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冬になったら。
小説。
何日か前のテーマです。











 長野県木曽郡木曽町・王滝村と、岐阜県下呂市・高山市――御嶽山はそこにある。東日本火山帯の西端に位置していて、標高は3,067 m。複合成層火山だ。
 弟は御嶽山で働いている。いわゆる山小屋バイトだ。
 大学二年生のころからはじめて、今年で四回目になる。夏休みに二ヶ月、卒業してからは六月から十月の四ヶ月間、働いている。

 朝の四時に起きて、五時半までに清掃と調理を終わらせる。五時半からが宿泊客の食事時間だからだ。自分の食事は皿洗いをすませて、八時ごろ。
 昼食までは少し時間があって、それまで持ち回りで館内のそうじをするらしい。弟はSNS担当だったので、朝十時ごろに山小屋のFacebookを更新していた。
 ランチは十一時から十三時までの二時間営業している。ランチのあとは職員には昼休みがあたえられた。天気がいい日には職場の人と山を登ることもあったそうだ。

 夏前に登って、夏がおわったら帰ってくる。
 父さんも山の仕事をしていた。父さんは山岳警備隊員で、遭難者の救助に出たときに雪崩に巻き込まれて死んでしまった。
「血かしらね」とつぶやくお母さんの頼りない声を、聞いたことがある。
 結婚してもわたしが実家を離れられないのは、こういうところがあるからかもしれない。
「あなたたちだけはせめて、って山から遠ざけていたのが悪かったのかしらねぇ」とお母さんは言った。「お父さんも、山馬鹿だった……」
 年中山に勤めているお父さんと違って、トウヤは夏を過ぎれば帰ってくる。「夏が過ぎれば……」わたしはそう言って励ますしかなかった。

 トウヤはあの山のなにに魅入られているんだろう。
 山のてっぺんのほうが、天国が近いのだろうか。いつか帰ってこなくなるんじゃないかと思うと、トウヤの仕事を心から応援できなくなるのだった。

 その日はうなされて目が覚めた。ああ、寝過ごした、って思いながら起きた。焦りながら起きるなんて、最悪だ。最悪な朝だ。寝過ごしたって自分でわかっていた。早く起きなきゃいけなかったのに。
 仮眠するだけのつもりだったのに、随分深く眠っていた。
 お母さんは、がんばりすぎよ、とか、産後なのよ、とか言ってくれるけど、どう休んだらいいかなんて分からなくなっている。
 マフユは大人しい子で、夜泣きもほとんどしない。けど、そろそろ目覚めるはずだった。
 いつも猫が鳴くようなふにゃふにゃした声で呼んで、こんなにやわらかくて、生きていけるのかしらと思うような肌をしている。なにもかもがちっちゃい……。わたしは少しもこの子に我慢させちゃいけない気持ちになる。すぐ駆けつけて、この子がわたしにしがみついてくるのを見ると、ああ、と涙が出てきそうな新鮮な感動を、今でも持つ。がんばらないなんて、意味がわからない。

 マフユは……。
 マフユを探して、うすら目を開けると、わたしのお腹の上で猫が寝ていた。ぷーっといびきをかいて寝ている。わたしがうなされた原因はこれらしい。
 猫に体を封じられながら、首だけを動かしてベビーベッドを見る。
 マフユは、泣いていないみたいだけど、どうしてるだろう。マサヒロさんが見ててくれたのかな……それとも、お母さん?
 冬の遅い朝日が部屋に差し込んでいる。
 カーテンに切り取られた黄色い光の中に、だれかがいた。男の人だ。男の人が、ベビーベッドをのぞきこんでいる。丸まった、広い背中……。
 お父さん――。
 わたしは泣きそうなのをこらえて、べつの言葉を口にした。

「おかえり……」

 わたしの赤ちゃんをこっそり覗きこんでいたトウヤは、わたしを振り向くと、雪も溶けそうにはにかんだ。








たくさんの想い出。

 アルバムというものに縁がない。
 十二歳の夏に両親の離婚で、田舎に引っ越して、卒業のときにもらったアルバムにほとんど俺は写っていなかった。中学のころは不登校で、高校からは通信制の学校にした。学校行事はほぼ参加しなかったし、参加しなきゃいけないときでも、写真に写りたくなかったら、避けてていいよ〜と言われた。アルバムを作るのは作りたい人だけでよかった。
 そもそも実家にもそういう文化がない。みんな根暗で、インドアだったし、俺は四人兄弟の末っ子で七五三もしなかった。
 だから、「写真整理をしてて懐かしくなってさ」なんて理由で連絡してくる奴なんて、信用ならないのだ。

「ほら、オレオレ。覚えてない? 小学校のころいっしょだっただろ。中学もいっしょだった。クラスは違ったけどな。当ててみろよ。俺の名前。言える? ヒロセマサタカ〜? 言える〜?」

 俺は電話を切るべきか迷った。迷って、切らなかった。
 なんで俺の名前を知っているんだろう。
 電話の向こうの男は、ミナミ小の同窓会の主催をしていて、それで俺に誘いをかけてきたのだそうだ。ミナミ小は俺が親の離婚後に通っていた小学校で、男が語る数々の思い出――当時の担任の名前や、卒業式で歌った曲に矛盾はなかった。

「……詐欺かなって思ってさ」

 一昨日あった電話についてそういうと、二つ年上の兄は首を傾げた。

「えー? なんで? 担任の名前合ってたんだろ?」
「うん」
「旅立ちの日に歌ったんだろ?」
「うん。けどさ、そんなことって、調べれば分かるだろ? 俺みたいに同窓生を騙して聞き出すとか」
「調べてなんの意味があるんだよ!」
「だから、詐欺とか」
「はーっ!? おまえみたいなフリーター、わざわざ狙うかよ!」

