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静かな情熱。















 先週末グランピングに行った。グラマラスかといわれると微妙だった。グラマラスなキャンピング、グラマラス抜き、寒さ厳しめ、設備ボロめ、っていう感じだった。

 山小屋から少し離れたところに便所があった。「便所」と書かれてあり、小便器と個室がひとつという具合だった。

 夜は案外明るかった。木々の奥こそ暗く、闇で行き止まりになっていたが、空は曇りで、灰色が見えて、小雨が降っていた。


「外から鼻歌を歌う女が近づいてくるかもしれませんが、それは怖さを紛らわすために気丈に振舞っているだけの私なので、警戒しないでください」

「外から開けてといってくる女が現れるかもしれませんが私は鍵を持っていっているのでそれは偽物としてやり過ごし、絶対に耳を貸さず、絶対に開けないでください」などと言いつけ、便所に向かった。

 父親が、そんなに怖いなら着いていこうか、といってくれたけど、さすがに情けないので震えながら行った。
 家族とのキャンプは久しぶりで、色んなことを話したけど、さっきのはさすがに口がすべった。洒落にならなかったかもしれない。昼間、ここで昔、自殺があったという噂話を聞いたばかりなのだ。

 物音ひとつない、静かな夜だった。
 怪談をすることで、恐怖におびき寄せられて怪異がやってくる、なんてこともあるんじゃないだろうか? お化けがいる、いる、と聞いたら、本当に思えて、枯れ尾花もお化けに見えてしまうような。あるいは、私のイメージが広まって本物の怪談になってしまうようなことが、あるかもしれない。

 私がああいったことで生まれる、近づいてくる、鼻歌を歌う濡れた女……。
 今日本当に、お化けを見てしまうかもしれない。
 そんな妄想していた。けどそれどころじゃなくなったのは外に出てすぐだ。

 足元が暗く、雨と落ち葉で道は滑りやすかった。
 便所は、車道から少し逸れ、少し降りたところにある。ここは川岸だった。お化けの怖さより、転倒の怖さが勝ったというべきか。そのころふっと気持ちが楽になり、怪異は出ないだろうと思いはじめた。なぜだろう? いや怪異をそれほど積極的に信じていたわけでもないけれど。なぜか、出るなら向こう岸だ、こちら側じゃない、と思った。

 死体を埋めに来た殺人鬼の気分だった。視界には白い息が上がり、落ち葉は雨で濡れ、しゃくしゃくと柔らかい感触を足裏に伝えた。懐中電灯で照らされた範囲は狭く、そこのコントラストが映像みたいで、ドラマや映画なら、ジャンルはホラーじゃないと思ったのだ。サスペンスか、ミステリー……。怖いのは、人間、って感じのやつ。

 鼻歌を歌わずに小屋に辿りついた。
 中は、寒くもなく、暖かくもなく、電灯の光で満ちていた。家族は顔も上げずスマホをいじってこちらを見てない。私は私自身が幽霊になったかのような、一瞬、陶然として、なにか風が通り抜けていったような、前もここに来たことがあるような不思議な心地がした。けれど多分気のせいだと思って、後ろ手に扉を閉めた。


 キャンプに行って泊まって帰った次の日、風邪を引いた。
 夢の中でわたしが持っていたのは斧だった。
 便所に行くときの、持っていた傘はなく、レインコートで視界に割り込んだレインコートの裾には、血が飛んでいた。

 ところで遠くから殺人鬼が鼻歌を歌いながらやってくるのはなぜだろう。
 こういうときに歌う歌はあらかじめ決めておくべきだった……と思いながら、私は斧を引きずって便所に向かう。
 私は高揚した気持ちのまま熱い尿を便器に叩きつけた。股を拭うと、そうしてまた元の山小屋まで引き返していった。


 川のこちら側は此岸であり、私は勝者であり、生き残り、怪異になる側なのだった。

 風邪のときに見る夢ってのは変なもので、自分で嬉々として歌を歌いながら、自分がこれから家族を殺すことになるのに恐怖しているのだった。役に乗っ取られたように身動きの取れない体でぶるぶると震え冷や汗をかきながら、なぜ歌うのか、なぜ自分で開けないのか、中の人間に鍵を開けさせるのはなぜなのか、なぜ殺すのか、なぜ家族なのか、込み上げてくる尿意と、髪を振り乱したくなるような衝動が、頭のてっぺんまでどうしようもない焦燥感として突き抜け、頭がくちゅくちゅしてきて、おかしくなって、ぼろぼろ、ぼろぼろと、仰け反りながら私は涙を流していた。冷たい雨の中で体をビクビクと痙攣させ、それでも一歩、一歩、山小屋へ足を前に進ませているのは、静かな情熱――殺人への、静かな情熱からなのだった。










4/17/2025, 7:50:52 PM