読了ありがとうございました!

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11/17/2024, 9:52:52 AM

はなればなれ。
小説。













 駅に着くまでの信号の移り変わりを分単位で記憶している。
 朝七時三十二分に家を出ると、三十七分に最初の信号に着く。土日だとこれがちょっと変わって、三十七か三十八分のどちらかになるが、平日なら、かならず三十七分だ。
 ここでスムーズにひとつめの信号を通過する。

 ふたつめの信号はうまく渡れれる日と渡れない日がある。
 駅から家に行くときは、うまくいく。信号がつぎつぎに青になって現れるけど、家から駅に、逆に向かうときは無理だ。今とか。一度信号にひっかかって待つか、早足で渡りきるしかない。
 俺は青信号のタイムリミットを見越して、余裕で横断する。

 三つ目の信号のむこうはパチンコだ。ニシ駅の前にはパチンコがある。ここで群がるおじさんや、おばさんや、路上喫煙している人たちを避けたいときは、遠回りして裏道から行くべきだ。
 ただ、今日は時間がない。俺は三つ目の信号を走り抜け、パチンコの前に乗り出す。
 あとは全力疾走して駅に駆け込むだけだ。

 今日は電車に乗って大学……ではなく、電鉄に乗ってツノガヤの家に行かなければならない。
 ツノガヤん家のペットのカブトムシが死んだそうだ。
 あと、彼女に振られたっていってた。ツノガヤは今、泣きながらカブトムシの死骸を埋めているらしい。
 俺はうしろを振り向いて、サガミが俺に着いてきていないことに気がついた。

「おい! サガミ」

 サガミはいっこ前の信号で止まっていた。両膝に手を置いて、ぜいぜい息をしている。
 ツノガヤん家に行こう! といったのはこいつなのに。
 サガミがスマホを取り出した。
 それから俺のスマホに着信がくる。俺に電話をかけてきたらしい。
 直接叫ぶなりすればいいのに。この距離だぞ。
 横断歩道ひとつの距離で、俺はサガミからの電話をとった。

「もしもし?」
「キザキ……俺のことは置いていっていいから……ンゲホッごほごほ」
「体力カスすぎだろおまえ」

 電話のむこうでサガミの荒い息遣いが聞こえる。

「置いていっていいからとか……たかだか失恋だろ。ツノガヤの。ツノガヤの失恋とか、俺はどうでもいいんだよ。おまえがからかいに行きたい! っていうから付き合ってんのに」
「いいからっ。行け」

 行ったって意味ないし……。
 俺は駅までの信号の青になる時間を秒単位で把握している。あと十数秒でここの信号が青になることが分かっていた。

「サガミが行かないなら、俺も行かないから。焦らなくていいから。サガミ。ゆっくり学校行こうぜ」

 慰めてやってるというのに、サガミは顔をあげると、キッと俺を睨みつけた。
 サガミは叫んだ。

「たかだか失恋? 失恋だけじゃない! ツノガヤは、ペットのカブトムシが死んで悲しんでるんだ。友だちが悲しんでいるときに駆けつけなくて、なにが友だち……ンゲホゴホッ……だから早く、カヤマさんといっしょに、ツノガヤのもとへ……アハハハ」

 いいながら笑ってんじゃん。
 サガミがむこうでゲラゲラ笑っている。自分で言って、自分でツボってるらしい。世話ないな。電話の必要がないくらいの大きな声をあげている。

「カヤマさんが、おまえが行かないと、カヤマさんがひとりで参列することになんじゃん、カブトムシの葬式! アハハ」

 ふと右を向くと、うわさのカヤマさんが車道を挟んでむこう側の歩道にいた。
 カヤマさんも今朝、グループチャットでサガミに駆り出されていた。
 カヤマさんと俺はおなじアパートのとなりの部屋に住んでいる。今の時間にこんな場所にいて、カヤマさんは俺らと同様、カブトムシの埋葬に間に合わないだろう。
 ゲラゲラ笑っているサガミや、俺に気づくことなく、カヤマさんはもう三秒で青になる赤信号を、全力で駆け抜けていく。