 それをいわれたらなにも言えない。

「で、同窓会は断ったんだな、マサタカ。まあ、それがいいよ、大体、昔の知り合いって奴らはな……」
「いや、行くことにしたよ」
「はーっ!?」

 おまえと話すの、めんどくせー! といって、アキは電話を切ってしまった。
 俺はため息をついて店内にもどる。
 同窓会前に、個人的に会わないかと誘われ、俺は今電話の男と待ち合わせをしている。俺が喫茶店に入ったのは午後四時ちょっと前。サガミケンゴは、アキの電話より少し前に、遅れると連絡してきた。
 これからなにが起こるんだろう……。
 サガミが来るまで気晴らししたかったが、兄以外に電話をかける友だちもいない。適当なスマホゲームをして、コーヒーをすすった。

 サガミケンゴというのは、たしかに小学校からの同級生の名前だった。
 サガミケンゴは中学三年の夏に事故死したはずだ。
 詐欺だとしたって、わざわざ死んだ奴の名前を騙ってくるか?
 いっそ会わないほうが気味が悪くて、人目のあるところで会う約束をしたけど、土壇場になって怖くなってきた。
「積もる話もあるしさ!」といって、サガミは誘ったが、積もる話なんてこっちにはない。あるはずがない。
 生きていたサガミとは、クラスが同じ以上の接点はなかった。サガミは中三で死んだ。ありふれた交通事故だった。サガミが飛び出した。サガミとその日遊ぶ予定だったという、同級生の友だちの、友だちと、同じ美術部員から教えてもらった。サガミは、待ち合わせに遅れていたそうだ。

 こんなことなら、アルバムなんて捨てなきゃよかった。
 俺はサガミの顔を覚えていない。死んだのが本当にサガミだったかも今じゃ疑わしい。俺の記憶違いってことはないだろうか? 学生時代の記憶は封印していた。実家を出てから、俺は一度も地元に帰っていない。
 待ち合わせから一時間以上経っていた。
 緊張感がつづかなくなって、俺は席を立った。トイレに行くと人が入っていた。待つか、もう店を出るかで迷った。
 そのうちに俺のうしろに人が並びはじめた。男ひとりだ。
「すみません……」
 と、いって、俺は横を通り抜け、立ち去ろうとした。

「――ヒロセマサタカ?」
「え?」
「ヒロセマサタカじゃね?」

 息が止まるかと思った。
 俺は相手の顔もよく見ずに、「人違いです!」と叫んで、その場を飛び出した。モスグリーンのコートだけ目に入った。
 席にもどり、鞄をひっつかむと、慌てて会計をして外に出た。
 心臓がバクバクいっている。
 はじめは早足だったのが、速度を上げ、いつの間にか俺は走っていた。散歩中の犬に吠えられたり、人に怯えられたりしながら、家路を急ぐ。ここまでくれば、あいつは追いついて来られないだろうと思った。振り向いてもいないし、追いついてくるはずがない。

 俺のうしろから車が駆け抜けて行ったのはそのときだった。
 ものすごいスピードの車を振り返ると、すぐそこの横断歩道で大きな音がした。ドッ! というような、ボッ! というような。
 視線の先でさっきの車がひとり人を轢き逃げ、その向こうのコンビニに頭から突っ込んでいるところだった。
 すぐ近くで起こった事故で、轢かれた人の服装まで分かる位置にいた。轢かれた人の服はモスグリーンなんかじゃなかった。呆然と俺が立ち尽くしていると、人が駆けつけてきて、轢かれた人の知り合いだったのか、その人の名前を叫んだ。「ケンゴ! ケンゴ! ケンゴ! ケンゴ! ケンゴ! ケンゴ!」

 俺は声にならない悲鳴をあげると、またもや駆け出した。
 アキの番号を呼び出して、アキが出てくれるのを待った。アキは出ない。ハッハッ息を荒らげながら、俺は呼び出し音を聞きつづける。
 冬の日暮れは早い。
 アキへの呼び出しをやめて、すぐ俺に電話がかかってきた。折り返し電話だと思った。アキからの。

「アっ、アキ!」

 俺はすぐに電話に出た。

「あ、もしもし? ヒロセマサタカ〜? 遅刻してごめん。ちょっと外せない用事あってさ。ちょっと言えないんだけど。本当反省してる。飯奢るし、いくらでも飲んでいいから。俺、車持ってるから。俺、車好きなんだよね〜。今から行くわ。今、家なんだ。十五分で着くから。ごめんな〜めちゃくちゃ待たせて。今、行くから、ヒロセマサタカ」












宝物。

 大事なものはみんなベッドの下に落ちていく法則があって、探し物があるときは大抵ここを覗き込めばいい。
 お気に入りのブランケットとか、貰い物の万年筆だとか、高かったイヤホンとか。思うに、寝る前に抱きしめたり、眺めたりしているから落ちてしまうんだと思う。
 ベッドと壁の隙間から転がりでてきた結婚指輪を握りしめて、わたしはほっと息をもらす。

「ごめん、見つかったよ」と声をあげて夫に知らせた。
 ……返事がない。
 わたしが「指輪なくしちゃった」と言ったとき、夫はすかさず「またプレゼントしてあげる」と言ってくれた。「ありがとう! 見つかったよ」と、わたしは叫ぶけど、夫の返事はない。

「ねぇ、本当にごめんなさい。あんなに騒いで……指輪、見つかったからさ……」
 夫の部屋を覗きこむと、夫は、ベッドの上で物を探していたような体勢で、ベッドと壁の隙間に嵌りこみもがいていた。



12/2/2024, 1:27:29 PM