ヒロセマサタカ?」
「え?」
「ヒロセマサタカじゃね?」
息が止まるかと思った。
俺は相手の顔もよく見ずに、「人違いです!」と叫んで、その場を飛び出した。モスグリーンのコートだけ目に入った。
席にもどり、鞄をひっつかむと、慌てて会計をして外に出た。
心臓がバクバクいっている。
はじめは早足だったのが、速度を上げ、いつの間にか俺は走っていた。散歩中の犬に吠えられたり、人に怯えられたりしながら、家路を急ぐ。ここまでくれば、あいつは追いついて来られないだろうと思った。振り向いてもいないし、追いついてくるはずがない。
俺のうしろから車が駆け抜けて行ったのはそのときだった。
ものすごいスピードの車を振り返ると、すぐそこの横断歩道で大きな音がした。ドッ! というような、ボッ! というような。
視線の先でさっきの車がひとり人を轢き逃げ、その向こうのコンビニに頭から突っ込んでいるところだった。
すぐ近くで起こった事故で、轢かれた人の服装まで分かる位置にいた。轢かれた人の服はモスグリーンなんかじゃなかった。呆然と俺が立ち尽くしていると、人が駆けつけてきて、轢かれた人の知り合いだったのか、その人の名前を叫んだ。「ケンゴ! ケンゴ! ケンゴ! ケンゴ! ケンゴ! ケンゴ!」
俺は声にならない悲鳴をあげると、またもや駆け出した。
アキの番号を呼び出して、アキが出てくれるのを待った。アキは出ない。ハッハッ息を荒らげながら、俺は呼び出し音を聞きつづける。
冬の日暮れは早い。
アキへの呼び出しをやめて、すぐ俺に電話がかかってきた。折り返し電話だと思った。アキからの。
「アっ、アキ!」
俺はすぐに電話に出た。
「あ、もしもし? ヒロセマサタカ〜? 遅刻してごめん。ちょっと外せない用事あってさ。ちょっと言えないんだけど。本当反省してる。飯奢るし、いくらでも飲んでいいから。俺、車持ってるから。俺、車好きなんだよね〜。今から行くわ。今、家なんだ。十五分で着くから。ごめんな〜めちゃくちゃ待たせて。今、行くから、ヒロセマサタカ」
宝物。
大事なものはみんなベッドの下に落ちていく法則があって、探し物があるときは大抵ここを覗き込めばいい。
お気に入りのブランケットとか、貰い物の万年筆だとか、高かったイヤホンとか。思うに、寝る前に抱きしめたり、眺めたりしているから落ちてしまうんだと思う。
ベッドと壁の隙間から転がりでてきた結婚指輪を握りしめて、わたしはほっと息をもらす。
「ごめん、見つかったよ」と声をあげて夫に知らせた。
……返事がない。
わたしが「指輪なくしちゃった」と言ったとき、夫はすかさず「またプレゼントしてあげる」と言ってくれた。「ありがとう! 見つかったよ」と、わたしは叫ぶけど、夫の返事はない。
「ねぇ、本当にごめんなさい。あんなに騒いで……指輪、見つかったからさ……」
夫の部屋を覗きこむと、夫は、ベッドの上で物を探していたような体勢で、ベッドと壁の隙間に嵌りこみもがいていた。
はなればなれ。
小説。
駅に着くまでの信号の移り変わりを分単位で記憶している。
朝七時三十二分に家を出ると、三十七分に最初の信号に着く。土日だとこれがちょっと変わって、三十七か三十八分のどちらかになるが、平日なら、かならず三十七分だ。
ここでスムーズにひとつめの信号を通過する。
ふたつめの信号はうまく渡れれる日と渡れない日がある。
駅から家に行くときは、うまくいく。信号がつぎつぎに青になって現れるけど、家から駅に、逆に向かうときは無理だ。今とか。一度信号にひっかかって待つか、早足で渡りきるしかない。
俺は青信号のタイムリミットを見越して、余裕で横断する。
三つ目の信号のむこうはパチンコだ。ニシ駅の前にはパチンコがある。ここで群がるおじさんや、おばさんや、路上喫煙している人たちを避けたいときは、遠回りして裏道から行くべきだ。
ただ、今日は時間がない。俺は三つ目の信号を走り抜け、パチンコの前に乗り出す。
あとは全力疾走して駅に駆け込むだけだ。
今日は電車に乗って大学……ではなく、電鉄に乗ってツノガヤの家に行かなければならない。
ツノガヤん家のペットのカブトムシが死んだそうだ。
あと、彼女に振られたっていってた。ツノガヤは今、泣きながらカブトムシの死骸を埋めているらしい。
俺はうしろを振り向いて、サガミが俺に着いてきていないことに気がついた。
「おい! サガミ」
サガミはいっこ前の信号で止まっていた。両膝に手を置いて、ぜいぜい息をしている。
ツノガヤん家に行こう! といったのはこいつなのに。
サガミがスマホを取り出した。
それから俺のスマホに着信がくる。俺に電話をかけてきたらしい。
直接叫ぶなりすればいいのに。この距離だぞ。
横断歩道ひとつの距離で、俺はサガミからの電話をとった。
「もしもし?」
「キザキ……俺のことは置いていっていいから……ンゲホッごほごほ」
「体力カスすぎだろおまえ」
電話のむこうでサガミの荒い息遣いが聞こえる。
「置いていっていいからとか……たかだか失恋だろ。ツノガヤの。ツノガヤの失恋とか、俺はどうでもいいんだよ。おまえがからかいに行きたい! っていうから付き合ってんのに」
「いいからっ。行け」
行ったって意味ないし……。
俺は駅までの信号の青になる時間を秒単位で把握している。あと十数秒でここの信号が青になることが分かっていた。
「サガミが行かないなら、俺も行かないから。焦らなくていいから。サガミ。ゆっくり学校行こうぜ」
慰めてやってるというのに、サガミは顔をあげると、キッと俺を睨みつけた。
サガミは叫んだ。
「たかだか失恋? 失恋だけじゃない! ツノガヤは、ペットのカブトムシが死んで悲しんでるんだ。友だちが悲しんでいるときに駆けつけなくて、なにが友だち……ンゲホゴホッ……だから早く、カヤマさんといっしょに、ツノガヤのもとへ……アハハハ」
いいながら笑ってんじゃん。
サガミがむこうでゲラゲラ笑っている。自分で言って、自分でツボってるらしい。世話ないな。電話の必要がないくらいの大きな声をあげている。
「カヤマさんが、おまえが行かないと、カヤマさんがひとりで参列することになんじゃん、カブトムシの葬式! アハハ」
ふと右を向くと、うわさのカヤマさんが車道を挟んでむこう側の歩道にいた。
カヤマさんも今朝、グループチャットでサガミに駆り出されていた。
カヤマさんと俺はおなじアパートのとなりの部屋に住んでいる。今の時間にこんな場所にいて、カヤマさんは俺らと同様、カブトムシの埋葬に間に合わないだろう。
ゲラゲラ笑っているサガミや、俺に気づくことなく、カヤマさんはもう三秒で青になる赤信号を、全力で駆け抜けていく。