11/16/2024, 9:17:22 AM

子猫。
小説。










 俺に唯一懐いてくれた猫がかわいくって、スーパーでちくわを買ってきては、食べさせるということをしていた。

 となりの家のわるばばは「ちくわなんて辛いもんやるな!」とか「放し飼いにするな!」とかガミガミ怒るけど、俺はいつも聞き流している。

 俺から逃げなかった猫なんて、はじめてだ。
 俺はあばれる猫の腹に顔を押し付ける。どくどくどくどく、人間よりずっと早い心臓の音がした。
 うすいお腹。
 あっという間に死んじゃうんじゃないだろうか。
 わるばばに相談すると、「……動物病院で定期検診を受けさせるんだよ」といわれる。金ない……とメソメソしていうと、また怒られた。

 俺が地元に帰ったときは、わるばばがちくわの面倒をみていてくれたらしかった。
 人類はびっくりするほど猫にやさしい。
 俺と顔を合わせるたび「へっ!」とガンをつけてくるわるばばが、ちくわにはめろめろで、猫なで声を出している。

「ちーちゃん、そこにいるのよ。お兄ちゃん帰ってくるからね」

 と、わるばばの声がしてから、扉が開いた。
 俺の顔を見て、わるばばが「へんっ!」と唇を歪めた。

「これ、おみやげ」

 ちくわを世話してくれたお礼を兼ねて渡すと、わるばばはじっと警戒の目で俺を見てから、俺から紙袋を受け取った。目の前にあっても、おみやげを買ってきてもらえたとは信じきれていないようだった。
 実家に帰れ、っていったのはわるばばなのに。
 中を覗き込んでから、「こんな量ひとりで食べきれるわけなきゃろーが……」といった。

 たまに顔も見せんなんて、親不孝モンや! と、わるばばにいわれたことがある。
 ほかにも、ごみを分別しないだの、夜遅くにうるさいスポーツカーで帰ってくるだので、俺はわるばばに嫌われている。

「|子乃《ねの》さん、明日は買い物は? 車を出してあげる」
「いらね、んなもん」

 わるばばめ。
 子乃さんはそっぽを向く。
 俺はボロボロで古びた子乃さんの家に、この夏、エアコンを設置してあげた実績がある。

「こたつは出した? 俺がまたやってあげるよ」
「あんたがこたつに入りたいだけで、しょっ」

 といって、子乃さんはおみやげも受け取らず、扉も閉めず、部屋の奥へもどってしまう。

「子乃さん、ぽっくり逝っちゃいそうなんだもんー。ねー。交通事故とか、餅つまらせるとか、凍死とか」
「うるさいわねっ」

 子乃さんは黙ってやかんを沸かしはじめた。
 俺はまごまごと靴を脱ぎ、家に上がる。子乃さんのお茶の準備を手伝った。
 ちらっと見えた部屋の奥は、こたつが出ていた。
 きっと、あの中に猫がいるんたろう。





11/14/2024, 5:17:55 PM

また会いましょう。
小説。
昨日(2024/11/13)のテーマです。
今日のテーマ秋風は、下にあります。











 わたしは図書館でダンセイニを探していた。一度、利用者用資料検索機で調べ、分類番号と著者記号を覚えておいた。
 なのに書架の前に行くと、ふしぎと見つからない。
 貸出中なのかと思って、もう一度検索機で調べに行ってみる。貸出可になっている。
 なんでなんだろう。もう一度書架の前にもどってみると、今度はあんなに見つけられなかったのが嘘のように目の前にある。

 喜んで本を引き抜いた。すると隙間から書架の向こう側が見えた。向こう側にも人がいたようだった。わたしより背が高くて、はじめにその人の顔の下半分が見えた。目線をあげると目があった。
 これがオリベ先輩だった。

 これまでどこでなにをしていたか知らない。かわいがってくれた教授の誘いを蹴って、北極のレンジャー教育施設へ短期留学生してしまった……とは、友だちから聞いた話だ。わたしは知らなかった。そもそも、教えてもらえるような関係でもなかった。
 こんなところでばったりと出会うなんて。思ってもみない幸運にわたしの頭は茹だりそうだった。

 オリベ先輩は踵を返し、歩いていってしまう。
 図書館では大声を出すことも、走ることもしてはいけない。
 わたしはできる限りの早足でオリベ先輩を追いかけた。書架をひとつ挟んだ向こうをオリベ先輩が歩いている。
 並行になって追いかけていると、先輩が角を曲がった。先輩は専門書の並ぶ奥のほうへ消えていった。
 わたしはぐるぐるとそこを回ったけど、書架にはどんなマジックがかかっているのか、先輩の行方はわからなかった。

 外に出てはいないはず……。
 今日は大雨だった。朝はそんなにひどくなかったんだけど、図書館に入ったところで大荒れになった。ものすごい量の雨が窓を伝っている。
 図書館には雨やどりに来て、出るに出られなくなった人たちで息を殺している。
 外で大きな雷が鳴った。

 料理本から、建築、教育、自然科学、と棚を覗いていくと、向こうの通路からおなじようにこちらを覗き込んでいる人が見えた。
 書架をひとつ挟んで向こうの通路から、男の人が棚を覗き込んでいる。あの人もだれかを探しているんだろうか。
 ぴったりわたしとおなじ歩幅なので、覗くたびにわたしと顔を合わせる羽目になった。

 三回合わせてから、おかしなことをしてしまった、とわたしは立ち止まった。向こうも立ち止まり、わたしのほうを向いて会釈した。
 わたしは通路から通路に向かって声をかけた。

「背の高い眼鏡の男の人を見ませんでしたか」

 向こうの男の人は眉を上げた。

「だれかお探しですか」
「ええ。あなたもですか」
「はい。はじめは本を探していたんですけど……」
「わたしもです」

 わたしたちは歩み寄って話した。

「外は雷雨ですから」
「ええ。中にいると思います」
「はい。健闘を祈ります」
「それは悪魔に」

 男性はふらっと立ち去ってしまった。
 わたしも気まずくなって、彼とは反対方向に踵を返した。
 すると、いた。先輩が、閲覧席にすわっていた。
 わたしは近くの棚からチョコレートの歴史という本を取り出し、先輩のとなりに座った。

「オリベ先輩ですよね」

 と、いうと、先輩は「私語禁止ですよね」とつめたく言った。なによちょっとくらい。先輩は目線ひとつくれなかった。
 なにを読んでいるのか気になったけど、詮索するのはマナー違反かとおもって黙った。
 先輩は本から栞を抜き出すと、ポケットからはボールペンを取り出した。文春文庫の栞になにかを書きつけると、わたしに渡した。
 それから席を立つと、つかつかとカウンターに歩いていってしまう。

「外は雨ですよっ!」

 と声をかけると、人差し指を唇に当てて振り向いた。

「瞬間移動で帰れます」
「そんなことできるわけない」
「冬には魔法が起きるんです」
「この栞、どういうことですか」
「願いを口にすると悪魔に邪魔されるから、魔法を使うときも魔法使いは一言もしゃべっちゃいけないんです」

 適当なことをいって、先輩は出ていく。

















秋風。


 家に帰りたくなくてベンチでうずくまっていると、小学校低学年くらいの子どもたちが、落ち葉シャワーで歓声をあげていた。
 両手いっぱいにかかえて「せーの!」と舞いあげて遊んでいる。

 呆然として眺めていると、中学年くらいの女の子たちがそばにやってきた。
「おねいさんどうしたの?」
 落ち込んでるみたいだったから……といって、名前のわからない花をくれた。

 感動して涙ぐんでいるわたしの脇に、三人はしゃがみこむ。わたしを慰めてくれる――というわけではなく、わたしの足元にいるコロを「よしよし」と撫でている。
 わたしみたいなのに話しかけてくれたのは、コロがいたからだろう。

「ありがとう。ありがとうねえ」
 鼻を鳴らしていうと女の子たちはぽかんとして、怯えた様子になって、べつに、といった。
 仲間どうしで顔を見合わせると、逃げていった。
 コロ、ありがとね、と、飼い犬の背中を撫でているわたしを、三人のうちのひとりが振り向いた。
 けど、わたしのうしろを見て目を見開いた。それからはもう振り返らず、たーっと急いでクヌギの木の裏に隠れてしまった。

 うしろには、わたしの弟が立っていた。
 いつの間に来たのだろう。
 わたしが目をこすつているのに気づいたみたいだった。「なんで泣いてんのん」といわれた。わたしは「泣いてなんかない」と答えた。
 リクは一度、キッと林のほうをにらみつけたけど、次にはわたしの前に回って泣き顔を確認しに来た。

「泣いてるやん!」

 わたしが花をもっているのに気がついて、それを奪い取った。

「あっ」
「こんなもの」
「ちがう。もらったんだよ。さっきの子たちに」
「ふん。フジモリの妹たちじゃん。あの団地の」

 リクはくんとピンクの花のにおいを嗅いだ。それからわたしに差し向けた。
 返してくれるのかとおもったら、ぴっ! とわたしの目の前で花弁を引き抜いてしまう。

「ああっ」

 リクは静かな声でいった。

「大丈夫」

 そしてひらりと花を落とした。

「明日はいいことが起きる……」「お母さんに怒られない。大丈夫……」「テストでいい点取れる……」「ピアノの先生に褒められる……」「晴れる……」「おいしいもの食べれる……」「ユカワの奴が転校する……」

 ぴっ、ぴっと引き抜いて、花びらは全部取れてしまった。
 ガクや葉っぱまで引き抜いて、茎だけになるまでリクはそれをつづけた。ひとしきり済むと、リクはお終いとばかりにうしろに放り投げた。

「帰るぞコロ!」

 大きな声を出して、わたしからコロのリードを奪うと、身を翻して公園の外に出ていってしまう。
 林のほうから女の子たちの悲鳴が聞こえた。花びらをちぎり捨てるリクの行動に、「はぁーっ!?」と声をあげている。
 それも耳に入らないかのように、リクは坂を駆け上がっていく。リクは足が速かった。六年生のなかで一番だと聞く。びゅんびゅんと走って、コロにもさらに走らされて、坂の上の住宅街に消えていく。

 あっという間に見えなくなった。サアと風が吹く。わたしの傍を吹き抜けて、落ち葉がわたしの足元にすべりこんだ。それを踏みつけてみた。乾いた音が立った。
 当たりばっかりの花占いの残骸を踏みしめて、わたしは立ち上がると、坂の上を見あげて追いかけていった。








11/13/2024, 9:25:41 AM

スリル。
小説。









 出前館さんやウーバーさんは、動きやすくて清潔感のある格好をしている。片手に端末を持って、商品受け取り口へまっすぐにやってくるので、ぱっと見で判別ができる。

 お客さまへは「いらっしゃいませ!」といい、出前館さんやウーバーさんには「お疲れさまです」という。

 ぱっと見で客か、ウーバーさんたちか見分けられるしかも百発百中の先輩がいる。

 その日は大雨で、夏はもうこれっきりというような荒れた天候だった。
 店内はガラガラだった。雨やどりにときどき人が入ってくるくらいで、あとはフードデリバリーとネットテイクの注文が届くきりだ。

 こんな日にウーバーなんてと俺は思うが、ウーバーさんのなかは「楽しいじゃないですか! こんな日こそ!」「平気ですよ! 好きなんです」と言っている人もいる。こんな日に商品を取りに来てくれるのはそういう配達員さんだ。

「スリルですよ」
「スリルですか」
「じゃッ。お疲れさまです」
「お疲れさまです。おねがいしまーす」

 俺は、せめて事故に遭わないようにと祈りながらウーバーさんを見送った。
 入れ違いでつぎのお客さまが入ってきた。
 蛍光オレンジ色のつなぎを着たお客さまだった。

 ウーバーさんかな、出前館さんかな、見たことない配達員さんだ、と思いつつ、「おつかれさまでーす」と声をかける。
 若いお兄さんははにかんだ。
「番号おねがいしまーす」と俺はいった。
「すみません。ネットで注文していたN0010です」といわれた。

 ウーバーじゃなかった。
「ウーバーかと思ったわよねぇ」とフロントの田川ナミ子さんにも囁かれた。

「服がね、あれだものね、世良くん」
「オレンジですからね。俺、間違えましたよ。お疲れさまですって言っちゃいました」
「あたしも。焦っちゃったわ」
「スリルですねぇ」
「はァ?」

 オレンジのつなぎのお兄ちゃんが雨の中を走り抜けているのが見えた。
 店の前のタクシー乗り場脇に、ゴミ収集車が止められていた。
 ゴミ収集車のお兄ちゃんだったのか。
 ゴミ収集車には運転席にもひとり乗っていて、お兄ちゃんに向かって助手席の扉を内側から開けてあげていた。
 いっしょに食べるのかなとおもっていると、ナミ子さんが、「おいしいもの食べてほしいわね」といった。

「そうですね」
「お疲れさまよお」
「お疲れさまですね〜」

 時間帯責任者のウルシバタさんが、そのときうしろから飛び出してきた。

「ええーい帰りましょう! あと一時間で店を閉めます。店は十五時までね。わたしと世良くんは残ってクローズ。ナミ子さんは十四時で上がっていいわよ」
「やったー!」

 ナミ子さんがお疲れさまでーすとフロントでくるくる回る。
 それを見て、雨やどり中のお客さまが笑っていた。








読了ありがとうございました!

11/11/2024, 10:32:21 AM

ススキ。
小説。
昨日(2024/11/10)のテーマです。











 ミナミの声がうるさすぎて、アップルウォッチから音の大きな環境!!! って警告がきた。
 なにごとかと思って目を向けると、ミナミが玄関口で震えている。哀れに腰を抜かし、へたりこんでいた。
 ミナミがコロの散歩に行こうと玄関に向かったところだった。

「あ、あ、あ」
「ミナミ〜どうした〜?」
「あ、あ、俺……俺……」

 ミナミは足元を見下ろして、ふるえている。
 コロは飼い主の友だちに寄り添ってくんくん鳴いている。
 またか。

 ミナミはここ最近おかしい。なんかよく震えている。幻聴が聞こえるんだとか。耳鳴りもするし、寒気もするという。寝不足なのと、就活のストレスでイカレているんだろうと、俺とかカスガは思っている。直近、彼女に振られたことも関係あるのかもしれない。一昨日は、「しらない女が寝ている俺の足首をつかむ」と言っていた。

 それで、俺たちがミナミといっしょに泊まることになったのだ。俺と、ここにはいない――今さっきコンビニに行ったカスガと、おなじサークルのアキチカで泊まることになった。カスガの家に。

 カスガの犬のコロが俺に駆け寄ってきて、ミナミのほうに促した。
 実際、昨夜、ミナミに怪異は起こった。
 俺たちもはっきり聞いた。
 俺としては、怪異と思えないし、思いたくないんだけど……。
 と、いうのも、昨夜俺たちが遭遇したのは、『しらない女が足首をつかんでくる』怪異じゃない。姿も見ていない。足首をつかまれもしなかった。ただ、足音が、コツコツコツと部屋の外でしていた。

 昨日は雨だった。だから、雨音だと俺は思っているのだ。
 雨の音だよといって主に俺がミナミを励ましていたのに、それを裏切るように連続的なコツコツコツという音は、俺たちのそばまで迫りきて、俺たちの部屋の前で止まった。
 緊張が高まりきる前に叫んだのは俺だった。みんな不意打ちで固まっていた。「幽霊はさ! エロい話してたら近寄ってこれねぇんだぜ!? 知ってたか!?!?」と叫び、真夜中の二時に下ネタを連呼した。それが俺的除霊法だった。アップルウォッチに音の大きな環境!!! といわれた。

 アップルウォッチからけたたましい着信音が届いたのは、そのときだった。俺の渾身の下ネタがかき消される。
 着信は非通知だった。深夜二時にうるせえよ馬鹿。電源を落としても関係なしに鳴り響いてくる。「とにかく寝ろ」とカスガになだめられながら、俺たちはなんとか一夜を耐え抜いた。

 もうこりごりだった。寝不足どころじゃない。ストレスでイカレそうだ。
 ミナミへの同情心も尽きてきて、俺は、こいつといっしょにいたら俺まで呪われる、と見放したい気分になる。
 足音は明け方までつづいた。
 あれ、上の階の人の足音っしょ、昨日ダンスパーティーだったんだよ、と俺はミナミとアキチカを励ました。ふたりとも相槌すら打たなかった。そんなわけないって俺だってわかってるけどさ、俺だってキツいのに、そういう顔やめてくれねぇかな。

 ふたりがのろのろ着替えているのを横目に、俺はカスガに当たり散らしてた。
 音というのは案外、跳ね返ったり、物に吸収されたりして、自分が思っているより変な方向から聞こえてくることがある。昨夜の音もそれだったんだ! 天気が悪くて、ミナミがおびえていたから、過剰に反応してしまったたけで、怪異なんてなかったと、我ながらこじつけに近い説得を繰り返した。
 カスガは黙って俺の話を聞いてくれた。俺と自分用にコーヒーを淹れてくれた。
 俺の話が終わってから、

「でも、こういうところから怪談がはじまるんだろうな……」

 と、いった。

「え?」
「うん?」
「……いや、どういう意味だよ」
「どういう意味って……そうだな」

 カスガはコーヒーに口をつけて、離してからいった。

「根拠なんてないだろ? おまえの話。たしかに、音の出処ってのはわかんないよな。やまびことかあるし。音は跳ね返る。空耳もある。でも結局、あの音がそうだったかなんて根拠はないんだ。一見それっぽく説明がついてるけど、根拠がなけりゃ、舞をやったら雨が降ったとかと、おなじレベルだよ。新しい怪談を作ってるだけだ。自分が納得できる真実を捏造してるだけ」

 そういって、コーヒーをすすった。カップから口を離して、俺にコーヒーを勧めた。
 俺は機嫌が悪くなって、いらない! といった。

「本当にガキだな、ケイは」
「いらないって! おまえが飲めよ」
「ああ。そっか。ブラックじゃ飲めない?」

 ちげぇって! と大声を出す前に、被せ気味にアキチカが「俺、出かける」と宣言した。
 なにごとかと振り向くと、すでに財布を持ってそこにいる。

「なんかどうでもよくなってきたわ!」

 アキチカは、俺がぎゃんぎゃん言っているのを聞いて吹っ切れたらしかった。

「俺もケイみたいに生きるわー」
「なに? 馬鹿にしてる?」
「してない、してない。もういいんだー真実でも真実じゃなくても。俺はケイのいうこと支持するよ。信じたいもん信じる。うん! あれはお化けなんかじゃなかったね! お化けなんて嘘、嘘!」

 と、うれしいことをいう。
 ミナミは顔色が悪いままだったが、アキチカはカフェオレ飲みて〜といって、元気になってきたようだった。ミナミを奥に残して、コンビニに行くと言い出す。それで家の外にいってしまった。
 カスガがため息をついて、スマホと財布を引っつかむ。

「カスガ行くのか?」
「ああ。チカが心配だから。行くよ。ケイ、留守番頼んだぞ」
「了解。俺、爽健美茶」
「急に自己紹介やめてくれる? 俺のコーヒー飲んどけよ、キサキ・爽健美茶・ケイくん。あとさ、ケイ、俺んち最上階だから、俺んちより上の部屋はないよ」

 カスガはそう言い残した。
 俺はごくんと唾を呑み込んで、カスガを見送った。
 雨はすっかり上がって、十一月の遅い日の出にアスファルトが照らされている。

 ベランダからカスガたちを見ていた俺に、ミナミがうしろから声をかけてきた。
 ――ミナミに突き落とされるかと思った。ベランダからどーんって。ミナミが、あんまりに低い声をしていたから。

「コロの散歩行ってくる」
「えっ?」
「コロの散歩」

 いや、聞き取れなかったわけじゃないんだけど。
 ミナミを外に行かせていいのか迷った。
 見ると、ミナミの足元でコロがしっぽを振っている。
 そういえば、昨日コロはどうしていたんだろう。自分に夢中で気づかなかったけど、コロも暗闇のどこかでおびえていたかもしれない。
 そう思うとかわいそうになって、止めるのを戸惑った。
 でも迷ってから、意を決してミナミを止めた。

「やめたほうがいいよ」
「なんで」
「コンビニってすぐだろ。カスガたちはすぐ帰ってくるよ。カスガに行かせればいい、コロはあいつの犬なんだから」
「外に出たい気分なんだ……」
「……やめろって!」

 ミナミの肩をつかんだが、ミナミは抜け殻のようにぼーっとしていた。
 俺は硬直してしまった。
 俺の横をすり抜けて、ミナミは外に出る支度をしはじめた。
 ミナミは犬が好きだし、コロも俺たちの中じゃ、カスガの次にミナミが好きだった。行かせてやるのがいいかもしれない。コロも行きたそうだ……昨日は雨で行けなかったから……。
 でも、俺ひとりで残るのか?
 俺もミナミに着いていく? こんなはた迷惑な奴に着いていかなきゃいけないのか?

 ミナミはベランダの景色を見て、この部屋が最上階にあることを思い出したのかもしれない。
 お化けなんて本当にいるのか? 本当に?
 朝日につつまれていると、すべてが嘘のようなきがしてきた。
 ミナミが玄関で叫び声を上げたとき、もう俺はうんざりした気分だった。
 コロに鳴かれてそばまで行くと、ミナミは首を出して玄関の外を見ていた。

 黒っぽく雨で濡れたコンクリートに、足跡あった。大人の男のサイズで、きちんと両足そろえて、この部屋につま先を向けている。足跡のまわりだけが白く乾いている。まるで濡れた靴でこの場所に立ち尽くし、男の体で傘になった部分だけが濡れずにあるみたいだった。

「やっぱり、やっぱり、俺は呪われてるんだ……! なんで、なんでだよ! あいつか、あいつのせいか。俺が悪かったのか悪かったのか?! あんなの、みんなだれだってしてるだろみんなっ!」
「落ち着け、ミナミ」

 ミナミは全身から振り絞るような声をあげ、泣き崩れ落ちてしまった。肩がびくびくと跳ね上がり、背骨がまっすぐ立てられないというように曲がっている。

「ミナミ、聞け」
「ごめん……ごめんケイ……許してくれ」
「ミナミ!」

 すがりついてくるミナミの腕をキツクつかんだ。

「ミナミ聞けって! おまえは大丈夫だから。呪われてなんかない。大丈夫だから。大丈夫。だから俺を見ろ! ミナミ!」

 ミナミの顔からぽろっと涙がこぼれ落ちるのを見た。

「嘘ばっかり……」
「俺は嘘をつかない」
「嘘だった……上の階なんて。俺を慰めるために言ってんだろ。どうせ。どうせおまえは優しいから……」
「違う」

 俺はミナミの耳に手を添えて、上を向かせた。

「よくよく考えてみろよ。上の階がないから、足音は雨の音かなんかだ。あんなに大雨だったのに、はっきり足音が聞こえるなんておかしいんだよ。雨漏りかなんかしてんだよこの家は。アップルウォッチは信用するな、ああいう人柄なんだアップルウォッチは。信用するな。それに、その足跡も、お化けなんかじゃない」

 俺が指をさすと、ミナミもそれを振り返った。

「ミナミ、おまえがこれまで見たお化けってやつはどんなだった?」
「……どんな?」
「寝てる間に足首をつかまれたんだろ」

 思い出してぶるっとふるえるミナミの肩を撫でさすった。

「こわい顔をしてたよ……すごい目で俺を見ていて、顔が青白いんだ。ひと目で生きていない、ってわかる顔……。でも俺にはこころ当たりがないんだ。本当に。見たことない、あんな女……」
「それだよ!」
「え?」
「見てみろよ」

 玄関先にあるのは男の足跡だ。
 ミナミは動転して気づかなかったかもしれないが、今回俺たちに起こった怪異のようなものは、脈略ってものがなさすぎる。全部環境に都合がいいんだ。連続的な音がするから足音だとか、雨が降ったから足跡だとか。これまではミナミの部屋に出ていた怪異が、カスガの家に移動した途端中に入って来れなくなるのがピンと来ない。つか、足音なのに足跡が残ってるってなんだ。ここで幽霊は足踏みでもしてたのか? ミナミより先に出たアキチカたちは足跡に気づかなかったのか? ……アキチカは気づかなかった可能性はあるな。でもカスガは気づくだろう。気づいたのになにもいわなかったのか? カスガはこれが怪異の仕業じゃないとわかっていたんじゃないだろうか。
 俺はカスガの家の靴箱を開けた。
 これは俺が以前カスガの家に来たときに気づいたものだ。ミナミはしらないだろう。

「それ……」
「うん」
「なに」
「防水スプレー」

 男の足跡の正体は、これだ。

「それはカスガの靴の跡だよ。ほらぴったり」

 防水スプレーといっしょに拝借したカスガの靴を当ててみると、ぴったり当てはまった。……いや、ちょっと足跡のほうが小さいか? 雨が止んだのは数時間前のことだ。今は太陽が照っている。少し乾いたのかもしれなかった。

「ぴったりだろ? ともかく、これが真相だよ。カスカは臭いが嫌だったんだろうね、防水スプレーの。カスカはこの場所に靴を置いてスプレーを使った。それで、まわりの地面が靴の形に防水された。スプレーの当たらなかった靴の真下と、靴から離れたところが雨に濡れて湿って、この足跡が浮きあがった、ってのが真相さ」

 俺は早口にしゃべり終えるとミナミを見た。
 ミナミはすっかり俺に感激して、ぽっかり開いた口で「すごい……」と声をもらした。

「だから、大丈夫だから」
「……うん」

 頭をくしゃくしゃに撫でるとミナミがうつむいて目を擦った。

「ケイは馬鹿だな」
「はっ?」

 けしからん発言が聞こえて振り返ると、カスガがうしろに立っていた。
 今までの話を聞いていたらしい。
 エレベーターの音、聞こえなかったんだけどと思っていると、階段のほうからアキチカの息遣いが聞こえてきた。階段で上がってきたのかこいつら? こいつらのほうが馬鹿じゃね?
 アキチカ、筋トレしてムキムキになりたいっていってたもんなーと思って待っていると、アキチカもようやく俺たちのもとにたどり着いた。

「キエエーーーー! 足跡!」

 それから初見のミナミとおなじように叫んだ。

「おかわり。間違えた、おかえり」

 アップルウォッチが音の大きな環境です!!! といった。



 俺の鮮やかな推理を披露すると、アキチカもすぐに納得した。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花、だな」

 そう晴れやかな笑顔でいって、俺を満足させた。ふふ。名推理だろ。

「あっ。おい聞いてよ。おまえらの朝飯買ってきたぞ」
「助かるわ。サンキュ〜アキチカ」
「褒めてつかわすぞ、アキチカ」
「ケイにはやらんねぇわ」
「なんで!?」
「俺が作ってもよかったんだけど」
「三人分も作るの大変っしょカスガ! こいつらには菓子パンでも食わせておけばいいよ」

 菓子パンでもとはなんだ! とミナミがアキチカに食ってかかる。
 ばたばたと部屋に入っていくふたりを見ながら、俺は防水スプレーとカスガの靴を靴箱に直していた。

「ん?」

 靴箱を覗き込んだとき、さっきは気づかなかったものに気がついた。
 奥の張り紙がある。いや、張り紙じゃない。靴箱の奥の壁には、御札が貼り付けられていた。

 俺たちは、なんで俺のでもアキチカのでもなく、カスガの部屋に泊まることになったか――そのことを、俺は今思い出した。カスガが俺んちは安全だからといって、力説していたからだ。
 なんで、今までミナミの近くに出現していた怪異が、今回はカスガの家には現れなかったのか――そのことについても、俺は……。
 俺のうしろで靴を脱いでいたカスガがいった。

「最上階だろうが、玄関前の廊下に屋根ぐらいついてるだろ。昨日は玄関前に吹き込むくらいの横降りだったか? コンクリをびっちゃり濡らすくらい? 階段でのぼってくるときに、ほかの階を見たよ。ほかの階はこんなに濡れていなかった。……」

 カスガは俺を押しのけて、靴箱を開いた。
 カスガの家の靴箱は引き戸だ。俺は右側の戸を開いていた。
 カスガは左側を開けた。左側は――玄関に近いほうだ。そこを開けると、そこにも御札があった。御札は、血濡れたように赤くなっていた。
 カスガがカリカリと爪を立てて剥がす。

「そもそも俺は、外で防水スプレーなんてしてないしな」

 馬鹿だなというように、俺の頭を撫でる。











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